あひみての

のちのこころにくらぶれば

高校時代を共に過ごした友人がはるばる会いにきてくれた。自分が傷つかないための予防線で初めから人のことを信じるということをやめたのはその時期で、当時の友人に会うときはいつもどんな見え透いた嘘でドタキャンされても、信じたふりで馬鹿みたいに振る舞おうと思いながら当日を迎えるのだが、キャンセルされることもなく。会ったら会ったで、こんなにも好きだったのかと思い知らされるほど楽しい時間が過ごせるのだが、どうしても期待するのをやめることをやめられない。ちなみに、信じることをやめるということは信じないということと同義ではない。信じないというのは積極的にマイナスになっているイメージだが、あくまでも、プラスにすることをしない、というイメージで、つまりは無の状態を望むのである。

当時の思い出話なんてものをしながら、懐かしい名前が大量に飛び出して、相変わらず当時の記憶を抹消している私はかろうじて思い出される記憶を繋ぎ合わせては違うよと突っ込まれているこのごろ。一緒に卒業した人さえ曖昧になっているので、人は思うより人のことを覚えていない。私ももしかすると卒業しとらんのかもしれんしなぁ。いや、しとるんやけど。

このまえ仕事中に、懐かしいゲームの話題が出て、ゲームといってもいわゆるゲームではなく、チームビルディング系の、宇宙に行ったり無人島に行ったりするやつで、そういう企画をたてているのをみて、そういえばそんなことする側だったなと思い出す。ちなみにする側を経てされる側にまわると、目的を知っていて踊らされる子羊みたいな気分になって居心地悪くなるやつもある。答えのない問いがいちばんいい。答えがある問いをいかにも答えを知らないふうに振る舞うのにはもう疲れた。とはいえ、あのころの記憶がもう少し残っていれば仕事でも活かせたのかもしれないと思うと惜しい。資料くらいは残ってそうだが、余計なことまで思い出しそうだから思い出すのをやめておく。ちなみにここの思い出すのをやめる、は、思い出さないとほぼ同義である。難しい。

最近は変に脳を使いたくなることがあるから、改めて百人一首をひゃくしゅ覚え直すのもいいかもしれない、と、今思い始めた。百人一首の英訳を調べるとか。文構造とか。意味とか。

親友はもう結婚して一児の母なのに、私はこれっぽっちも変わってないなと愕然とした。あと赤ちゃんは1ヶ月でぎゃんでかくなる。私も1ヶ月でちゃんと成長したいけど前髪がわずかに伸びるくらいだ。鬱陶しい。高校生のころは、気付いたら結婚してるものだと思ってたけど、気付いたら独身貫いてそうだった。

むかしはものをおもはざりけり


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