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モザイク模様の椅子(仮)

《どうか。あなたのことを姉か妹、あるいは兄か弟と呼ばせてください。そして伸びる背丈を競って育ってきたかのように、親し気に名前を呼ばせてください。けして、馴れ馴れしいとは思わないで。本当なら、それであたりまえだったのです。
 闇。光や物質はおろか、声や言葉すらも存在しない暗闇こそが私たちのすべてでした。私とあなたは暗いところから生まれ、いずれ還っていきます。そのような決まりなのを、私は教えられずとも小さなころから知っていました。また、自分があらゆる面で未完成であるというのも。
 ずっと長いあいだ私は飢え、渇いていました。それは充足への欲求はどんな遊びや気晴らしでも、まったく満たされはしません。あらゆる競争への勝利も己を慰めるにはとうてい足りませんでした。そのために悪い誘いに身を任せたこともあります。結果はもはや言うまでもないでしょう。
 だからあなたの存在を知った瞬間、両親をなじりました。何事にもあってしかるべき形がある、道理に合わないことをするなと。彼らは手と額をついて謝ってくれましたが、私は許すことはしませんでした。十数年も善人面をしてこちらを欺き続けてきた人たちに、どうしてそんなことが出来るでしょうか。おまけにあなたがどんな名前で、今どこで誰と何をしているのかさえも知らないときている。まるでお話にはなりません。
 いずれにしても、このときから私の旅は始まりました。正確に述べるならばこれより以前から私の心身は、すでにあなたを求めてさまよっていました。しかしあなたが……私と血肉と共にするあなたが、世界のどこかいるのを理解したとき。私の目は裂かれたように開かれたのです。そしてどうにかして、またどんな手を使ってでも、あなたのもとに行かなければなりませんでした。…………――――。》

            §

《どうか。あなたのことを姉か妹、あるいは兄か弟と呼ばせてください。》
 そんな手紙を日下部有理が受け取ったのは、ある年の深秋のころだ。恐ろしい手紙だった。宛名どころか切符や消印すらないのに、自宅のポストに入っていたのだ。
 そして有理がとある男と出会ったのも、ちょうど同じくらいの時分だった。
 年の暮れが目先に見えてきた11月の半ばごろの、ある水曜日。有理の所属する家具工房に一本の電話がかかってきた。なんでもオーダーメイドで椅子を製作したいのだという。そして製作を有理に依頼したいとも。

「名指しで仕事が舞い込むなんて、けっこうなことじゃないですか」

 電話の内容を有理に伝えるついでに、リーダーはこのように言う。もしかしたらそのときの有理の顔つきが、不安そうに見えたのかもしれない。こいつがいいと名前を挙げられるのは、今まで仕事をしていてあまりないことだったのだ。
 ついでにリーダーは有理に対し、こうも告げる。

「あまり気張らずに、せいぜいがんばって稼いでくださいよ」

 それから1週間後。雲の多い、日が陰りがちの水曜日。打ち合わせのために、工房に1人の男が訪ねてくる。やや細身のカジュアルスーツを着こなす、襟足のきれいな男で、名前を續谷雪(せつ)という。
 濃紺のテーラードジャケットに、グレーのスラックスの組み合わせは一見すると陰気に思われた。けれどもジャケットの下には淡いサックスシャツを配していて、背筋もしゃんと伸びているから、さほどうっとうしい感じはない。くわえて靴も磨き抜かれていて、清潔感を覚えさせる装いになっている。
 実際彼の袖口からは洗剤っぽい、フローラルな匂いが薄く漂っていた。それは人工的な香りで、そして我が強かった。こんな自分は身綺麗だし君だってそう思うはずだ、と暗々裏に主張しているのを有理はたしかに嗅ぎ取っていた。同時に彼からもたらされる仕事はきっと難しいものになるという予感も――。このような男こそが續谷雪だった。
 自分の椅子が欲しいのだと、あらためて彼は言う。歯切れのよい、明瞭な話し方だった。
 事のあらましはこうだ。今秋に新築した自宅にあわせて家具を新調したのだが、どうしても椅子だけはしっくりするものが見つからない。いっそのこと自分で作ってしまおうと、図面を引いてはみたけれども何だか違和感がある。これだと思いつくかぎりの部分に手を加えても、何かが違う感じがどうしても解消しない。ならば、いっそのこと専門家に任せようと決めたのだと。

