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真面目に世界の安全保障について考えてみた

※これは以前FBに投稿したシリーズ第6弾です。昨日は主に政治ネタを中心の文章でしたが、今回は国際安全保障ネタをメインについて記したものです。

2016/1/9【安全・治安保障とは...】
英国に来て様々な分野について友達と議論してきました。死刑や核兵器、対テロ戦争、暗殺の賛否、(中東から欧州への)移民問題、(パリ同時テロ後の)イスラム排斥問題等です。そしてそんな日々が続く傍で、修士論文のアイディアを模索している中ふと思ったのが「日本の安安全保障/治安保障」についてでした。ここでは何となく思ったことをブレインストーミングだと思って記します。国際法に触れたことがある者は国際法では戦争を禁止し、国連憲章51条で認められている自衛目的以外の武力行使は認められていないと学びます。日本国憲法9条では上記全てを禁止し、戦力の保持から自衛権、国際紛争解決の手段としての武力行使行使を条文的には封じています。「自衛隊」という警察から進化した軍があり、自衛権自体も政治的には存在しますが、これはあらゆる法の穴をくぐってきた代物であり、最高裁判例を根拠にするのではなく、国家として国際社会にその「立場」法的に明確にするべきなのです。よくコスタリカ憲法を平和憲法の比較対象とする人がいますが、そのコスタリカ憲法12条では「The Army as a permanent institution is proscribed. For the vigilance and conservation of the public order, there will be the necessary forces of police. Military forces may only be organized by a continental agreement or for the national defense; one and the other will always be subordinate to the civil power: they may not deliberate, or make manifestations or declarations in an individual or collective form. (常設的機関としての軍隊は禁止する。公共秩序の監視と維持のために必要な警察力は保持する。大陸間協定により又は国防のためにのみ、軍隊を組織することができる。いずれの場合も文民下で常に従属し、単独又は共同して、審議することも声明又は宣言を出すこともできない。)」つまり常設軍は保持しないが自衛のための武力行使は認め、国家防衛のために軍隊を再編できると明記し、また「米州相互援助条約」を根拠に集団的自衛権の行使も認めています。仮に今後も日本が憲法9条を盾に武力紛争を避け続けた場合、日本は国際社会からの信頼が揺らぐ可能性があります。確かに経済的な側面から日本が国際的地位を完全に失うことはないでしょう、しかし現在国連安保理非常任理事国である日本が新たに見え隠れしている脅威への消極的対応が響くのは間違いないでしょう。更に言えばあらゆる手段を用いて太平洋での覇権拡張を争う中国と米国の間に挟まれている日本が主権上の一権利である「自衛権」を放棄し、抑止力なしに超大国へ対抗することは難しいでしょう。最後に日本がテロの標的になりつつあるのは紛争介入しているからだと言われてきましたが、実際は日本人がテロについて考えるようになったのがここ数年だからであり、分析官や専門家の育成を怠ったからです。日本でも複数のテロ事件が起こっており、1995年には日本で先進国では珍しいバイオテロがありました。これを「テロ」という人は少ないですが...しかし、それ以降も依然として日本では死刑制度があっても対テロ措置はほぼ存在しません。確かに日本にも公安調査庁や警察庁国際テロリズム対策課等の対内テロ組織は存在しますが、国家外からの脅威に対抗する手段はなく、一般人の危機意識を変えるだけの力もありません。米国指導の対テロ戦争はそもそも集団的自衛権の行使から発展した長期紛争であり、テロがなくならない限り(おそらく不可能ですが...)終わりません。日本が協力すべき点は国際平和達成のためにに国際社会が必要時に必要な物・手段(武力行使を含む)を提供することであり、一貫しての資金提供や一国の恣意的理由での権利行使であってはなりません。今回の「安保法制」が前者のために必要な手段である限り保持すべきですし、専断的道具となった場合は廃止にするだけです。憲法は国家権力を縛るためにありますが、同時に国民を守るためにもあります。憲法が成立時から恒久的に固定されれば良いわけではありません。米国憲法が時代によって「修正」され続けているように、日本も国民に牙を向けた時に形を変えるべきなのです。

