『「VTuberの倫理学」を検討する』の検討 ~「VTuber批評」の必要性~

はじめに

この文章では『青春ヘラ』Vol.7「VTuber新時代」に掲載されている論考『「VTuberの倫理学」を検討する──バーチャル・アイデンティティと「場」の形成』について、非アカデミックな立場から批評的な視点で検討を行う。

ペシミ:「VTuberの倫理学」を検討する──バーチャル・アイデンティティと「場」の形成

「VTuberの存在論」を考えた上で「VTuberの倫理学」が必要である、との思いから書かれた論考。VTuberに特有のアイデンティティをめぐった問題は、その複雑さからしばしば炎上や分断につながってしまいます。それらはなぜ起こるのかをVTuber特有の「身体性」の面から考え、解決方法をリレーショナル・アートとの比較から提示します。

青春ヘラver.7「VTuber新時代」内容紹介

実はわたしも同じような問題意識を持っていた。
VTuberたちは定期的に炎上するし、そうでなくてもリスナーとの関係についての問題が結構な頻度で散見される。あと定期的に病む。リスナーも。
せっかくなので、この論考に乗っかるかたちで、わたしの認識との差異を示し、「VTuberの倫理学」から一歩踏み込んだ実践として「VTuber批評」の必要性を示したいとおもう。

同書はおそらく2018年の『ユリイカ』以来のVTuberについてのまとまった文献になる。掲載されている論考も『ユリイカ』の論考を参照し、発展させ、2023年時点に即したものが多い。今後のVTuber研究は『ユリイカ』にかわり同書の上に組み立てられるものとおもう。VTuberについてまとまった文章を書こうかとおもっていたところに『青春ヘラ』が頒布されたことは、まさに渡りに船であった。サークル代表のペシミ氏にこの場を借りてお礼を申し上げます。

補足:論考に対する先行検討

既に漫画研究者の泉信行氏が、この論考について漫画研究者/VTuber研究者としての専門的な視点で検討を行っている。泉氏も「VTuberの倫理学」のようなものをテーマとして持っていたそうであるが、同記事で検討されている箇所(リップシンクについて)は、わたしの興味外なので、本記事の論とは重複しないものとおもう。

検討の概要

検討するのは、3-1以降のVTuberの「場」について論じた部分である。3-1以降以下のように論が展開される。

VTuber文化における「場」が、リレーショナル・アートと類似していることを指摘する。それをもって、リレーショナル・アートに向けられた批判をVTuber文化にもある程度適用できるとする。その批判を克服するために対話の重要性を指摘し、対話がなされる「場」を維持するために「VTuberの倫理学」が必要されると主張する。

論の流れはおおむね妥当だとおもうが、リレーショナル・アートに向けられた批判のVTuber文化への適用についての「ある程度」の内実に異議がある。そして、対話の重要性を指摘するだけでは不十分であると考える。また、VTuberの「推し」文化についての認識にも相違がある。
後の論展開のために、先に「推し」文化についての認識の相違について説明してから、VTuber文化への批判と克服方法の検討を行う。

検討の概要は以下のとおり。
既に小さくない規模になったVTuber文化に対して「社会性を欠いている」という批判はそれなりに有効であると考える。VTuber文化が、そういった批判を受け止めて克服するには「対話」が重要だと述べられるが、そう呼びかけるだけでは不十分だと考える。
わたしは、対話を生むためには「VTuber批評」が必要だと考える。

VTuberの「推し」文化についての認識の相違

わたしの認識と異なるのは以下の箇所である。

(前略)情報消費社会に組み込まれた資本主義システムの上で、生活のすべてがメディア上の表象としてしか存在しなくなり、データベース的にしか世界を読み込めなくなる社会──受動的で動物化した「萌え」文化とオタクと換言しても良い──を革新するものとしても能動的な「推し」文化は隆盛したのではないか。