「まあ蛇の道は蛇ということですね。己の分を知らなかった、僕も悪いんでしょうが」

 そして己の理想を体現する者として、彼は有理を指名した。以前に有理がコンペに出した作品を見かけて、作風がとても気に入ったのだいう。
 それを聞いて有理はなるほど、と納得する。たしか、あのときに製作したのも椅子だった。色合いが異なる木材を組み合わせた、モザイク模様の椅子だ。

「縫い合わされた傷口みたいに、ぴったりとした椅子が欲しいんです。素材は木製でお願いします。ブラッドウッドや黒檀のような重厚なものではなく、マボガニーやイチイのように少し軽い感じで。持ち運びもしたいんです」

 ……ごく一部分を除けば、續谷雪の要望は具体的だった。そして気が回ることに自宅の写真、間取り図――というよりも設計図まで持ってきている。
 これは有理の持論だが家具というのは、それ単体としては完結しない。もちろんデザインそのものの良し悪しはある。しかし前提としては使用される目的と、設置される場がありきの存在だ。見かけの優美さやスタイリッシュさのみに走って使用感をおざなりにすることはもちろん、機能性のみに重きを置いてもいけない。家具とは使い勝手と置かれる場所、この二つと調和しなければならないのだ。
 だから續谷が自宅の設計図……特に各部屋の写真を持ってきてくれたのは、有理にとってはとてもありがたいことだった。 (よこせといっても持ってこない客もいるので、感激はひとしおだ)しかし續谷邸内の構造に、有理は一抹の奇妙さを覚える。
 写真で見る續谷邸はガレージ付きの2階建てで、角砂糖みたいに四角い、モダン的なデザインの家だ。その一階の真ん中に部屋がある。とはいえキッチンダイニングや、リビングではない。四方を壁に囲まれた、独立した部屋だ。
 この一室は面上でもそこそこの面積があるのが読み取れた。実際に六帖と記してある。それがまるで死に時を逃した将軍のように、家の中央部を陣取っていた。おかげで2階への階段や和室に続く廊下はロの字に分岐する構造になっていて、隣接したキッチンや客間などの他空間もL型に湾曲しているありさまだ。
 また室内もなかなか風変わりな造りだった。窓がいっさいなく、四方八方に壁が聳えている。換気口や出入り口を除けば、あとにあるのは照明とエアコン。それだけの簡素な内装だった。猫を閉じ込める前の箱。そんな言葉が有理の頭に浮かぶ。
 何となく据わりの悪い気分になって、設計図の下部に視線を移す。刹那、ふと図面の作成者名が有理の目に飛び込んできた。まもなく有理は相手にこう問いかける。

「このお家、ご自分で設計したんですね?」
「ああ、やっぱりそこが気になりますか」

 実をいえば、自分は建築士なのだと續谷は言う。数年前まで建設会社に所属していたが、現在は独立してフリーで活動しているらしい。そしておかげさまでどうにか順調なのだとも、どこかくすぐったそうな顔つきで語った。その含羞の中に、誇らしさが滲んでいたのを有理は覚えている。
 己の稼ぎでマイホームを建てたのだから、あたりまえだろうなと有理は思う。それからこうも考える。このような人間が求める椅子とは一体どのようなものか。またどのような葛藤を経てあのような家を造り、自分の椅子を彼は欲するようになったのか。

「だからね、本当に楽しみなんです。だって自分の家を、自分の好きなもので構成できるなんて素晴らしいことでしょう」

 そうですか、と男の言葉に有理は返す。その意味が褒められているのか、社交辞令なのかは判別がつかない。しかし彼の言葉を聞いていると、何だか背中がむず痒いような変な感じがした。

「いろんなルールや不確定要素があるので、必ずしもご期待に沿えるとはお約束は出来ません。ですがもし本当に契約をなされるのであれば、なるべくご要望をとりこぼさないように取り掛かります」
「大丈夫ですよ」

