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自分の人生についてつらつら書いてみた①



社会人も三年目か〜ということで、自分大きくなったなぁ〜今まで、自分よう頑張ったなぁ〜という労う気持ちを込めて、人生を振り返ってみる。

自分自身の整理であり、27年の振り返り。

昔のことは、どんどん忘れてしまうから、辛いことも楽しかったことも覚えておくために文字に起こそうと思いまして。



突然だけど、私は人から「変わってるね」と言われることが多いんです。

第一印象は普通であるように思われるけど、深く関わってみると「変わってる」と言われがち。※私は私のことを変わってるかもな、くらいには思うこともある。けれど言われすぎると「解せぬ」となる。

多分それは今までの人生とか、経験してきたことが関係してるのではないかなと思う。そんな自己評価。


さっそくだけど、私の幼少期。

福岡で四人兄弟の末っ子として誕生。

めちゃくちゃやんちゃな子で、外を毎日駆け回ってた。けど、保育園では毎朝オカンと別れるのが辛くて腰にしがみついては大泣きするという、傍迷惑な子供だった。

家の前にビワの木があって、収穫の時期は家族皆で食べてたのを思い出す・・・エモい・・・

ある日家の近くに子猫がいて、3匹拾った。ここから私の猫好き人生のスタート。(これをきっかけに猫に人生を狂わされるのであった。〜続く〜)

福岡での幼少期は毎日が楽しくて、希望に満ち溢れてた。そんな気がする。


小学校に上がる前に神奈川に引っ越し。

小学校ではだいぶ訛っていた博多弁が恥ずかしくて、早急になおしたらしい。

少しでも博多弁を覚えていればモテたかもしれない、、と今では後悔してるわけだけど、正直、博多弁を忘れた経緯はあまり記憶にはない。

小学校低学年の時は、毎日家の近くに住んでた男の子と外に出て駆け回ってた。缶蹴りが流行ってて、神社の前とか公園で遊んでたなぁ。当時は女の子みたいに中で遊ぶよりかは、外で元気に走り回る方が好きだった。

四人兄弟で、なかなか失業、転職が多かったオトンだったものだから、この時から周りの家との収入格差だったりを感じ始めてたのかもしれない。

今でも忘れはしない小学四年生の時。

初めて「いじめ」というものを経験する。なんのことはない、よく皆が話題に取り上げる「いじめ」。

女子のコミュニティから排除されるような、そんないじめだった。物がなくなったり、共通言語で存在していた『呼び名』で机が彫られていたり、『死ね』と書かれた手紙やノートに書かれた『死ね』の言葉。

集団でのシカトやこそこそ話。

今思えば、ああやっていじめをするのは些細なきっかけが始まりだとしても、私の反応を見てスリル感を覚えていたのかもしれない。

当然だけど、小学四年生の私は、急に降りかかった悪意に対抗できず、不登校になってしまった。

不登校になった期間は一週間〜二週間で、毎日泣いていたように思う。

担任の先生から言ってもらうこともできたけど、学校の「コミュニティ」が完全に無くなってしまったら、自分の居場所は家以外どこにも無くなってしまうんじゃないという恐怖心から、沈黙を貫いた。

だけどある日、オカンに泣きながら打ち明けたことをきっかけに、その内容が先生へと伝わり、いじめの実行犯はあっけなく成敗された。

いじめの実行犯からは謝罪の手紙が届き、登校すると、今まで何も仲良くしていた子ではない子達から声をかけてもらえるようになり、その声をかけてきてくれた子とは、今でもご飯に行く仲。

そんなこんなで「いじめ」は終息された。

始まりから終わりまで、二ヶ月にも満たなかったように思う。けれど私の体内時計は一年くらいのように感じていたと思う。

今思うと何でだろうと不思議に感じるくらいだけれど、毎日「死にたい」って思ってた。カッターを見つめては腕を切れない自分の勇気のなさに泣いていた。


まじでクレイジーすぎる思考だぜ、と言わざるを得ない。


でも、「コミュニティ」が無くなるかもしれない恐怖は計り知れないものだった。

大人でも同じことがあるように思う。死ぬか生きるかの二択でしか思考ができない、これは非常に怖いことだと思う。

だから、辛い時こそ世界を広げることが大切だし、友にもそうだけど将来子供ができた時にも、その子の世界を広げる手助けができる人間になりたいと、実は普段そんなこと言わんけど結構思ってる。

いじめの後は、外で遊ぶことよりも中で遊ぶことが増えたように思う。絵を描くようになったのはこの時から。漫画とかゲームを好むようになった。 

ちなみに、これは高校の時から思ってることだけど、いじめをした人に対しての悪意とかはなく、むしろ自分はいじめによって「人のことを思いやれるようになった」と断言できる。

あと、「人からの見え方」に敏感になった。いじめを擁護するつもりはないが、今は自分の過去を客観的に振り返ることができている。


そんなこんなで中学生に。

中学ではバスケ部に入学。兄がバスケをやっていたので、おそらくその影響。バスケ部は、すごくハードというわけでもないけど、上下関係の闇を感じたりとか、理不尽にキレられたりとかは一定数あった。

元々やんちゃ上がりなわけであるから(保育園時代の野生児)、負けず嫌いで人一倍頑張るけど、いじめの経験を経て、良くも悪くも目立たず地味に生きるようにしていた。

不要な発言はせず、愛嬌を持って人と関わる!それが俺のポリシー(ドンッ

でも、毎年のマラソン大会では三年間女子学年一位をキープしていたから、負けず嫌いの賜物である。

バスケ部では、なんでか四番の背番号と部長という座をいただくこととなった。たいしてうまくもないし、ただの体力馬鹿でしかなかったけれど、どうやら周りを見る力や人と接する力を評価されたらしかった。


一方、中学の時から家庭環境もどんどんハードモードになっていく(不穏な空気)。

うちは貧乏だとなんとなく理解していたけれど、どうやら母親が病気を患っていて、毎日働いては家のことや子育てをし、ガリガリだった(今では大変ふくよかである)。

家のことは手伝いはするが、そんな家の変化になかなか気付くことができず、「なんでうちは好きなものが買えないのか?」そんなことばかり思う日々。

当時は兄姉も不登校になり、引きこもりだったりとオカンはどんな思いで毎日頑張っていたのかと、今思うと本当に頭が上がらない。

中学ではいじめを受けた影響からか、あとで気づいたことだけど胃腸の病気にかかってたらしかった。三年間以上誰にも言わず耐え抜いたわたしの精神力、プライスレス。


中学時代はバスケをひたすら頑張り、貧乏ながらもそこそこ楽しく過ごしていたのだと思う。受験期では、家のことを考えて、家から通えて電車賃がかからず、落ちる可能性のない高校を選んで無事合格。

地頭は良くないけどそこそこ頑張り屋さんな私は偏差値がそこそこ良かったので、欲張らなければ平均くらいの高校は普通に受かるだろうと言われていた。

そんなこんなで、高校生に。

高校からはもっと辛い時期に入ることになる(フラグ)。


(②へ続く)