『青春ヘラ』Vol.7「VTuber新時代」p.68

わたしは「推し」文化が「萌え」文化を革新したものとは思わない。
わたしは「萌え」に耐えきれなくなったオタクの退化として「推し」文化を捉えている。

この認識を説明するためには、2001年に出版された東浩紀氏の著書『動物化するポストモダン』を参照する必要がある。同書は90年代以降のオタク文化とそれまでの文芸批評史を接続した今なおよく参照される論考である。
(『青春ヘラ』の他の論考でも参照されている。)
「データベース」「動物化」という言葉の選択から、直接ではないかもしれないが、同書を参照しているものとおもう。

同書で論じられたオタクとは、アニメやマンガの作品を素直に見て、表面的な「萌え」として消費する「動物的な」姿勢と、作品の背後にある「萌え要素」のデータベースにメタ的な目線を向ける姿勢の2つの姿勢で作品を「解離的に」消費する(これを「データベース消費」と呼ぶ)存在であった。

「萌え要素」のデータベースと言うと古臭いかんじがするが、要は黒髪ロングの委員長キャラなら清楚といった、現代のVTuberオタクも持っている、キャラクターの造形と属性の関係についての共通認識である。
同書ではキャラクターの造形に絞ってデータベースを説明しているが、物語の形式(死亡フラグとか)や、ジャンル(きらら系とか)も、物語の要素としてデータベースに組み込まれている。

同書では、ポストモダン的状況が進行した社会では、人間性は動物性とデータベースの水準で解離的に共存するだろうと予想されていた。

だが実際には、オタクたちは「萌え」ることに耐えきれなかった
作品を見つつ背後のデータベースに目を向けるという解離的な消費に耐えきれなかったのだ[*1]。どういうことか。

データベースに目を向けるということは、作品や対象を解体して、データベースの要素に還元することになる。このとき、どうしても自分がその作品や対象に心を動かされたという、かけがえのない経験も解体してしまう。このときに生じる意味の消失に耐えられなかったのだ。
ある作品で感動した経験が、自分の人生を方向付けるような大きなものであった場合、自分という存在自体を解体しかねない。
だからオタクは、作品や対象を「推す」ことで、背後のデータベースに目を向けることなく作品や対象に没頭するようになった。
「すべてがメディア上の表象としてしか存在しなくなる」からこそ、つまり本質がどこにもなくなってしまったからこそ、それが表象であることを承知で、「推し」に没頭するようになったのだ。

そういうわけでわたしは、「推し」文化を、能動的なものというよりはむしろ、「推し」以外に目を向けないための、意味の不在(スラングとしての「虚無」)から逃れるための、切実で、一層受動的で動物的なものだと捉えるのである。

退化」という強い言葉を使うのは、この解離的な姿勢が失われてしまったことを、率直に言って嘆いてるのである。
老害的と思われるかもしれないが、オタクが「推し」に埋没して、データベースへのメタ的な視線=「推し」を一般社会に相対させる視線を失ってしまったことをどうしても積極的に肯定できない
ただし「推し」文化自体を否定しているわけではない。
データベースに目を向け続けるということは、社会的な意味を考え続けることと同義である。その困難さはよく分かるし、実際、考えた末着地点が見つからず虚無が襲ってくるのはとてもキツい。
でもやはり「推し」に没頭するだけではダメだとおもうのだ。
このアンビバレンスは「VTuberの身体性」のそれと似ていないだろうか?
このアンビバレンスをわかってくれるだろうか?