 そう、こともなげに男は言う。本当に不安のない、平気そうな調子だった。自分事でもないのにも関わらず。それから彼はこうも続ける。

「あなたと僕は何もないところから、1つのものを生み出すことができる。そういう仕事をしているんです。だから、大丈夫」

      *

 顧客がいくら乗り気でも、その日のうちに契約は成立しない。
 まず相手の要望を取り入れたデザイン案を作成し、それを提出して確認を取る。出来上がったものが自分の希望や想定される使用用途に沿っているかはもちろんのこと、家――設置場所の風景と溶け込むか、あるいは自分が腰かけたり、足を組んだりするのをきちんと想像できるのか、このような事柄を自分の目で確かめてもらうのだ。
 オーケーがもらえれば上々だし、たとえ却下されたとしても修正点の指摘や要望がもらえればリテイクする際に参考に出来る。しかし何度検討を行っても、どうしても合意に至らずにお別れするという事態もまま存在する。だが、いずれにしても時間は無駄にはならない。お互いに方向性の違いがわかっただけ、かえって有益だ。
 そして以上のような課題を乗り越えて、了承を経たのちに契約書のサインをもらい、見積もりや料金の支払いなどを終えて、初めて製作に取り掛かることができる。
 日下部有理はこれらの諸条件の融和を、ことに重視する職人だった。
 “それぞれの家には特有の匂いがある”というのが有理の持論だ。いわゆる生活臭ではない。もっと隠微で、察知しにくいもの。蓋をされて忘れ去られた枯井戸のなか。地下鉄の闇や、暗渠の向こうに潜む生き物の呼吸。そんなある種の流れのようなものだ。
 具体的に言えば靴箱の中の区分けとか、脱いだコートはどこに掛けるとか、そういう習慣の積み重ねといってもいいかもしれない。それらが家や人の雰囲気に現れたものを有理は“匂い”と呼んでいる。
 また家具というのは、この“匂い”とうまく折り合いをつけなければならない。家に対して主張が強すぎれば窮屈だし、匂いに負ければ癪の種だ。このような歪さを含んだ風景の中で暮らし続ければ、遅かれ早かれ破綻する。それが十数年の勤め人生活のさなかで、有理が発見した事実だった。
 このような観点でみてみると、やはり續谷邸の構造は奇妙な趣をしていた。そしてその不可解な印象の大部分は、中央に配置された一室が担っている。……何と言い表せばいいだろうか。無理やり言葉にするなら家のための部屋ではなく、部屋のための家みたいな感じなのだ。それでも、微妙に実態とは噛み合ってはいないが。けれどもこの感想が一番、有理自身が覚える感覚に近い。
 さて、どうしよう? デザイン案の製作中。續谷が再び工房を訪れるまでの一月のあいだ。自分のブースにあるパソコンや会議室のホワイトボードの前で、有理は幾度となく腕組みをした。その眼前にはいつも拡大コピーされた設計図が貼ってあって、その上に部屋ごとの室内写真を留めてある。
 資料から漂ってくる續谷邸の“匂い”は、今までにない濃密さを持っていた。もちろんこの世界のあらゆる物事がそうであるように、似通ったものはあれど、まったく同じ“匂い”は存在しない。だが續谷の場合には、何か特異性の中に、抜きんでたものがあった。ぼんやりしていると、気圧されてしまいそうになる何かが。そして續谷雪という男の存在そのものが、なおさら有理を悩ませた。

「やっぱり、賞をもらう人って考えることが違うなあ」

 自分の席で資料をじっと眺めていると、おもむろに隣のブースから後輩の末岡が顔を出して覗き込んでくる。

「こだわりが強いんでしょ」有理は言う。
「でも自分のこだわりをほどよく落とし込むところが、一流ってやつじゃないですか」
「そうかねー。こっちは違うように見えるけど」

