そろそろヤバくなるのか賃貸経営

賃貸経営新興投資家は勝利の美酒に

リーマンショック以降の経済回復の目玉背策であった巨大金融緩和と長期低金利でチャンスをつかんだ新興賃貸経営層は一気に運用資産のボリュームを増やして、低コストでの運用と元本不動産価格の上昇でまさに我が世の春である。優れた社会人経験と時の流れを読み切った決断は素晴らしい。太陽光発電でも我らが情報不足で右往左往する間に、投資タイミングはすぐに通り過ぎてしまつた。優れた頭脳と情報力に秀でた人が一般企業で活躍の場が少なく時間を持て余しているのだから、決断力の弱い情弱は関ヶ原の戦場へ移動している間に決戦は終わってしまった舞台とよく似ている。

満ちた潮は満潮を過ぎれば引き潮が始まる

相場で価格が変動するものは、値上がり趨勢の時はどんどん需要が増えることで下値が堅いが、これ以上値上がりが見込めない局面では最後の需要にも供給がいきわたり、いったん下落趨勢になるとどんどん需要の層が薄くなり下落が加速される。不動産の需要側には金融融資はつきものだから、2000年前後の土地価格の大暴落で、自行の大型超優良資産を売却して不良債権処理でのマイナスを埋め合わせして、街一番の資産家と仰ぎ見られる立場から一気に金のない庶民に墜落した苦い経験を持つベテラン行員は面舵いっぱいで今度こそ座礁しないよう方向転換を急いでいることであろう。

既に臨界点は超えている

何がきっかけで見るに堪えない断層が露になるかはともかく、米中の構造的対立に加えアメリカ経済の成長や株価上昇力の限界、サブプライムローンのばかばかしいまでの蔓延とリーマンショック後の金融救急処置での不動産価格下落の延命措置など何から何まで、アメリカファーストの剛腕政治の継続で、瀕死の英国、イタリア、フランスも過去の栄光がまだ残り香を残しているので一気に市場がセリングクライマックスになってはいないが、時は刻々と迫ってきていると感じる。国外富裕層が使用人を雇って入居させて所有するロンドンやパリ中心街のコンドミニアムには、郊外ゾーン住民の貧困化・困窮化と治安悪化などの影響を強く受けるであろうことから、もはやそれら豪華シエルター住宅所有に何の意義などあるのだろうと不思議に感じる。もちろん日本が例えば5億円以上の高級住宅購入とセットで居住権を認めるような政策に転ずれば、世界の富裕層がわれ先に購入して、消費や税収の増大に大いに貢献してくれるであろうこと必定なのだが、今のところそのような発想が微塵もない悲しき視野狭窄を憂う。水が豊富で治安が良く食事のレベルも高い日本は、外国人労働者より外国人富裕層の取り込みにこそが最重要課題であります。今は細々しか納税していない私でも50代頃には日曜日さえ休めないほど仕事に追われ売り上げが増え、その納税額に辟易し、ついつい一線を越えて重加算税タップリの税務調査を経験した身とすれば、意外に賛成多数を獲得できるはずだと思いますよ。

不動産はやはり蓄財の華なのだ

世界史のなかで不動産の重要性を燦然と思い出させるのは、ローマ時代の貴族が自分の邸宅よりいい立地の貴族の邸宅を羨むという逸話です。ローマの旧市街のどこの貴族の館だろうと、大統領官邸近くのひなびたホテルからトレビの泉近くののレストランまで薄暗い夜道を歩きながら、うっすらと照らしだされた貴族の屋敷跡の廃墟のあちこちに、人生における不動産の深淵を探そうとした経験があります。ローマ貴族にとってフォロ・ロマーノやコロッセオなどのローマ中心街から徒歩15分以内に自分の邸宅がないとなんだか他人を羨む気持ちが理解できそうです。日本の大名屋敷は江戸幕府からの借り物意識が強いせいなのか、そのような嫉妬物語が全くありません。やや不思議です。旗本・御家人も邸宅の立地より、所領や代官の石高が強調される嫌いはありますが私の知識不足なのかな。江戸時代の旗本・御家人に限らず大名さえも何時も国替えや領地没収の恐怖にさいなまれていたので、そのような他人の邸宅を羨む余裕はなかったと解釈しましょう。