VTuberの「推し」文化の弱点

(前略)VTuberは(配信する側からすれば)芸術作品ではなくあくまでエンターテイメントであるという認識が大多数だろう。よって、社会性を欠いていると喝破するようなタイプの批判は意味を成さない。

『青春ヘラ』Vol.7「VTuber新時代」p.69

リレーショナル・アートへ向けられた批判の内容を詳しく知らないので文脈を欠いてることは承知の上で、VTuber文化が提供するエンターテイメントにも社会性は必要であると考える。
ただし、十把一絡げになんでも社会性を考えなければならない、とはおもわなくて、「エンターテイメントなんだから社会性なんて必要ない」という態度は問題だという認識である。

これは先に述べた「推し」に没頭するだけではダメだ、と同じことを言っている。
論考では、リレーショナル・アートへ向けられた有効な批判として、「既存の秩序を追認するだけ」を挙げ、「推し」文化の弱点として、「共同体の実現を妨害や阻害する人を排除することで成り立つ」ことを挙げている[*2]。

これは「推し」文化の基礎にあるコミュニティの「ムラ性」を指摘している。例えば、配信でコメントに「流れ」ができることがある。俗に言う「プロレス」のような、リスナーが一体となってVTuberと掛け合いを行うことは、その文脈を知っていれば、つまりコミュニティの内側から見れば面白く思えるだろうが、外側から見れば眉をひそめるものであることもある。流れを乱すリスナーは、それがわざとでもそうでなくても、黙殺か極端な場合はブロックという形で「流れ」から取り除かれるだろう。
ムラ性はコミュニティに一体感を与え、「推し」との関係から得られる経験を一層魅力的なものにしてくれる反面、コミュニティを脅かすような外部に対しては排他的、ときには攻撃的な態度をとらせる。

このムラ性は、日本社会を通底する「母の論理」と同じものである。
古くは丸山真男の『日本の思想』で指摘される「無責任の体系」から、宇野常寛の『母性のディストピア』で指摘される「母性の重力」まで、時代を問わず批評の場面にあらわれる。
先述の「「萌え」から「推し」への退化」に引きつけて言えば、データベースに目線を向けること=配信の外側を意識させること=一般社会に相対させること、であり、配信の外側に意識を向けさせるものを排除する無形の力が母の論理=無責任の体系=母性の重力である。

ここに、VTuber文化と批評史が接続される。現代まで積み重ねられてきた批評の言葉はVTuber文化でも変わらず、いや、より切実に有効であるとおもう。

「VTuberの倫理学」の成立条件

では、炎上を克服し、コミュニティとしての強度を増していくためにはどうすればよいのか。(中略)
対話によって、アーティストと作品(みられる客体)は他者(見る主体)の創造性やイマジネーションを借りることができる。アーティスト一人では開けなかった可能性がそこにはあり、より良いコミュニティの在り方が提示されうる。
だからこそ、対話を通した倫理の蓄積が必要とされる。VTuber文化の価値とは「場」としてのコミュニティであり、それを維持するために「VTuberの倫理学」が欠かせないのだ。

『青春ヘラ』Vol.7「VTuber新時代」p.69-70

論考では「対話」が大事なのだと示されているが、わたしには、これはVTuberに関わる人々に「倫理的であれ」「理性的であれ」と説いているだけで、実効性に欠ける提言のようにおもえる。

前節でVTuber文化が批評史に接続されることを示したが、そこから言えば、「対話が大事なのだ」といくら説いて回っても実効性がないことは歴史が証明している。

これは現代のTwitter(X)を思い起こしてもらえばすぐわかる。
一見「対話」がなされているように見えるが、そこで行われているのは同じ属性の人間が互いを承認し合う閉じたコミュニケーションであり、そこは創造性やイマジネーションが生まれる「場」ではなく、意見の異なるユーザはブロックするような排除の論理に支配された巨大なムラである。
こう言うと反論があるかもしれない。クリエイティブな人々はTwitter(X)に集まるし、そこでは新たな創造性やイマジネーションが生まれているのではないか。

ここでの創造性やイマジネーションはリレーショナル・アートという芸術の文脈でつかわれている言葉であることに注意してほしい。それは「今までになかったもの」を生む創造性やイマジネーションである。
Twitter(X)で行われているのは、新しい概念の創造ではなく、既存概念の変奏(思想の言葉で言う「シミュラークル」)が主ではないだろうか。新たな概念はTwitter(X)の外で創造され、Twitter(X)はその承認の場としての役割が主ではないだろうか[*3]。

