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狩猟採集生活のときの思考のくせを想像してみる


人類は短くても数十万年からもしかしたら数百万年の間、狩猟採集の生活をしてきたと言われていて、農耕主体の生活となってからは、早い地域でもせいぜい1万年やそのくらいと言われています。工業が産業の主体となったのはたった200年前のことですし、サービス業が最大となってからは数十年です。

このように人類史の中では生活環境は直近にものすごい変化をしていますが、長く続けてきたのは狩猟採集生活で、遺伝子情報の変化はそれほど短期間には顕在化しないので、生き物としての仕組みは、今でも狩猟採集生活に適応したつくりになっているでしょう。


そうすると、感情の表れ方であったり、興味を引きやすい現象や、思考のくせといったものも、狩猟採集生活のノリで発現して、実際の現代の環境には合わないこともあるのだろうと感じます。


たとえば、世界の終わりや人類の滅亡、あるいは社会の破綻可能性などのトピックは今も昔も人々の興味を引き付けます。古くは中世の終末思想から、ノストラダムスの大予言、米ソの全面核戦争、人口爆発による飢饉の発生、そういったネタの数々です。これらは冷静に考えると個々人が考えても特にどうすることもできないものがほとんどですが、社会的に大きな話題になりますし、考えて暗い気持ちになったり恐れを持った人も多いでしょう。

狩猟採集生活の頃を想像すると、ヒトにとって自分の属する群れないし集団はこの世のすべてだったでしょう。そして、自然災害への対応や流行病の発生、あるいは狩場を求めての移動など、なにかにつけて、一つ対応を間違えると簡単に「死ぬ」、場合によっては、集団が「全滅」するリスクも現実的にあったのではないでしょうか。

そうすると、破滅するかもしれない事象ヘ、その情報を求めるために興味を覚えることや、慎重に対応することができるように恐れを抱くといった反応を持つことは、自然選択の上で有利なことだったのではないか。


また、病気や貧困に苦しみ人を見ると感情が高まりや同情の念を覚えることは、集団の中で弱っている人を放っておくと「死に」、構成員が少ない社会では数が減ることは全体の問題になりえることがあったのではないか。というような想像も働きます。赤ん坊の動向に非常に引き付けられる、感情が揺り動かされるのも、それだけ、放っておいたら「死にやすい」ことの裏返しかも知れません。


現代にあって有利不利や便不便で考えるとさっぱり合理的でない反応や主張なども、太古の昔には合理的で意味のあることだったのかも知れないなどと思いを巡らしてみるのも楽しいものです。


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