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水槽のハゼ

こんにちは。つれづれつづりシーズン2、恋愛観の第2回目をお送りします。
今回触れる自分の恋愛観は、ゲイエリアに出入りするようになり、初めて男性とお付き合いした時に醸造されたものと言いたいところですが、むしろ抑圧していた本質かもしれません。それまでの、生きる環境が頻繁に変わる経験が、ヘンテコな生存戦略を生んでいたのでしょう。


ハゼが首都圏に出てきて、大海原を目指して取った行動は、新宿二丁目で、店名の印象だけを頼りに、下調べもせず単体で突撃するという暴挙。今でも時々「自分はバカなのでは?」と自問することはあるが、この時は本当にバカがブーストしていたのだと思う。
二丁目で最初に入った店には、時間帯が早かったためか客はおらず、ママ一人だった。初めての二丁目だと説明すると「なんでここにしたの?」と聞かれた。「何も分からなかったけど、店の名前でなんとなく」と答えたら「これはまた変なのが来たわね!」と大笑いされた。
その店に行くたび「頭おかしい」「キ○ガイ」と言われたが、どこか温かかった。そして、「そのマイペースは財産よ!」「あんた、他人に無駄な共感を求めないところが最高よね!」と褒められたりもした。この賞賛は、今でも自分の心の深いところでふんわりと光を放ち、苦手とする同調圧力の中で生きるのを助けてくれる。
その数年後、ママは店をたたんでお堅い仕事に就き、繋がりはいつの間にか途絶えてしまったけど、元気にしてるかな。今でも懐かしく思い出される恩人だ。

さて、のっそりと迷い込んできたハゼに対して「さすがにコレをいきなり大海原に出すのは危ない」「波に飲まれて命を落とし、妖怪変化と化す」と思ったのか、ママは、ちょっとだけ深いところとして、落ち着いたお店をいくつか紹介してくれた。そんなところを泳いでいた時に、最初の彼氏となる人と出会った。
ゲイの世界での経験による余裕はあるが、極端な寂しがりやという、どこか危うさをみせる相手だった。釣り上げられたハゼは、手順を踏んでお付き合いしたいと希望し、彼もこちらのペースに合わせてくれ、出会って半年後くらいにお付き合いすることになった。

相手はさんざん遊び尽くして、一生モノの相手を探していたところだった(ご本人談)。出会ったのは別の店だったが、彼は先述のママの知人でもあり、彼、ママ、俺の3人が同席すると、ママは彼のことを「モテるのよ」と評価しつつも、口調や内容はかなり手厳しく、彼は文字通り小さくなっていた。ママは俺の前で、彼の過去の悪行も暴露しまくったが、自分はなぜかそれほど気にならず「へーそうなんだ」と、淡々と聞いていた。いま振り返ってみれば、散々遊び尽くしてから新人(まあ、ハゼ程度なんだけど)をつかまえるというのは、ちょっと虫のいい話なのだろうか。もしかしたら、ママの中ではこの組み合わせはNGだったのかもしれない。仮にそうだったとしても、二丁目に出てきた高揚感に包まれており、かつバカがブーストしていた自分は、そんなことには気が付かなかっただろう。

ちなみに、タコはハゼよりずっと賢く、個体によっては3歳児くらいの知能があるそうです。すごいですね。

そんなこんながあって、初めてのお付き合いでは、ろ過装置とヒーターと照明とがついた水槽で飼われたかのように、とても大切にされた。水槽から出ることは叶わないが、これが好きな人にはたまらない環境なのだろう。しかし、この制約が加わったことで、自分の本来の性格がブクブクと音を立てて浮かび上がる。
もともとは思い立ったらどーんと突っ走る性格で、火の玉のようなところがあり、考えるより即行動。冒頭にも触れたバカ・ブースターのようなものが搭載されている感じだ。そのため、幼少期は親から時々注意されていた。
親の転勤で各地を転々する中で、それなりに痛い思いもしたので抑制していたが、二丁目に出た頃は、セクシャリティ含め自分の本質が解放されつつあったのだと思う。彼がくれた保護的な環境も、どうしても窮屈に感じてしまった。
この窮屈な思いは、彼には「愛情の欠如」として伝わってしまったようで、「こうしたら嫉妬するかどうか」「こうしたら寂しがるのかどうか」と、彼から常に試されるのが辛く、こちらも感情をかき乱されて、精神的に不安定になっていった。

真面目が服を着て歩いていたような自分には、適当にお付き合いしながら世界を広げるという選択肢はなく、自由になるために彼ときっぱりお別れした。
このときに、誰かとお付き合いする時には、大前提として、お互いの自立、特に精神的な自立が重要だと気づいた。お互いが、不安による支配から自由でいるために。

そして、自分が火の玉だったことを思い出したハゼは、やっぱり大海原も経験しておきたいと、はってんばって何だ、らっしゅって何だ、ごめおって何だ、ごーごーって何だ、とつぶやきながら、独り沖合に向かうのでした。おいおい大丈夫か。



余談ですが、このころ、二丁目エリアの入口近くに、博多の繁華街の名前を冠した豚骨ラーメンのお店があり、飲みに出る前にはよくそこで食事を済ませていました。今もあるのかな。
故郷とは少し違う味でしたが、ここでラーメンを食べることは、東京という流されやすい環境の中で、自分のアイデンティティを整える作業だったのだと思います。今でも、辛いことがあると豚骨ラーメンが食べたくなるし、食べていると、二丁目に出始めた日々がふと思い出されます。

まだまだ暑いですね。早く涼しくならないかな。
それでは、また。

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