「対話せよ」と発信するだけでは、「場」としてのコミュニティに「対話」が生まれそうにない。「場」を維持するために「VTuberの倫理学」が必要と述べられているが、倫理の蓄積には「場」が必要である。
つまり、「VTuberの倫理学」を成立させるには、まず「場」としてのコミュニティに「対話」を生み出す実効的な何かが必要である。

わたしは、それは「VTuber批評」であると考える。

「VTuber批評」の必要性

「VTuber批評」とは、「○○より△△の方が面白い」のようにVTuber同士あるいは箱同士を比較することではない。「こうすれば伸びる、こうしないから伸びないんだ」とプロデューサーのように活動方針を考察することでもない。VTuberがいかに素晴らしいかを学術的で専門的な用語で礼賛することでもない。言わずもがな個々のVTuberに批判的な意見を寄せることではない。

「VTuber批評」とは、VTuberとリスナー、あるいはリスナーとリスナーの間に入って、VTuberをVTuberの外側と接続させることである。VTuber文化が内包する問題と、VTuber文化の外側にある問題を接続させることである。なぜファンとアンチという立場の違いが生まれるのか、その対立が意味するものは何か、その対立が生産するものは何かを問うことである。

VTuberが好きという同質性で構成されるコミュニティで「対話せよ」と呼び掛けても、「いいよね」「わかる」の応酬になるのが関の山である。少し難しい言葉を使っていてもその内実は、「いいよね」「わかる」でしかない。

批評の言葉は、少なからずVTuberの意味や在り方を揺らがせる。そのような言説はおそらく、排除の論理に従って、大部分のオタクおよび中の人には黙殺されるか敵意の視線を向けられるだろう。しかしほんの一部でもVTuberの意味や在り方について考えるならば、そこから「対話」が生まれ、倫理が蓄積されるだろう。ここまで来てはじめて「VTuberの倫理学」が成立するものとおもう。

そこまで言う「VTuber批評」って具体的になんなんだよ、という方はわたしの他の乱文を見ていただければ、おおよそのかんじがわかるとおもう。
よければ読んでみてください(宣伝)。

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最後にVTuber研究の作法(?)に従って「信仰告白」をする。

わたしはVTuberを愛している。
彼/彼女たちの魅力的な姿が、声が、配信が、提供するコンテンツが、それまでの自分から別の何者かになろうとするその意思が、身体を仮構することの原理的な不可能性に直面しつつそれでも活動を続けるその強さが、たまらなく愛おしいのだ。
VTuber本人だけでなくVTuberが形成する「場」を、一緒に「場」を形成するリスナーをも愛している。
そのような「場」はわたしの生活の一部である。わたしはVTuberたちを「推し」、承認と(少しの)金銭を与える。でもそれだけではダメなのだ。
VTuberという存在にメタ的な視線を向けて、それを暴露することで、別の視点を示さなければならないのだ。なぜなら別の視点を示すことが「場」に関わる人々が抱える問題の解消につながると確信しているから。その確信を実践することがわたしの倫理だから。
一方で普通に「ファン」として「推し」つつ、もう一方でVTuberの根源的な意味を問うような、見方によっては「アンチ」に映るかもしれないような言説を発信する。
このアンビバレンスをわかってくれるだろうか?





[*1]:この点は2008年時点ですでに、00年代に東浩紀批判を展開したことで知られる宇野常寛氏『ゼロ年代の想像力』で指摘されている。
[*2]:『青春ヘラ』Vol.7「VTuber新時代」p.69
[*3]:この点は前述の『母性のディストピア』でも、2023年9月に出版された東浩紀氏『訂正可能性の哲学』でも言及されている(リンクを自分の感想文にしています)。インターネット(特にSNS)の発展に伴って、そもそも対話が成立しなくなってしまったことが現代の評論家、批評家に共通する問題意識であるようにおもう(わたしもそうおもう)。

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