不動産の価値は立地!永遠の真実

古代エジプトの代表的な首都はナイルデルタの扇のかなめに位置する「メンフィス」です。西側背後はギザ、サッカラなどの丘陵墳墓ゾーンです。その外港が北東方の地中海寄りの「タニス」です。ナイル川の上下の水運はメンフィスのナイル川河岸ゾーンで商いされ、対外交易・地中海交易はタニス港で商いされたと理解できます。古代エジプトでのルクソール港の繁栄は紀元前12世紀頃からであり、既に古代エジプトの大繁栄期の峠を過ぎてからの街です。ツタンカーメン王の宝やハトセプスト女王のプントとの海外交易などの印象が非常に強いため、私もそうでしたが、ついついルクソールの栄華の時代を思い浮かべますが、ルクソール繁栄時代にはすでにペルシャやフェニキア、ギリシャの交易商圏支配力の拡大がエジプトのそれを凌駕し始めていたのです。トトメス3世のメソポタミア遠征やラムセス2世のヒッタイトとの大武勇伝の物語もエジプト文明終焉期の最後のあだ花でしょう。すべては永遠の首都メンフィスが水が湧き出て掘り返すことが出来ないナイルの砂の下10m以下に埋まってしまつて、その豪華絢爛な宮殿遺跡群の片鱗さえ我々は覗き見ることが出来ず、インパクトがないためです。エーゲ海のドロス島はgoggle mapで検索して初めて見つけれるほどの小さな島で、世界遺産であることを除けばほぼ存在価値のないような島ですが、エーゲ海交易時代全盛期には中枢交易拠点、奴隷市場として天下に並ぶものなき立地だったのです。ギリシャ時代のナポリ港一帯、シチリアの港の繁栄にも驚きますが、今は名もなき海岸背後のギリシャポリスの遺跡「パエストゥム」、「なんでこんなに豪華な神殿群が建てれたんだ!」と叫びたくなるレベルですが、ただただ、地中海の水面低下で港湾機能がなくなればだれも見向きしない廃墟だったからこそ、今我々を驚かせることが出来るわけでしょう。


国際交易港はユダヤ人の移住と共に移転する

コロンブスがユダヤ人であろうことは、当時の最先端の航海術がユダヤ人のものであり、ポルトガルやスペインの大航海時代でのユダヤ人の優遇、やがて豊かになってスペインはユダヤ人を迫害、オランダの港へのユダヤ人の逃避的移住、オランダ港湾都市の大繁栄などなどユダヤ人を招き入れて優遇することが交易都市の発展を招き、豊かになったらユダヤ人を冷遇・迫害して繁栄が衰退することは世界的な港湾都市の栄枯盛衰の決まり事です。航海術と商事・金融に秀でたユダヤ人は、古代エジプト以来の医術や宝石加工、音楽、絵画と共に紀元前2700年以来の時間的優位をもって世界をリードし続けているのでありますから、紀元前400年頃から文明に目覚めて追跡してもまだまだ敵うわけがりません。歴史的には古代エジプトより医術も建築も先進していたメソポタミアの科学はその後どこに行ってしまったのでしょうか。ユダヤ人と違いバビロン人はズーっとバビロンにとどまり、アレキサンダー亡きあと街の凋落と共に朽ちていったのでしょうか。それが普通で、やはりユダヤ人は金や宝石などに分散し不動産に拘泥しないので最強ですね。

