2023年にVTuberについて書こうと思ってたけど書けなかったこと

ちゃんと書こうと思ってたけど書けなかったことを2023年に置いていきます。今年の思考は今年のうちに😎
↓姉妹編と併せてどうぞ😎


VTuberと二次創作の関係について

VTuber自体の二次創作性

VTuberは同じような見た目をして同じプラットフォームで同じ活動をする。
同じゲームをするし、同じ歌を歌うし、同じ話をする。
同じようなグッズを出し、同じような目標を持ち、同じように現実でライブをしたがる。

アニメや漫画がどこかで見たことあるお話を味付けを変えて提供しているのと同じで、VTuberもその姿から活動まで固有なものは何一つ存在しない。その意味でVTuberはこれまでのアニメ的な想像力(オタク的データベース)の二次創作ないしn次創作である。
しかし、彼/彼女らは明らかに固有の存在と見える。
存在が二次創作的であるからこそ固有性が強く意識されるのではないか。

VTuberを取り巻く環境の二次創作性

わたしの観測範囲では、VTuberの二次創作はリスナーにはおおむね受け入れられているように見えるし、VTuber本人もそれを歓迎しているように見える。X(旧Twitter)にはたくさんのファンアートが投稿されており、VTuber本人がそれらを活動に使用することも一般的に行われている。

一般に現実の人間を対象とした同人誌ないし二次創作はナマモノと呼ばれ、その取扱いには細心の注意を払わなければならない。

VTuberの二次創作をよく観察すると、そのVTuberの人間的な部分は限りなく排除され、排除されないとしても極端に属性化され、あたかもアニメや漫画のキャラクターのように扱われていることに気がつく。

VTuberの取扱いにおける恣意性

ここに恣意性がある。中の人は人間的な部分には触れてほしくないが、キャラクターとしては積極的に触れることを望む。この境界は中の人のお気持ちによってなされているのが現状だとおもう。

だがそのお気持ちはいったいどこまで有効なのだろうか?
キャラクターの図像から中の人のプロフィールを読み込んではいけないのだろうか?中の人が想定していない受け取り方をされたときそれを拒否することにどのような正当性があるのだろうか?

ここでわたしがしたいのは、これらの線引きをきっちり定義すべきだなどという学級委員長じみた問題提起ではなく、多くのVTuberは原理的にそのような恣意性によって活動し人気を得ているという事実の指摘であり、リスナーが日常的に行う現実の人間をキャラクターのように、モノとして扱うことのグロテスクさの暴露である。

わたしの見立てでは、VTuberもリスナーもこの構造にうすぼんやりと気付きつつも触れまいとしている。
しかしそのような態度は、問題が表面化したとき、まだこの構造に気が付いていない無邪気な人間の不毛な議論への欲望を喚起させ無用な対立を生むのみではないか。

おそらく、中の人の特権性の解体なくして、VTuberの存在の仕方をめぐるいざこざは根本的解決の目をみないものとおもわれる
↑この無根拠な直観に多少なりとも理屈をつけられれば、清書して記事にできたと思うのだがうまくできなかった。

VTuberの固有性について

最近のAI技術の発展によって、ガワを生成することも動かすことも声をつくることも可能になっている。
ちゃんと確認したわけではないが、このような技術は表には出ないところで現実になっている。

それは十分浸透したあたりで表に出てきて問題になるだろう。
そのとき、表面上は著作権侵害などの法律上の問題で取り扱われるだろうが、本質的にはVTuberという存在の固有性をどう扱うかが問題になるとおもう。

VTuberを構成する要素をひとつひとつAIに代替させていき最後に残るのはなんだろうかと考えていくと、それは闘争、つまり訴訟の類ではないかとおもう。訴訟がオリジナリティを担保する唯一の手段になるのではないか?

ここで念頭に置いているのは、カール・シュミットの友敵理論と、田辺一の種の論理である。どちらも敵と味方を線引きし、闘争によって敵をせん滅することを是とする思想である。ちなみに友敵理論はナチスドイツの、種の論理は旧日本軍のイデオロギーの理論的支柱のひとつとされている。つまり解釈一つで評価が180度変わる理論だということである。

この懸念が現実になるとして、これを回避するにはどうすればよいか?
上で前提としているのは、VTuber活動を何らかの目的(例えばお金を稼ぐためとか)を達成する手段としていることである。つまり、VTuber活動それ自体を目的としない限りこの帰結は避けられないのではないかとおもうのだ。

企業所属VTuberのガワの権利について、あるいはVTubingという概念について

営利企業によるVTuber事業において、ガワの権利はどのように扱われるべきだろうか?
これはまだ感想に過ぎないのだが、人間の感情で金を稼ぐVTuber事業において、ガワ(姿)を資産として扱うことに倫理的な問題はないのだろうか?

