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38年の人生回想・中学前編(弓道編)

連日人生の振り返り投稿すみません。

きっと後から読み返せば恥ずかしくて消したくなるよう駄文かと思いますが、是非お時間許す限りお付き合いくださいませ。
写真は学生時代弓道部だった頃の写真です(左から2番目)

地元の中学校に入学


小学からほぼ同メンバーで中学に繰り上がりました。隣の小学校から、4人くらい新メンバーが加わったのみ、ほぼ全員顔見知りの中、僕の中学生活は幕を開けました。

中学に入ると同時に、父の会社で働いていた、「しんちゃん」という従業員がギターをくれ、念願のギターを手に入れた僕は、ギターの練習に打ち込むべく、一寸の迷いなく「帰宅部」を選択。が、両親から部活に入らなければギターはさせないという条件を課され、なくなく部活に入るという選択をすることになりました。

田舎の中学校に設けられていた部活は「バレーボール」「野球」「サッカー」「弓道」「剣道」の5つで、(女子はソフトテニスがありました)卓球があれば入ったのに。。。と内心落ち込んでいました。

両親が「バレーボール経験者」だったこともあり、鬼推しされますが運動と球技は大の苦手だったため、却下。
入学後の5月、部活動紹介で、ある競技に惹かれました。弓道です。

理由は「実にラクそう」と思ったからです(笑)

また、キャプテンが競技の概要を説明する際「28m先にある的のどこに当てても点数は変わりません。弓道は常に自分との戦いです」と話してて、「これだ、これなら俺にもできる」と思いました。加えて日本武道館で開催されている全国大会へ3年連続で出場しているとこともあり、日本武道館に行けるんだったら。。。という思いもありました。

「地味じゃん。。。絶対やめとけ。。。」という父の猛反対を押し切って入部しました(笑)

弓道にハマる!


しかし、弓道には見事にハマりました。。。自分のペースで競技を進行できる完全クローズスキル(外的要因によって左右されない技能)な世界。
小学校時代から集中力がないという事がコンプレックスでしたが、自分でコントロールできることに対しては、抜群の集中力を発揮できることに気づいたのに加え、練習量に比例して矢が的に当たるという快感を覚えました。

そして、学内に弓道経験者の顧問がいなかったため、市役所に勤めるおじいちゃんの外部のコーチが連日学校へ指導に来ていました。その人は弓道好きが講じて、自宅に弓道場を構えるほどでした。また、「いつでも自分のところへ練習に来ていいよ」と言っていただき、無料で弓道練習し放題という環境に恵まれました。何より自分たちが練習している間、仕事終わりで疲れているにも関わらず、終始見守ってくれていました。褒めて伸ばすのがとても上手な人で、勝負どころでは物凄く厳しい一面を持つ、まさに人格者でした。

やればやるだけ的に当たる。という事は分かっていたので、同級生3人を誘って、朝練、昼練、夕練、夕練後は外部指導者のもとで練習。休みの日も3時間は練習するという毎日を繰り返しました。外部コーチの練習先までは車で15分ほどの距離だったのですが、同級生4人の両親が交代交代で毎日送り迎えをしてくれました。今思い返すと本当によくやってくれていたなと頭が下がります。

この頃になると、自分の中の「負けず嫌い」という感情が人一倍強いということを実感しはじめます。自分のペースで競技を進行できる弓道ですが、当然的中した数によって勝敗がきまります。試合で結果が出なかったり、同級生の誰かに負けただけで、悔しくて夜はなかなか眠れませんでした。

要領がよくないのは分かっていたので、誰よりも練習だけは重ねました。

中学2年になると、だんだん結果が出て団体戦も個人戦も、地区の大会では入賞するは当たり前くらいのレベルになってきました。(全員練習しまっくてるから当たり前ですが)

中学弓道の大きな節目は、翌夏、日本武道館で開かれる全国大会出場を決める秋の県大会でした。

上位5位くらいまでは全国に行けるんですが、この秋の大会が中学弓道のサビという事は理解していたので、周りのみんなに支えてもらっているのだから団体戦で絶対に結果を出そうと同級生4人を鼓舞しまくりました。(当時の県大会は個人戦がないので団体戦のみ)全員がそれなりに的に当てないと勝てないので、とにかく暑苦しくも毎日みんなを鼓舞しました。

「一番を目指そう」「二番も最下位も一緒、二位以下は何の価値もない」という極端な考え方で、それ故他の3人と衝突することも多かったですが、とにかく練習しまくりました。

県大会優勝!


迎えた県大会当日は、もつれにもつれた結果、学校史上初の県大会優勝を勝ち取りました。優勝が決まった瞬間、同級生4人で力一杯抱きしめあった時の感触。母親が嬉し涙を流したり、外部コーチが嬉しそうに微笑んだりしている姿は今でも鮮明に覚えています。

県大会で優勝した日。中学校へ戻り解散した後、会場にいた母から一方を聞いていた父が珍しく学校へ迎えに来てくれました。夜の9時くらいだったかと思うんですが、帰り道「秀太。チャンスは誰でも必ずやってくる。ただ懸命に取り組んでいないと、そのチャンスには気づけない。懸命に取り組んだからこのチャンスを掴んで結果に変えられたんだ」という事を語ってくれました。

日本武道館に2回行かせてもらいました!(前列左から2番目)

今も自分の原点になっている言葉です。

今思うと、遊ぶところもないような、ド田舎だったのですが誘惑がなく、多感な時期、何かに夢中になる事ができる環境があった事はひとつの財産だと思います。

長くなったので、中学時代に熱中していた、ギターの話は次回書きます。
お付き合いいただき、ありがとうございます。

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