 初めて会ったときにはわからなかったが、彼が国際的な賞を授与された名うての建築士らしいのを、有理はインターネットで調べて初めて知った。実力により与えられた権威がさらに評価を呼び、新しい仕事を招くようだ。ここ最近では誰でも知っているような企業の持ちビル、図書館やオリンピックのボランティアセンターとかの公共施設など大きな仕事を手掛けている。
 画像検索で續谷が設計した建築物をいくつか見てみた。突出した奇抜さはないが、理論に裏打ちされた堅実な造形のなかに独自性を感じさせる作風だ。適切な量で振りかけられた調味料みたいに、目障りにならない程度の。
 しかし續谷邸は違う。公の場では上手く忍び込ませていたエゴイスチックな側面が強く現れている。きっと先日述べていた通り、本当に自分の好きなようにしたのだろう。もちろん法律や予算などの制限があるのだろうけれど。
 仕事も好調で、マイホームもあるとなれば人生がさぞ楽しかろうなと有理は思う。インスタグラムに投稿された画像もシャンパングラスを背にした夜景とかベンツとか肉寿司とか、何だか高級そうなものばかりが写っていて、私生活も充実しているように見えた。実際の内実はわからないが、少なくとも表面上はそう映るよう工夫しているに違いない。男のそのようなところが、有理をなおさら苦しませる。
 ――縫い合わされた傷口みたいに、ぴったりの椅子が欲しいんです。
 彼の述べた理想は抽象的で、掴みどころがない。唯一この時点で有理が理解していたのは、彼がこちらに何かを強く求めていて、その期待に応えてくれると信じているということだけだ。
 とはいえ、そんなことが仕事をしない理由にはならない。休憩時間や他の依頼品を製作する合間に材木を物色し、写真集や画集を引っ張り出して既存の作品を参照する。そうして寝ても覚めても、ずっと依頼された椅子のことを考え続けていた。まるで無遠慮に吹きかけられた煙草の煙みたいに、いつまでも頭からまとわりついて離れないのだ。けれどもいまだにこれだというデザインが浮かばないまま、気がつくと半月が過ぎていた。

「どうです? ちょっと住んでみたい感じですか?」
 間取りや写真を見ながら、隣で末岡が言う。
「いや、住まないよ?」
「いや、もしもの話で」
「どうだろ。動線にちょっと癖があるからな」
「でも、おもしろくないですか。変った部屋がある家」
「それはケースバイケースかもだけど、まあ居心地いいのが一番でしょ」
「ああ、先輩はそっちのタイプなんですね。インテリアをどうこうしたいってより、近場のコンビニとかスーパーを優先するタイプ」

 ふうん、そっか。こんなことを口にしながら後輩は曖昧に頷く。しかし相手のわけしり顔に、有理はあまり納得がいかない。勝手に分析された不快さあるけれど、スーパーより内装が上回る言い草が不可解だった。歩いていける場所にスーパーがあるか、ないかは重大事ではないだろうか。(複数あるとなおいい)
 まあ実際に住んでみないとわからないことだって、ありますし。そう言って後輩はしずしずとブースに戻っていく。有理は再び一人きりになり、續谷邸の資料と向かい合う。
 續谷が我の強い男なのは、あきらかだ。くわえて職業人としても腕も確かで、おそらく物を見る目も肥えている。けして生半可な仕事では納得しないだろう。そしてどこかしらでも雑にこなせば、彼は必ず適当にすませた部分を見抜くはずだ。その瞬間を想像すると、ぞっと背筋が冷たくなる気がした。とはいえ行き詰っていることに変わりはないのだが。
 有理が件の手紙を受け取ったのは、ちょうど頭を抱えていたころだった。

     *

《――……実をいうと私はあなたのことを、とても可哀そうだと思っているのです。もしかしたら自分がどんなことに――あるいは飢え乾いていること自体を、あなたはまだ知らないのかもしれない。そしてかつての私と同じように欠けてしまった何かや誰かを求めて、さまざまな危険と誘惑に満ちた世界をあてどなく、さまよい歩いているのかもしれない。何が何だかわからないまま、ひとりぼっちで。
 そんな人を、どうして放っておいていられるでしょうか。私はいつも目を凝らし、注意を払って準備をしていました。いかような場所で、どんな時間であっても、あなたを見つけた瞬間に手を伸ばすことができるように。私はあなたを待っていたのだと、きちんと言えるように。
 だからあなたを一目見たときに、この人こそ私がずっと探し続けていた人だとわかりました。針と縫い目とに繋がる細い糸。水面を覗いたら、映り込んだ影。この舌や両目と同じくらいに、限りなく近しい人。きょうだい。私にとってのそのような誰かが、あなたです。
 あなたのことを知れて、私は本当に嬉しかった。人生を半ばで断念せず、まだ、この世界でちゃんと存在してくれたこと。二人ともが思っていたよりも、ずっと近い場所にいたこと。そして再会の用意のために猶予を与えられたこと。これらのすべてが私には、とても喜ばしいことのように思われました。
 しかし同時に新しい不安が私の胸に起こります。あなたの姿を追い求めているあいだ、あなたがどんな風に暮らして、どんなような人たちと知り合い、友達になったのかを全然知らないのです。もしかしたら私以外の誰かに身ぐるみを剥がされたり、手足の骨を折られたりされたのかもしれない。あるいは寂しさから危うい遊びをするのを、許してしまったのかもしれない。それだけは、いつも気がかりです。――……。》