日本での不動産投資のはじまり

日本の不動産価値は昭和30年頃まではお米生産のための農地の価値と同義であったのではなかろうか。厳密には江戸や大阪などに商人や庶民の長屋などで土地価格格差の生じていたことは確かだろうし、江戸時代の東海道や中山道の宿場町、花街等には立地価格格差があったことでありましょう。ただ、宿場町も花街も許可ゾーンで範囲が決められ、営業努力によって立地中枢が移動するとかのイメージではなさそう。繁盛する立地は世襲によって引き継がれるのでしょうから、経営失敗で権利の売買が起きるとか独占利益とか寡占化もなさそうです。本陣などが街の中枢ですが、これも旅館業的競争が起きる性質のものではなく、地域豪商などの名誉業的なレベルと理解できそうです。立地競争、利便性競争が起き、土地価格の格差が顕著に広がり始めるのは、やはり昭和30年以降の高度成長期以降でしょう、大都市圏にたくさんの工場が建ち、働く労働者の住宅が増え、生活用品を商う商店街が集積し、生きるため食べるために農地に縛られていた人々に、都市は自由と豊かな生活を与える楽園として燦然と輝き人々を誘引し不動産は”立地”という新時代の扉を開きました。

内幸町のNHK跡地の売却価格坪当り1000万円強

昭和30年代40年代前半までは不動産への関心はまだまだ大都市圏ゾーンでの話ではなかったでしょうか。40年代後半ごろから、昭和37年に制定された新産業都市とかで地方にも工場進出等が活発化し小さな住宅ブームが点火されありました。ところが1972年12月8日の日比谷公園横の 内幸町の現在の日比谷国際ビルヂングなどの敷地10,550㎡が354.6億円 坪当たり1,000万円越えで三菱地所に落札されたというニュースは、全国津々浦々に土地ブーム到来を告げる号砲のような出来事でした。しかも73年には田中角栄さんが総理に就任しいよいよ日本列島改造ブームが佳境に入ります。ところがこの好景気に津波のように襲い掛かってきたのが第一次オイルショックで、3か月で約4倍の原油価格上昇、消費者物価も73年が15.6%、74年が20.9%上昇に伴い、経済成長はマイナス7.2%と貨幣価値の減価の一方、不動産価格は比較的堅調ということで、都市はもちろん田舎の田んぼでさえ、不動産こそ値上がりが期待できる最も大切な財産だ、売るべきでないとの刷り込みが現国民にできてしまいました。売りが減って買いたい人が増えれば価格が上昇するのは市場原理です。しかもこのようななかマイカーブームやマイホームブームに伴うインフラ整備のために道路や河川整備のための公共用地買が活発化します。また万一の場合でも換価能力が高いことから金融機関も土地担保融資を積極的に拡大します。3年間で約2.7倍に原油価格が上昇するという第二次オイルショックに79年80年襲われますが、インフレに負けない上昇力の土地はついに投資・蓄財の頂点に君臨します。

悪乗りが行き過ぎを加速して破綻へ

比較的安定した経済成長のもと、用途転換や造成などに時間を要し、供給がすぐには需要に追いつけないという不動産という特性から、マイホーム用地を求める人、工場用地や店舗用地、事務所ビル用地を求める需要が順調に増え、土地価格が上昇を継続することで土地を先行取得できた人には土地の値上がり利益、含み利益という余裕資産が生まれ、毎年大きくなる安心感も生まれ消費も活発化し、不動産譲渡所得税の増加などがあると役所にも地価上昇の恩恵が波及し、制度的にもこれを一層推進するような政策に進んでいきます。マイホームローンでの支払い限界を超えた住宅価格に対しては「マイホームは値下がりしないのでサラリーマンにとって生命保険代わりにもなる」というような理屈も編み出されついには不動産バブル崩壊まで突き進んできます。

