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【音楽で世界が変わると思ったことは一度もない】

私はこれまで、音楽で世界が変わると思ったことは一度もない。

今からここに書くことは希望の話だ。

音楽で世界が「変わる」のではない。言い換えると、音楽が主体的に世界を「変える」のではない。そうではなく、音楽に関わる私たち人間が、世界を変える可能性を持っているのだ。

音楽自体に何か具体的な力が備わっているのではなく、音楽に関わる私たち人間に、力が備わっているのだ。そもそも音楽をつくったのは人間。昔も今も人間には音楽をつくる力がある。

人間は、音楽のために生きているのではない。音楽が、人間のために存在する。
私とって音楽は手段でも目的でもない。また私は、音楽至上主義者でも人間至上主義者でもない。

もっと素朴に、人間が生きている/生きていくことがまず大切。前提。
素朴に日々を生きていく中で、私たち人間は、音楽をつくったり音楽を受け取ったり音楽を共有したりしている。音楽は手段か目的かということよりも、事実として=日々の暮らしとして、音楽に素朴に関わっているという実感が私にはある。

このエッセイの表題にある、人間が音楽に関わることによって変えることができる「世界」とは、国や地域といった広く大きな「みんなの世界」を指さない。そうではなく、それぞれの人にとっての、一人ひとりの「わたしの世界」のことを指す。

この「わたしの世界」は、一人ひとりの表現の出力先としての世界/一人ひとりが表現を受け取る場所としての世界だ。一足飛びに、社会的=世の中的な意味での世界は指さない。それでは急に話が大きくなりすぎる。

自分で確実に手綱を握ることができるのは、自分を表現しようとする時/自分で表現を受け取ろうとする時の、自分の意思と感覚だけだ。この、自分にとって確かな領域の話がしたい。

確かな領域で、自分で手綱を握る。
そう思って実際に生きていこうとすると、途端に、自分の身の回りにある様々な要素と条件によって私の意思も感覚も行動も制約を受けていることに気付く。もちろんその制約には、生きていくのに必要な、良い枠組みも含まれている。

これらの制約(枠組み)を承知しつつ、一人ひとりの表現の出力先としての世界/一人ひとりが表現を受け取る場所としての世界を、私は自分ごととして丁寧に考え、私の世界を扱いたい。

私が私を大切にする。
私の意思と感覚の世界を丁寧に扱う。
私は私の世界を変えることができる。
そのとき、音楽が私を助けてくれる。支えてくれる。背中を押してくれる。
音楽は、私の世界をささやかに、時に劇的に変え得るトリガーでありエンジンでありガソリンでもある。
音楽を生きるのではなく、私を生きる。
手段でも目的でもない、日々の暮らしとしての音楽とともに私を生きる。

あなたはあなたで、あなた自身の手綱を握り、あなたの世界をささやかに、時に劇的に変えていく。
音楽を生きるのではなく、あなたを生きる。
手段でも目的でもない、日々の暮らしとしての音楽と溶け合って。

私とあなたは、それぞれの自分の世界を変え得る。まずそれが希望。
その私とあなたが「表現」の文脈で出会い、交差するかも知れない。これが更なる希望。
この、どこかで出会い交差した私たち二人が、一緒に、それぞれの世界とは違う新しい世界をつくることができるかも知れない。これが更なる更なる希望。

今までここに書いたことは希望の話だ。
今からあとに続くのは、この希望の営みだ。

音楽とともに。

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#わたしが私として生きるためのエッセイ 49
#毎日更新
と言いつつ二日間休んだ。
#息をするように音楽をする
#日常は日常のままで別次元
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#わたしの世界
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