静観してみる⑦



思い返してみると、妹は2023年2月に熱40℃以上出て診察受けて肺炎診断入院した時に、状態あまり良くなくて「延命治療どうしますか?」の話が出ていた。


ここからもう妹の還る旅、始まっていたんだった。


わたしはまだ気づいていなかったんだ。



🏥肺炎入院のときICUでオンラインで妹と面会した時。

(画面の妹はわたしは見えない(視覚障害1級)。見えないので声やからだでの触れ合いはとても大切。そこからたくさんのこと感じ取るから。)

声をかけると「おねえちゃん?」って声大きく出ていて話もしていて表情は思ったより元気そうに感じました。



肺炎治り施設へ帰る許可が医師から出たけど、施設の方で酸素状態が看れる状態になっていないから連れて帰るのは難しい…とのことで、そこは退所になり、リハビリのために転院して次に入居の受け入れしてくれる施設を探すことになりました。



リハビリして酸素状態整えている間に、そろそろ退院出来る、施設の段取りって時に気胸再発して緊急で日赤に入院。

ドレーン処置して空気漏れも治り転院の話が出て打ち合わせも済んで…そしたら今度は反対側の肺気胸が起きてまた同じように治療して治って、延期になっていたリハビリ病院へまた転院。



最初の転院は車椅子移動だったけど、次の転院はストレッチャーで移動だった。



「また入院しちゃった、、」
2度目の転院の時、妹は言っていた。気胸のことを言っていたと思う。


肺はリンパ脈管筋腫症(難病指定)だったから、同じこと起きやすくなっている状態だったから、いつかは保たなくなる。。という覚悟はわたしは持っていたつもりでいました。





  🫧 🫧 🫧


入院しないで日々元気にいたい、って思っていたんだろうな。

だから頑張ったし、頑張れたのかな。



7月10日に無事退院して次の施設へ入居。23日施設から連絡入って日赤救急へ。

気胸の処置済んで医師の話を聞いて、救急の処置台にいる妹を見ると寝ていた。


前までは…起きてたし意識あったし声かけると「おねえちゃん。」て呼んでた。



なにも呼ばなかった。起きていない。寝ている。
今までとは違っていた。



わたしはどこかでわかっていたかな。

もう、そうなんだ、その時が近づいて来ているんだ、ってこと。



妹が進もうとしている道を、わたしは止めていたのかもしれない。


もう少し頑張れ、と負荷かけていたのはわたしだったかもしれない。


妹は多分決めていた。


自分に還る、ふるさとへ帰る前に、
今世で出会う人、出会うと決めていた人、ひとりももれなくみんなに会ってから帰ろうとして、したことなのかもしれない。



だから、あっちこっちしたんだろうね。


時間差起こして、会う人にちゃんと会うようにさ。




最後の入院している時、
妹を通して観るわたしをいっぱい感じ想った。


そしてやっと、とうとう、
妹の手を離した。


ずっとぎゅっと掴んで握りしめていたのは…わたしだったかもしれない…



「この人も、わたしの前から去っていく。。」

   ⬆
ここ、なんかありそうだな、自分。

去っているのはわたしなんじゃない?



みんな、
それぞれの決めていたことをした、
…だけなんだけどね。




 🪷 🪷 🪷


妹死去して、毎日毎日涙が出ていました。

おかあさんの時は、こんなに毎日涙は出ていなかった。


おかあさんの3ヶ月の介護のあと、ゆっくり休む間もなく妹のことに向かっていた6年間だったからかな?だから涙が流れるのかな。6年間、濃かったのかな。




ある日、YUKIEさんの記事が目に止まった。





なんか気になりました。
妹の初七日に・・・


サナート・クマラさん。。


良く知らないけど…
呼んだことはないけど…

呼んでみようかな?
って思いました。


お話出来るのかな〜🥹











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