私の土地投資のささやかな始動

一生懸命仕事で蓄えたお金を何とか有効に運用したいと考えた私も、先ずマイホームを最優先で建てました。次には安定した成長が期待できる都市の土地を購入したいと考え、当時の首都移転構想ブームもあり、浜名湖から湖西市にかけての広大な未利用地ゾーンは首都移転の適地ではないかと考え、広島県東部からのこのこ土地探しに出かけ、1982年に豊橋市の、83年に浜松市の山林を購入しました。いずれも調整区域の辺鄙なところですが、誰でも欲しがるような土地が購入できる資金も信用力もないなかでの精一杯の思惑買いです。その後首都移転構想は政治のオモチャであり、私は見事に騙されていたことを自覚しました。85年に常磐新線構想、今のつくばエクスプレス線の発表をうけ、またまた欲の皮を膨らませ自分にも購入可能性がある利根川以東ゾーンでレンタカーを駆使して土地勘を高めていきました。今考えると自分の馬鹿さ加減を痛感しますが、当時は都心への通勤時間片道70分とかも違和感を感じない時代でしたし、利便性の良い土地を売却する農家もいないわけですから、いくら農地、山林がいっぱい見えてもそれらは潜在的な供給物とは見えませんでした。わずかな供給にたくさんの需要が競合するのですから急激な価格上昇を伴います。

異様な熱気が裁判所競売場を包む

90年頃であったか、91年であったか、今となっては記憶が定かでないが、つくば市内の常磐新線沿線の土地が何件か競売になったので、土浦駅からやや離れた土浦城跡の土浦裁判所での入札書開札に参加したことがあった。開札場には50人近いたくさんの人がいたことと、改札結果が異常価格の連続であったことを今でもよく覚えている。目玉物件が3件程度あり、いずれも20~25程度の入札があり、執行官がA4の入札書を片手で持ち、安い順に読み上げていくのだ。金額が小さく目玉物件でないはずの私の入札でも10件程度の入札があり、私は2番目に呼ばれてしまうていたらくであった。自分に関係のない大きな物件の開札は聞き流すわけだが、開札の最後に読み上げられる落札者の住所が新宿区新宿3丁目又は4丁目で、それぞれ社名は違うのだがいずれもカタカナの社名、そのうちの一社が例えばアナトリウムとか、何か星座をイメージする会社が何度も何度も読み上げられたような。なぜかくも新宿の不動産会社だけなのか?は地方人の私に今も解けない謎として強く印象に残っている。設備資金などの長期資金を融資する長銀等が借り手の減少で不動産関連に莫大な資金を融資していたことを知るのは後のことであった。目玉物件でのパターンで、執行官の開札の読み上げで例えば最低入札価格が5,000万円程度で最後の3札あたりで1.5億円、2.5億円、最後の札で3.5億円が出て、会場で怨念が入り混じった、うめくような声とは言えないどよめきが起きる。著名な某社の工場の敷地に関連するのか、1,000㎡程度の宅地で最低入札価格の約10倍で、ほぼ無競争状態で落札されたことは、今でも近くをレンタカーで通るたび思い出される。当時苛烈な競争のなか落札して勝利の美酒を浴びた人たちは、その後買値の5分の一以下になったでありましょうから、当時をどのように思い出しているのかな。私はといえば”利根川の濁流ですべて流されてしまった”とビールを飲みながら自虐的に自慢している。

痛恨の失敗

なかなか購入できない時間が長かったのですが、92年の不動産関連融資の引き締めなどで異常な熱気は終わります。ただ当時の空気は今の誰もがイメージするようなバブル崩壊というものではなく、いったん休憩してまた土地価格は上昇する可能性を残しているのではないかという空気だったと記憶しています。95年の円高不況の公共投資拡大、景気テコ入れなどいろんな政策がカンフル剤のように作用して土地価格の方向性が見えない時代であったように感じます。私は96年頃従前の相場より3割ぐらい安くなっているので坪20万円で100坪2,000万円レベルの宅地を嬉々として購入しました。97年から98年にかけては大手銀行や山一証券などが倒産し怒涛の金融帝国崩壊時代に突入しました。銀行支配、金融行政から土地価格上昇の基本政策まで全てを牛耳っていた大蔵省の非力が露見して、すべてがガラガラと崩壊していく局面です。東京などでは、すべての土地、不動産は融資がないなか需要は減少し、一方銀行からは土地、不動産を強制的に売却される供給だけが増え、一気に価格が下落してついには5分の一になった感じでした。整理回収機構が活動を開始したのが1999年4月ですが、2000年頃からは不良債権処理など銀行も生き残りに必死の時期だったのでしょうか、不動産融資が枯渇し、融資がなければ需要はないに等しく極度の不動産不況で、ほぼ2003年頃まで続きました。2003年頃の何時かの時点から競売の入札価格が上昇しはじめました。明らかに不動産融資が再開されたのです、渡し舟が岸から徐々に離れ、ついにもう乗れない70cm以上離れてしまうという不思議な感覚を持ちました。

