VTuberについて2023年に書いたものを振り返る

2023年に書いたものを振り返ります
↓姉妹編と併せてどうぞ😎


VTuberコミュニティが「自立」の基礎になることはできるか

6月時点で考えていたのは、「VTuberコミュニティが中間共同体のひとつにならないだろうか」ということだった。念頭に置いていたのは大手ではなく、比較的規模の小さい箱~個人勢で、小規模のVTuberコミュニティが個人の「自立」の基礎のひとつになるのではないかと考えていたのだ。

ここで言う「自立」とは、特定のイデオロギー(共同幻想)に回収されず男女の関係(対幻想)に埋没することもない、それらを常に相対化させた個人の態度を指している。ただしニヒリズムに陥ることなく。

リスナーからVTuberへの視線は三次元的な人間と二次元的キャラクターを行き来し、どちらか一方に埋没する態度を許さない。
VTuberオタクであることは必然的に自己を関係から遊離させる。
そのことがその他の幻想をも相対化させる視線を育み最終的に「自立」に至る……。
そのように考えていたのだ。

なぜそのようなことを考えたのか?
それは配信者という一人の人間を二次元的なキャラとして読み替えることにこれまでのオタク史には表れなかった想像力を感じたからである。
二次元しか見ないアニメオタクでもなく、三次元しか見ないアイドルオタクでもないVTuberオタクは、二次元的な図像を見ながら同時に彼/彼女らを三次元的なものとしても扱う。この二重の目線を成立させる想像力に可能性を感じていたのである。

そこから現在まで配信を見たり文芸批評やVTuberに関する文章を読んだりしながらずっとVTuberとリスナーの関係、VTuberが成立する環境について考えていた。たまに長い文章を書いたりもした。
わたしがVTuberについて文章を書く動機はまずそこにあった。

VTuberとリスナーの関係の考察

三次元性を暴露すること(生身でリスナーの前に出ること)で表出するリスナーの認知のズレについて考えている。二重の視線の最もラディカルな形が超美麗3Dだと考えていたのだ。この認識は今も変わらない。生身の身体と二次元の図像を並べることが一番手っ取り早く三次元性と二次元性を意識させるだろう。

遠回しに商業性を批判しているようにみえるが、すこし訂正したい。
「エンタメが商業性と結びつかざるを得ないこと」は明確に事実として扱うべきだった。そのこと自体の善し悪しについてはわたしの関心の外にある。
それは前提として、「自立」へと至る道筋を模索することがわたしのVTuber語りのそもそもの動機だった。
だが、この記事では安易なナルシシズム(美しさ)に落ち着いている。
これは「逃げ」にも見えるし、アイロニズムにも見える。

この記事で試みたのはひとことで言えばVTuberを関係として捉えることだった。

なぜそんなことをしたのか?
先行して提示されていたVTuber分類のカウンターとなる概念を提示したかったからだ。
エビデンスに基づく学術的な研究の態度を是とするならば、どうしても大手から、しかもバイネームで論を組み立てることになる。
大手基準で論を組み立てるときに生じるリスナーの後退を問題だと認識していたのだ。推しに対して一歩引くようなオタク的美徳が立論にも影響しているのではないかとおもえたのだ。推しどうしのてぇてぇを壁になって享受するオタクが無自覚に顕示する「正しさ」の悪影響が無視される環境が成立してしまうことを懸念したのだ。

その懸念に対しリスナーの位置を中の人と同じ位置に引き上げることで克服を試みた。一応成功したとおもうが、それだけである。大枠の提示にとどまっているし、もっとスマートに示すこともできたかもしれない。
吉本隆明を持ち出したが、別の論から接続することもできるだろう。

VTuber批評の実効性について

「VTuberの倫理学」を成立させるのに「VTuber批評」が必要だという認識を示している。その認識は変わらないが、今は言葉としての「VTuber批評」はそれほど実効的ではないのではないかと考えている。

エンタメが我々に与える「体験の強度」に対して、批評の言葉はどれだけ有効なのだろう?
エンタメの技術水準の上昇に伴って、没入の度合いも深くなっていく。
人の理性にはたらきかける言葉は太刀打ちできるのだろうか?

