なぜVTuberについて語るのは難しいのか

この記事で「語る」というのは、批評的な観点で言及するということである。

数が多い

まず数が多い。大手事務所だけでも500人くらいいる。
裾野を広げるとその数十数百倍のVTuber が活動していることになるだろう。すべてのVTuberのコンテンツを享受することなど到底できない。
それゆえVTuberについて語るとき、それは必然的に、ある特定のVTuber(たち)についての語りになる。
そしてそれは、後述するように、現在主流のVTuberたちに偏ることになる。

活動スタイルが違いすぎる

数が多いだけでなく、活動スタイルも千差万別である。
ゲームをするのか歌を歌うのかといったコンテンツの違い、配信メインか動画メインかといったコンテンツ提供方式の違い、毎日活動するのか週末だけ活動するのかといった活動頻度の違いなど。

先行研究によっていくつか分類が提示されているが[*1][*2]、中の人の性質をコンテンツとするためにアバターを用いるタイプのVTuberが主流というのが界隈の共通認識だとおもう。
それ以外のVTuberについて語られることは少ないのが実情である。

中の人に触れざるを得ない

現在の主流のVTuberたちについて語るとき、必然的に中の人の性質に触れることになる。VTuberについて語っていることと、中の人について語っていることを判別するのは難しい。
それがポジティブな文脈なら問題が表面化することはあまりないが、ネガティブな文脈では徹底的に批判にさらされる。

その代表が「お気持ち」である。
一般にVTuber本人のお気持ちは最大限尊重されるが、リスナーのお気持ちは中の人だけでなく他のリスナーにも煙たがられる。
お気持ちがリスナーの感情を爆発させたネガティブなものである場合、それは単に一種の人格批判となってしまう。たとえお気持ちを引き起こした原因が、そのVTuber本人だけになくても、それを喝破するのは難しい。
なにせ感情の話であるし、ともすれば「人間/男/女はこういうものだ」といった格言めいたものに落ち着いてしまう。

あるいは、そのお気持ちが、たとえ活動について建設的な意見を述べているように見えても、それが中の人本人の人格に言及しているように見えることを避けられない。

ネガティブに見える意見は、そのVTuber本人だけに向けられたものではない。VTuber文化に共通する問題が特定のVTuberを通じて表れているにすぎない。
言い換えると、文化の問題として捉えられるべき問題が、VTuberという特殊な存在の仕方のために個体の問題にすり替えられてしまうのではないか。
文化が内包する問題とその解消への糸口が、お気持ちの過度な忌避(の風潮)によって奪われているとすれば、それは文化全体の損失である。

お気持ちをいかに公益性に昇華させるか、これがなかなかの難題である。

語りを生む環境の問題

人はなぜVTuberについて語るのか。
まずVTuberが好きだからというのがある。
好きなものについて語ることを止めることはできない。
それを人に読んでもらっていいねをもらえるならなおさらである。

金銭やキャリアのために書く場合、必然的に依頼元の意向と不特定多数の読者を前提することになる。
それは「だからVTuber文化は素晴らしいのだ」以上のものではなくなるだろう。

称賛自体を問題視することはしないが、問題はそこで使われる言葉である。
わたしが問題視するのは、小難しい言葉──科学や人文学の言葉に代表される──を使ってVTuberを語るとき、それが称賛に終始してしまうならば、それはVTuber文化──特に上場企業をはじめとする営利団体──の権威付けないし現状追認にしかならないのではないかということである。

VTuber市場の規模は拡大の一途をたどっている。
巨大資本によるコンテンツのクオリティ向上、新たな才能の発掘など、いいことが増える一方、誹謗中傷やプライバシーの問題、拝金主義の全面化などよくないことも増える。
現状、大手資本の動きを見るに、よくないことそれ自体を上から抑え込む方向で対応するように見受けられる。

資本の直接的な影響下で何か語るなら、それはそうした資本の動きを是認するものにしかならない。
それは個々人の資質の問題ではなく、VTuber文化が資本主義あるいは消費主義と結託したことの不可避の帰結である。
まして特定の言説について言及したものでなく、今後あらわれる言説はそういった傾向から逃れられないという指摘に過ぎない。
個人的な意見を述べれば、学術的な知識や手法は、問題に向き合うためにこそ引用されるべきだとおもう。

おわりに

タイトルの問いに直接答えていなかった。
わたしの答えは、

コンテンツについて語ることが中の人の人格について語ることに直結してしまう特殊な文化であり、かつ資本と強固に結託しつつあるため言説が画一化しやすくなるから。

である。
今後ますます語りにくくなることは必至である。
そうした状況下にあっても語ることを諦めたくないという気持ちがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?