2016/3/23【ISISのまとめ】
パリやブリュッセルと欧州でのISISによるテロが多発している。日本では報道はされても深刻な問題であると認識されず、「またか」と思うくらいなのだろう。欧州は中東と地続きであり、紛争地域から逃れる難民に紛れて入国するテロリストは少なくない。6月の英国のEUに関する国民投票が近づく中、こうした欧州をターゲットとするテロはますます英国人、欧州人の安全保障政策への積極性と難民に対する警戒心を煽っているのは否めない。自分の修論のテーマでもある「テロリズム」は21世紀に入ってから特に深刻な課題なのに国家による有効策が欠けているのが現状だ。派兵は自国の世論が納得しない、爆撃は民間人への被害が酷く難民と新たな反西洋感情が生まれてしまう。不適切な経済援助は格差を、技術支援は争いを、教育は差別を生んでいる。テロの温床と認識されてしまっている中東が立ち直るための立役者はもやは国家ではなく、企業ではないのだろうか。国益ではなく、収益を追求する企業に問題がないわけではないが、国家と違い外交的な柵や世論による抑止がなくなることで新たな可能性があるのではないかと考えている。今後の欧州内の動向を考察しながら修論へのアプローチを考えることとしよう。
http://bit.ly/22CZ2Jr 

2016/4/25【安全保障(国家監視社会) vs プライバシー(自由保障社会)】
テンプレな議題だが、実際どれだけの人がどこまで考えているのだろうか。個人が国家に安全保障に全権委任することで実現する「監視社会」と国家から個人権利を保護することによる「自由社会」のどちらが人々の求めているスタイルなのだろうか?線引きしてバランスの良い社会を実現するのが理想なのだとしたら、今先進国が定めている「線」はどこになるのか理解しているのだろうか。
9.11同時多発テロ以降、国家による国民の監視が強化されつつある。普段私たちが使用している端末・機類から個人情報を割り出したり、あらゆる場所に設置されている監視カメラ映像を国家はいつでも閲覧可能な状態だ。今年3月にFBIはAppleに対してカリフォルニア州で起きた銃乱射事件の容疑者の持っていた「iPhone 5c」のロック解除を求め、Appleはこれを拒否して問題は法廷へと持ち込まれることとなったが、結局はFBIは第三者の協力を得てロック解除に成功したため、アップルの協力を仰ぐことなく終結した。「国家権力は、知りたい時はいつでも国民の日常生活を見ることができる。だが果たしてそれはテロ対策に有用なのだろうか?国民の監視を強化することは安全につながるのだろうか?」そんな疑問を呈する映像(日本語字幕付き)がである。

2016/4/23【映画「Eye in the Sky」を見て】
本作はドローンを使った戦闘行為のモラルを問う内容であり、更には法的観点からも交戦規定(Rule of Engagement)を厳格に扱い、安易な手段でないことを示している。こうした司法と道義の間にある正義を考察する映画として多くを考えさせられた。「確実な一人の犠牲で多数を救う」対「一人を守り、多数をテロの危険に晒す」のとどちらが正義なのかこれは答えが出るわけではないが考えなければならないことだ。これ加えて本作品がユニークなのは「文民統制」にも焦点が当てられていることだ。指揮官(軍官)が官僚/大臣(文民)に許可を求めるのだが、文民は世論を気にして決断を回避し、「民間人を殺したことによる反応」と「テロを防げなかった反応」とで板挟みされる「責任」をなすりつけ合う。最近ドローンやそのパイロットを扱う映画が増えてきており、今まで以上にドローンの利用に対する議論が行われている。だが、本作品はそんな賛否両視点を持つ人たちの相互反応が描かれている。国際関係に興味がある人にはオススメである。
http://www.bleeckerstreetmedia.com/eyeinthesky?fbclid=IwAR2YRj2avbYUltg0MHDlfGFf6pWl29LONGnZuDliCm5uuNSkHnjfIpK88Mk

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