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「始皇帝」は、暴君なのか? その思想を調べてみました①【始皇七刻石】

【キングダムの嬴政】始皇帝は暴君なのか?

中国をはじめて統一した皇帝である「始皇帝」の正体が実は、暴君であるという評判がネットでは強いです。

始皇帝は、人気漫画『キングダム』の準主役である嬴政(えいせい)にあたります。

『キングダム』における嬴政は、冷淡に見てつつも、暖かい情熱的な人物で、「人の持つ本質は光だ!」という思想を持っているため、

かえって、「史実の始皇帝は暴君! 全然違う!」という意見が強くなっているものと思われます。

そこで、様々な史料を調べて、始皇帝の思想を探ることにしました。

始皇帝の政策については、始皇帝の次の二世皇帝の時に、秦がすぐに滅んだため、悪い評判が歴史に残って事実とは異なる可能性があります。

これもついては複数の歴史学者もそう唱えています。それどころか、当時の歴史書である『史記』を書いた司馬遷自身もそのように語っているのです。

ただ、司馬遷の時代には秦を悪く評価する史料しか残っていませんでした。

司馬遷は史料を書き換えない方針である上に、始皇帝の息子となった二世皇帝が暴政を行ったことは間違いないため、始皇帝を擁護する意見はほとんどありませんでした。

ですが、司馬遷がそのまま史料を残す方針であったため、その時の始皇帝の言葉はそのまま残っているものがあります。

「始皇七刻石」

特に、始皇帝が各地に立てた「秦と始皇帝の徳をたたえる」7基の石碑である「始皇七刻石」の文章は、そのまま記載されています

これは始皇帝のうぬぼれや勘違いを示すものと長年言われ、軽視されていましたが、

ですが、「始皇七刻石」の文章が、現実とは乖離(かいり)があったとしても、始皇帝自身が目指した理想が分かります。そこで、『史記』始皇本紀によって、「始皇七刻石」の主な内容をここに書きます。

全文読みたい方は『史記』の翻訳をご覧ください。

なお、町田三郎『秦漢思想史の研究』を参考にしています。

嶧山刻石(えきざんこくせき)

『史記』には記されていないため、ここでは外します。

泰山刻石(たいざんこくせき)

皇帝は政治を怠らず、早朝に置き、深夜に寝るほどである。国家の長久をはかり、教育や訓戒に力をいれている。
・教訓と不変の礼(道徳)はあまねくのべている。
・貴賤、男女の区別はつき、各々、自分の職分にはげんでいる。


瑯琊台刻石(ろうやだいこくせき)

法律を正して統一して、万物の基準を明確にして、人間の関係における道理を明らかにした。
国民は農事にはげむことができ、商業の影響は受けないようにさせ、国民が富むことを心掛けた。
器械の度量と文字を統一した。
・異民族の風俗を正し、各地を巡幸して民の様子を見て、政務を怠ったことがない。
法律を明確にしたため、国民は犯罪を犯さなくなった。また、全ての政治は分かりやすくなり、公平となった。
天下を乱すもの(六国、魏・趙・韓・斉・燕・楚)を誅した。
様々な産業は発展し、国民は安寧となり、戦争はなくなり、盗賊もいなくなった。
・天下は全て皇帝の臣下であり、その功績は五帝(古代の聖王)を越えるものである。

之罘刻石(しふこくせき)

・法律を建てて、国の綱紀を明らかにした。
・六国を教化し、義と理で対応していたが、六国は道理に背き、無実の民を虐殺し続けたため、始皇帝は天下の民を哀れみ、討伐を行った。
・義によって六国を討伐し、徳によってその民をおさめ、四方から帰服しないものはいなかった。

之罘東観刻石(しふとうかんこくせき)

・天下を統一し、戦乱をやめて、平和をもたらした。
・臣下は己の職分を自覚し、まどうところがない。
人民は教化されて、同じ法律を守るようになった。この業績は古代の帝王に比べてもすぐれている。

碣石刻石(けつせきこくせき)

・武力で暴虐なる六国を滅ぼした。文治で、罪過が生まれない世の中を再来させ、民の心は秦に帰服した。
はじめて天下を統一した。
・東の国の城郭を壊し、河川のふさがったところを切り開き、山を平たんにした。民の労役に対する苦しみがなくなった。
男性は農事に、女性は紡績にいそしみ、全て秩序だって過ごせるようになった。
・外国のものも農事に従い、安心して生活ができている。

会稽刻石(かいけいこくせき)

