アイデンティティとコミュニケーションについて
私たちは幼い頃から、自分を知ってくれる人との関わりの中で自分を自分と認識していくのだと思う。
私も、たくさんの人との関わりの中で「nさん」として在るのだと思う。
ところが、これは例え話なんだけれど、
ある日突然、あなたは直太朗だと、それとも、あなたはJemimaだと言われたらどうだろう。
あるいは、長い時間をかけて、直太朗であることを、Jemimaであることを、求められる、というよりか、誰かが自分のことをそのように認識するようになっていたら。
そりゃあ戸惑う、混乱する。
でもこれってある条件下では起こりうることなんだと最近気がついた。
この人はこういう人だと思い込んでしまい、その、ヴァーチャルな人格を相手に投影してしまうこと。
例え何の悪気もなかったとしても、二者間に本質的なコミュニケーションは成り立つのだろうか。
コミュニケーションには相手を知ろうとする姿勢が不可欠で、もしかしたらそれを愛と呼ぶのかもしれない。
私が私であるために、大人になった私には、自分自身への自己教育が必要なのだけれど、私が私であるように関わってくださる人たちの存在に感謝したいと思う。
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