     *

 たしか、あの手紙は電気や水道と請求書のあいだに挟まれるようにして入っていた。有理の暮らしている地域では電気代の明細は月終わりに、水道代の明細は月初めに届く。そこから日数を計算すれば、これが投函されたのはちょうど續谷と初めて対面したあたりになる。
 今どき珍しい、手書きの文章だった。そして止めや跳ねが適切に行われた文字でもあった。便箋から石っぽい匂いがしたから、使われた道具はおそらく万年筆だろう。筆圧も力み過ぎず緩すぎないちょうど好い加減で、裏抜きすることなく、なめらかに書かれている。
 このような見かけの端整さが、かえって内容の異様さを際立たせた。文面から漂ってくる妖しさは、まるで雨中の薔薇みたいに匂い立って、こちらにまとわりついてくるようだった。
 怖い。その気持ちがあのときに存在したのは、今でも確実に断言できる。でも弱かった。どちらかといえば受け身な感情よりも、衝動的な激情が上回った。こっちは仕事でせっぱつまってるのに、いったい何なんだ、このお気楽野郎は。
 ぎったぎたにしてやる。必ずお日様の下に引きずり出して、目にものを見せてやる。そう思った。しかし現状では差出人に手を出すどころか、相手と対峙する資格さえ与えられていない。とりあえず警察には行くが、見回りを強化するとだけ言われて有理は歯ぎしりをした。こうなったら自分が探偵じみたことをやってもいいとさえ思う。しかし優先しなければならないことがある。仕事の締め切りは待ってくれないのだ。
 不思議なことだけれど、怪文書が届くと同時に停滞していた作業が一気に進み始めた。何と言おうか。これがいいと耳元で囁かれているみたいにスムーズに。パソコンの前にかじりつき、アームチェアとアームレスチェア、そしてウィンザーチェアの三つのデザイン案を完成させる。續谷と顔を合わせる四日前のことだ。

「なかなか、良い感じじゃないですか」

 いったい、何が気に入らないんです? デスクトップに表示されたアームレスチェアの画像を見ながら、リーダーが言う。まもなくマグカップを傾けたらしい。デスクに突っ伏していても、自然にコーヒーの匂いが漂って来て、鼻先をくすぐった。

「もしキョンシーに意識があったら、きっとこんな感じかなって」
「その映画。私は見たことないんで、ちょっとわからないですね」
「あーそう。自分も」

 まあ。なにはともあれ、この提案図が良いのは本当です。そんな声が耳に届くと同時に、強いぬくもりを帯びたものがとん、と頬に当たる。顔を上げると目の前にコーヒーカップがあったので、有理は簡単に礼を言って受けとった。

「少なくとも納期がぎりぎりになった価値はあると思いますよ。先週から痛めつけられていた私の胃もこれで救われたというものです」
「……今度からは気をつけます」カップに口をつける。
「気をつけるんじゃないんですよ、一週間前行動をデフォルトにしろって言ってんだ。このアンポンタン」
「とはいっても形は出したんだし、結果オーライでいいと思いますよ。僕は」

 作業場の掃除に出ていた後輩の末岡がいつのまにか戻ってきて、横から入ってくる。

「人の心配より、自分の仕事はすんだのか? 不燃ごみとの分別は? 袋の口はちゃんと結んだのか?」
「いやだなー。僕が雑事に手を抜く輩に見えます?」

 リーダーが睨みを利かせるも、後輩・末岡はそう言い放つ。その態度に、ますます相手の眉を吊り上がる。(そういえば採用から一年近く残っている学生気分にも、そろそろ釘を刺さねばならないと前に言っていた)
 そんな上司の冷たい視線には気にも留めず、まもなく彼は有理の方に向き直る。

「僕から見てみても、デザインは素直に素敵です。クライアントの方も、きっと素晴らしいって喜んでくれると思いますよ」

 実際その通りになった。
 素晴らしい。提出されたアームレスチェアの提案図を眺めて、續谷が放った最初の一言がそれだった。ありがとうございます。カフェインが切れかけた頭はうまく働いていなかったものの、有理はどうにか賛辞は受け取る。おおかた社交辞令だろうが。