天下を巡幸し、遠方の統治状況をみてきた。
法律刑罰を制定して、その内容を明らかにして、官職や任務を臣下に分けて、不変の法を決めた。
・暴虐であり、秦をはばんだ六国を討伐しつくした。
・皇帝が天下を統一し、全ての政治を行ったので、天下は治まった。
全国の戸籍を整理した。
・男性が妻以外の女性と淫行した時は、妻は夫を殺害してもいいとした。
・女性が夫と別れて、他の男と結婚した時は、子は彼女を母とすることができないとした。
・このことによって、男女の関係は秩序だったものになった。
・天下の民はみな、法令にしたがい、太平を楽しんだ。

「始皇帝七刻石」の全体的なメッセージ

・「始皇帝が六国を平定して、民衆に平和な戦争のない世界をもたらした
・「法による公平な支配を行いつつ各地の風俗をただし、貴賤の秩序を分別して明らかにし、あわせて各人が順守すべき様々な規範を明確にした
・「その結果として、いまや男女全てその業務を楽しみ、和親する平安な世の中が出現した」

この刻石の内容は、魯の地方にいた儒者たちと議論して、定めたものです。

儒者たちは始皇帝の周辺に存在し、諮問に答えていたものと思われます。

焚書坑儒が行われた後も、叔孫通(しゅくそんつう)は秦に仕えていましたから、始皇帝は儒学の意義を完全に否定はしていません

「焚書坑儒」は、地方の様々な言論が秦の統治には不利に働くと考えたわけであり、完全な弾圧とは大きく違います

清代の顧炎武(こえんぶ)は、「始皇七刻石」の内容について、「秦=亡国の法」と決める意見に反対しています。

全体的に見て

どうだったでしょうか?

六国についてはかなり自己正当化が含まれ、始皇帝の統治については臣下が美化して伝え、始皇帝自身もその言葉に満足していた側面もあるでしょう。

特に、会稽刻石の時は、始皇帝の晩年であり、大規模な土木建築、焚書坑儒や匈奴討伐、百越討伐などが行われた後であり、必ずしもこの言葉を肯定できるものではありません。

ですが、始皇帝が一部でイメージされるように

・「始皇帝が六国を武力で支配して、従属させたこと」
・「法による厳政な支配で、民を完全に統制下におき、ひたすら労役に従事させたこと」
・「その結果として、大帝国である秦が誕生し、その栄光をさらに輝かせるために大型な土木工事や外征を行うこと」

を主な目的や実績としては、かがげていない、ことは注目されるでしょう。

清代の顧炎武も、「秦の本当の目的は、古代の聖人たちと変わることがなかった」、すなわち、あくまで、理想としては、「天下の平和」と「秩序だった安心して暮らせる民の生活」であったと主張しています。

もちろん、この「平和と統治」は、あくまで、始皇帝の信望する「(韓非子らがとなえる)法家」による「平和と統治」ではあります。

あくまで、秦の法に逆らうものは、法律のよる刑罰や討伐の対象となり、多くの罪人が生まれることを前提としたものです。秦としては、初めての全国統一した法律の施行を実行的なものにしなければならないため、かなりの権力や軍事力、刑罰を行使したことは間違いありません。政治批判をすれば、一族が皆殺しにされ、焚書坑儒の後は、法律などの勉学を行っただけで処刑となったようです。

その前提の上ではじめて、「天下の平和」と「秩序だった安心して暮らせる民の生活」が送れるという性質のものです。

ですが、それでも、「天下の平和」と「秩序だった安心して暮らせる民の生活」を目的としていることはもっと注目されていいでしょう。

この記事のまとめ

「始皇七刻石」には、始皇帝の言葉がそのまま残っている。
✅始皇帝は儒学者の意見を聞いて「始皇七刻石」の文章を決めた。完全な独裁者ではない。
✅始皇帝は、あくまで「天下を統一し、平和な世をつくったこと」、「公平な法による統治を実現したこと」、「戸籍を整備し、度量や文字を統一したこと」、「民が平和で安心して生活できる世の中を実現したこと」を理想としている。
✅始皇帝は、「武力制圧」も、「厳格な法による統治」も、「大帝国秦の栄光」も誇ってはいない」

次回はもっと具体的に。「為吏之道(吏たるの道)」について取り上げます。

それでも、みなさんの中には、「始皇七刻石」について、

「あくまで権力者が臣下に自分を称えさせただけの顕彰碑に過ぎないのでは?」、
「内容が法家的ではない部分があるのは、六国の民に、儒教の原型である中国古来の道徳を重んじている空気が強くて、それに配慮しただけでは?」

というご意見もあるかもしれません。

そのため、次回は、始皇帝が臣下の官吏に与えた訓示である「為吏之道(吏たるの道)」について、取り上げたいと思います。

始皇帝が臣下の官吏にどのような意識で民にのぞむことを求めたか、お分かりになると思います。


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