海外におけるVTubingという概念も思い浮かべている。
そこで語られるのはもっぱらストリーマーのプライバシーを保護するための手段としての、売買可能な資産としてのガワである。

そのようなことが実際に行われるとしてリスナーの感情はどう取り扱われるのだろう?
この問題を置き去りにしたまま規模が拡大すると、後々結構な問題になるのではないか?企業体はリスナーの認知的不協和に起因する諸問題をすべて中の人に押し付けているのではないか?

「転生」について

「転生」とは一般に「そのキャラの姿(俗に言うガワ)での活動を終了ないし無期限休止して、別のガワで活動をはじめる」ことを意味する。

ここでは転生者の心理を考察することはしない。転生に至る外部的な事情を考察することもしない。つまり「なぜ」は問題にしない。

転生という概念が存在する事実が界隈全体にあたえる影響について考える。転生という概念を得たリスナーは、不可避に中の人の存在を意識する
そんなことVTuberなんだから当たり前じゃないかと思う感覚と、それがリスナーの態度にあたえる影響には相当なへだたりがあるようにおもう。

リスナーはしばしば、中の人として扱えばいいのか、新しいガワのキャラクターとして扱えばいいのか当惑する。中の人のお気持ちが何よりも優先される風潮が、その当惑を正しく処理する機会を奪うという点で危険であるとおもう。

また、「転生」が純粋な企業体の都合のみでなされた結果であるなら、それによって生まれるリスナーの認知的不協和は、そのVTuberから中の人への不信と、リスナー全体から中の人全体への不信という形で処理される。
これは本来企業体が負うべきものではないだろうか。
リスナーの感情で利益を得るならば、企業体が入ることに起因する感情の問題はその企業体に帰すべきではないだろうか。企業体はガワの取扱いについてあらかじめリスナーに公開しておくべきではないだろうか?

VTuberにおけるコンテンツ消費の等価性

VTuberの配信においては、コンテンツが等価に消費される。
往年の名作であれクソ映画であれ、同時視聴という配信の俎上に載せられた瞬間それはそのVTuberの映画への反応というひとつの尺度で測られる。
レトロゲームであれ最新作であれ、ゲーム配信という配信の俎上に載せられた瞬間そのVTuberの楽しみ方というひとつの尺度で測られる。

これは既存の価値体系を破壊するという点で革命的、左翼的と言える。
↑ここから何か言えないかと思ったけど特におもいつかなかった。

推しを複数持つことについて

オタクの生存戦略として「推しは複数持て」と言われるのは、推しが一人だとその推しに何かあったとき、精神が崩壊してしまうことを避けるためである。

投資の世界には「たまごはひとつのかごに盛るな」という格言がある。
そのアセットクラス(株式とか債権とか)に何かあったとき、資産に修復不可能なダメージが入ることを避けるためである。

このアナロジーから得られるのは、「(推し活をするのであれば)推しを複数持て」という仮言命法が前提とするのは、推しをひとつの資産と捉える考え方だということである。ここでの資産とは他の価値と交換可能なものという程度の意味である。

わたしはこの考えを否定しないが、それが時間的な自立を意味しないことは指摘しておきたい。
つまり、推しを複数持つことは、推しAからは自立できるかもしれないが、大きな「推し」というくくりからは自立できないのだ。活動者が未来永劫活動し続けることはない。次から次へと推しをゆるやかにスライドさせていくことの不毛さ、虚無から逃れることはできないのだ。

推しを代替可能なものとして扱っている点も重ねて指摘しておく。それはそれでよいと思うが、やはり迫りくる虚無に対しては無力である。

必要なのは、推しをひとりの人間として捉える視線なのだ。過度に神聖視してもいけないし、モノのように扱ってもいけない。ひとりの人間として対峙しなければならないのだ。そうして初めて真に豊かで意味のあるものを得ることができるのだ……
↑本当にこういう風におもってるんだけど、うまいこと言葉にできなかった。


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