「やっぱり、あなたに依頼して正解だったようです。ほら。見てください。脚が下に向かって、すうっと細くなっているでしょう。くわえて床に伸びていく角度も鋭い。僕が欲しかったの、こういう感じなんです」
「こういう感じ?」
「周囲の空間に刺し込んでくる感じ。でも、組み伏せそうな感覚。それが――まだ形にはなっていませんけれど――木の質感と、よく組み合わさっている。だから、とても好きだ」

 嬉しい。嬉しいにはちがいないけれども、聞いているうちに有理はだんだんおっかない気持ちになってくる。期待を裏切られたと相手に思われた後がどうなるのか、考えると恐ろしかった。
 もちろん續谷の件のみならず、クオリティに関する不安はいつもついてまわる。しかし彼の場合はこちらが自分の眼鏡にあった物を作るはずだと、まるごと信じきっているのがひどく気にかかった。
 では、さっそくお願いします。突如として耳に届いた男の言葉に、有理は戸惑う。あまりに決断が早い。まだ一枚目しか見ていないのに。

「待ってください。いいんですか、そんなに急いでしまっても」
「いけませんか」

 有理に対して、續谷はそう答えた。口の端が微かに吊り上がっている。

「もう少しよく考えた方がいいです、絶対。家具とは全てがそうですが、とくに椅子というのはベッドに次にもっとも身近で、そして繊細なバランスにより成り立つ家具です。製造する者の技術と、使用者の熟慮を必要とします」
「熟慮?」
「提案されたデザインが本当に自分の望む形に添っているかどうか、そしてそれが本当に家の中の風景と似つかわしいか。この二つを見極めようとする慎重さと、決断が重要になります。それらが欠けば使用者の心身を損なうからです」
「たとえば腰痛とか、肩こりとか?」
「確かにそれらも痛手のうちに含まれます。ですが、ごく一側面に過ぎません。私の言っているのはなんというか、目に見えない……もっと形のないところの話で、でも確実に存在ものでもあるんです」
「地下水脈みたいに?」
「あなたがそう思うのなら」

 續谷は黙り込む。同時に彼の唇から淡い笑みが消える。その表情を目の当たりにして、有理はこめかみから汗を流す。とげに似た痛みのある、冷たい汗だった。少し、喋り過ぎたのかもしれない。
 しかしそんな心配は杞憂のようだった。いくばくもしないうちに相手の顔つきは再び明るいものに変化する。まるで舞台上の俳優が衣装を早替えするみたいに鮮やかに、明らかに。そして調子で口を開く。いや、ごもっともです――。

「僕もああいう仕事を生業にしてますから、職業人の矜持というのは、いくらかわかります。けど、僕の意志は変わりませんよ。あなたは僕の気持ちや考えを、きちんと汲み取ってくれています。だから、ここのままでかまわないんです。けして今の形から引くことも、足すこともしないで。それに……」
 日下部さんの話は欠けたところのない人のためのものでしょう。
「あなたが口にしているのは満ちた足りた状況を守るための理屈で、何かが欠けた人間にはあまり意味がないとは思いませんか」
「そんな風にお考えなんですか、ご自身のことを?」
 いいえ、と男は頭をふる。少しだけ目を開いて、大げさに。ついでこうも口にした。
「僕はただ、昔からそういうスタイルなだけです」

            §

 結局、その日のうちに契約が成立する。後日、工房の口座にはお金が振り込まれた。20万円。有理はそれに見合うだけの仕事をこなし、成果――すなわちアームレスチェアを作り出さねばならない。
 彼の依頼と向き合っているとき、有理はいつも非常な疲労感があったのを覚えていた。もちろん湿度の変化や、ミリ単位のずれにまで神経を使う仕事だから、くたびれて当たり前だ。けれども、このときは何だか奇妙な疲れ方をした。