弱小不動産投資家未だ存命中

96年(平成8年)の急ぎすぎ買い入れ失敗でおおきな含み損を抱えてしまいましたが、それまでの土地神話があまりに強烈であり、最高価格時代の5分の一ということがなかなか信じられず、こんな安値がいつまでも続くのはおかしいと感じて2001年(平成13年)頃から不動産投資に復帰しました。資金はインド株のカントリーファンドのインデア・グロースなどを売却したほかかかき集めました。コンピュータの2000年問題などでインドのソフト会社評価が急上昇したあとで、500万円から1000万円程度で、順次資金を得ては、敷地15坪~20坪の借地権付き戸建など安いものでは200万円~600万円程度で3戸取得しました。戸建で状態のいいものはなどは競争が激しく、弱小投資家は需要の少ないものしか取得できません。ただ立地は東京駅30分ゾーンが目標と比較的厳しい条件を課していました。2005年につくばエクスプレスが開通しましたが、沿線開発の一体型土地区画整理事業は2018年にほぼ完了であり不動産の先行買いは成果が出るまでに長い時間がかかります。その間最低でも年間10%、高いものでは20%以上で回り、徐々に地価上昇も顕在化しましたので、何とかそれまでの重ね重ねの失敗はあるものの、何とか生き延びてこれました。近年の仮想通貨ブームをはじめいろいろなブームがあるわけですが、熱しやすい性格とはいえ、自らあの土地ブーム参戦し巨大な土砂崩れに遭遇しました。ただ、今でもなぜあのような巨大なブームにまで燃え上がってしまったのか不思議でなりません。一度大けがをするとそれがトラウマになってなかなか近寄れないと思いますが、こんなにも低金利な時代で、世界的にも割安な不動産価格なのに、二度と騙されたくないという心理が強く、安全に見える預金で安心しきっています。

2019年10月の米中貿易協議

もうすぐ米中貿易協議が始まります。アメリカの中国品への高関税で中国は製造業をはじめあらゆる分野で苦境が本格化しており、当初のいくらでもケンカの相手をしてあげますよ!からもう仲直りしましょう、豚肉や大豆など農産物を貴方からたくさん買いますからに転換しているが、トランプさんはいよいよ有利な状況に次々難題を増やしてきた。世界のビジネス界のなかで最初に”コリャだめだね”と指標を出したのがバラ積み船のスポット用船料指数を出すバルチック海運指数様のようです。8月中旬からの指数上昇が何を意味するのかわかりませんが、今はあきらめムードの感じです。

バルチック海運指数

今度決裂したら大変なダメージなのはわかっているのだが、やむに止まれぬ大喧嘩になりそう。中国の民間企業が資金繰りに困ってCEOが所有する日本のタワーマンションを売却するとかの話が出てきても不思議ではない。もちろん本国でもたくさん売りに出されるのではないだろうか。中国の優秀な官僚頭脳集団が日本の株・土地バブル崩壊を何度も検証して予防策を講じていても、やはり長期に積みあがったバブルは手に負えないものになると思い知らされるのが半年後なのかも。なぜあんなことに巻き込まれたのかと、今はほぼ無価値に堕ちた浜松市や豊橋市、霞ヶ浦近くの所有山林たちの資料を見るたびに自分の強欲と当時の連戦の勝ち戦に酔った人々の強欲さが思われる。



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