本当にVTuber批評やVTuberの倫理学を成立させようと思ったら、「文学」あるいは「批評的体験」とでも言うべきものを提供しなければならないのではないかとおもう。わたしが可能性を感じるのは後者のほうだ。

わたしの考えでは、それはおそらくSNSやプラットフォームのような形で、推し活を環境面からコントロール(?)するものになるとおもう。
言語による規範の内面化ではなく、非言語による環境の統制。無責任の体系、ボトムアップ対幻想を生む想像力を逆に利用するわけである。体験と対になるのは言葉ではなく別の体験ではないだろうか。

他人が書いたものの上に自説(「共同幻想モデル」)を展開している。
ひとつには自説を他の論考に接続したかったことがあり、もうひとつにはそれが楽だからということがある。

プラグマティズムではないが、他者の意見に晒されない考えは、それがどんなに良いものにみえても独りよがりの域を出ないわけである。既存の論と接続することで自説を外部に晒すことを試みたのである。

まとめ+α

VTuberを成立させる二重の視線を根拠として、VTuberコミュニティを「自立」の基礎とすることはできるだろうか?
というのがわたしがVTuberについて書くもともとの動機だった。
それはその後より広くVTuber一般についての批評という形で検討することになった。

現時点での考えでは、それは難しいようにおもう。

2023年のVTuber環境

二重の視線はVTuber以外の幻想を相対化させる目線を育むにまで至らず、VTuberコンテンツを取り巻く環境の外に出ることはなかった。
大量の小さなプロデューサーを生み出すだけで、その視線を成立させるメタをVTuberの外部に向けることは、わたしが観測する限りほとんどなかった。

これは現在の環境を見れば自明だとおもう。
VTuberたちが提供するコンテンツを、コンテンツ単体で享受できる環境は成立していない。基本的に同じプラットフォームで同じゲームをプレイし、同じ歌を歌い、同じようなことを喋らざるを得ない性質上どうしても他のVTuberとの比較が生じる。

SNSを見ようものなら、配信の外部で繰り広げられる他VTuberやリスナー、果ては運営とのいざこざや、登録者数やスパチャ額といった数字の話がどうしても目に入る。単なる感想ツイートをするだけでも、固有名が紐づく限り認知への欲望や他リスナーとの比較から無縁ではいられない。
このような環境下において、VTuberを成立させる二重の視線は、VTuber界隈へのメタ視線に回収されることとなった。

そこでリスナーが取りうる態度は大きく2つ。
ひとつはそのVTuberを取り巻く環境から、意識して目をそらし、そのVTuberとの関係に埋没する態度。
もうひとつは、そのVTuberを取り巻く環境だけを見て、コンテンツではなく数字や「○○が××と言った」などという切り抜き的な情報のみを追い続ける態度。

ここで両者を掘り下げることはしないが、重要なのは、両者ともVTuberの外側に視線が向かないということである。
より正確には資本的なものを通じてしかVTuberの外側に出ることがない。
それすなわちダメということではないが、これはこれまでのサブカルチャー史で見られたものと同じものではないだろうか?
現状を鑑みるにVTuber文化は結局アニメ文化やアイドル文化と同じところに落ち着くのではないだろうか?
いやむしろ二重の視線の新奇な点のみを抽出して(現実リアル仮想ヴァーチャルの次元を超えたなどという美辞麗句を並べ立てて)、最悪の形で物語ナラティヴ(ナショナリズムのような)を成立させる道具になり下がるのではないか?
相次ぐ大企業コラボや自治体コラボはその嚆矢なのではないか、というのはさすがに言いすぎだろうか?

引きこもる態度

上の悲観的な想定のもと、わたし個人が取りうる態度は、そのような環境から逃れられないことは前提として、環境に必要以上に抗うことなく、口を閉じ耳をふさいで、配信でのコメントや少しのSNSを通じてのみ推しとたわむれる自閉的な態度(内省的な家父長!)でしかないのではないかとおもっている。

批評の言葉を紡ぐことも広い目で見れば害でしかないのかもしれない。
推しに埋没するリスナーへはさらなる埋没を促すだけで、環境を消費するリスナーへはまたひとつコンテンツを提供するだけかもしれない。

それでも批評とはまず態度であり生き方だとおもうので、外部への視線を喪失することなく推していきたいとおもいます。終

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?