 たとえるならまるで自分の外側にスイッチがあって、知らない誰かが勝手にオンオフを切り替えているという感覚だ。それも自分の事情と好きなタイミングで、こちらの気持ちや都合などおかまいなしに。
 その何か(あるいは誰か)は、好き勝手に有理の持つ感性の一部分が死んだように鈍感にさせ、また一方で別のところを研ぎ澄ませた。有理は肉体的な作業と並行して、もたらされた不快感に抗わねばならなかった。見えざる手により強制的に閉鎖された場所は、有理にとっては絶対に必要としていた場所だったからだ。
 それは製作に四苦八苦しているというよりも、もはやある種の闘争だと表現した方がふさわしかったろう。誰と……あるいは何と、とは具体的には言えないが。けれども確かに有理は戦っていた。
 ここで譲ったら、お前はいっかんの終わりだぞ。電ノコを使っているときも、木材に鉋をかけているときも、このような緊張感を有理はいつも抱えていた。負けるか勝つか、墜ちるか墜ちないか、喪うか喪わないか。二者択一の極端な緊張感だ。そして一度折れてしまえば自分の体が抜け殻となり、あとに残るのは影以外にはない。――そのような思考が有理を疲弊させた。
 もちろん作品の出来栄えが、自分の評価につながるプレッシャーには常に晒されている。家具を満足に作れない家具職人など、なんら存在価値がないのだ。しかしこのときには普段とは比較にはならない、はるかに強い圧力があった。
 そして葛藤は、ぼそを組むときに最高潮に達する。
  “ぼそ”というのは木工や石工における、部材の接合法の一つを指す。一口に“ぼそ”いっても部位や用途別にたくさんの種類があるのだが、どれも基本的な原理はいたってシンプルだ。突起させた部材と、鑿で穴を開けた部材とをパズルのように差し込んで、この二つをぴったりとひっつける。釘や接着剤は使わない。ただ、はめ込む。それだけで異なる材と材がつなげられる。そういう技法だ。
 ひらたく言葉になおしてしまうと簡単に思えるけれど、実際に行うにはなかなか難しい。だからこれを用いようとする職人は相応の技量と、季節ごとの気候に対する敏感さ、計測の正確さが求められる。とくに地獄ぼそと呼ばれる手法は、それらを厳密に要求する。
 地獄ぼそというのは、主に強度が必要となる場面で使われる技法だ。その特徴は突起部の先端に、ハの字にかませられた楔にある。この楔が穴の中で広がり、みっちりと詰まって、材同士をつなぐという仕組みになっているのだ。
 そうしてひとたび完全に挿してしまえば、もう部材を取り外すことは叶わない。部品を取り外せないということは、やり直しがきかないということだ。だからけして失敗は許されないが、かわりに成功すればこれ以上にない頑丈さが保証される。
 この手法が使用された造形物のなかで、とりわけ有名なのは京都清水寺の舞台だろう。江戸時代に再建されて以来、あの格子状に組み合わさった柱は、釘や金具を使うことなく、ずっと広い舞台を支え続けているのだそうだ。その事実だけでも、地獄ぼそが与える堅牢さがいかなるものかはうかがい知れる。
 今回の有理の場合には、この技法を背もたれと座面の接合に用いた。
 材に鉛筆で線を引いてしるしをつけ、その部分に鑿を突き立てて穴を掘っていく。きちんと楔がはまるように、入り口は狭く、深いところは広めに。次に突起部に切れ込みを作る。単純に切れ目を作るのではない。割れてしまうので斜めに。それらの作業はすべて静謐のうちで行われた。泣いても笑っても、とりかえしはつかない。一回こっきりの真剣勝負だ。集中できる環境が必要だった。
 そして必要な素材を二つとも揃えると、凸を凹のふちにあてがい、差し込む方の頭を有理は金づちを強く叩きつける。
 材を打ち据えるたびに楔が、ぱあんと音を立てて、どんどんもう一方の奥に沈み込む。それが目的なのだから、あたりまえの話だ。しかし鉄槌を振りながら、有理は戸惑う。なんとなく木を叩いている感じがしなかったからだ。木組みの形を通した、別のもの。水風船に似た柔らかい弾力と、生暖かさを帯びたもの。そういうものを自分は殴っている予感がした。
 また同時に激しい感情が胸に渦巻く。膝にまといつく高波みたいに、今にも己を飲み込まんとする激情の名を有理は確かに知っている。憎悪。もしくは殺意。
 体をねじるごとに獣じみた声が漏れ、シャツが汗に濡れて背中に冷たく張りつく。そして最後、あと一息でそれぞれがくっつくという段階。ことさら大きく道具を振り上げた、次の瞬間。打ちつけた衝撃が金づちを通して、稲光のように有理の全身に疾駆する。
 触感はかすかなしびれと、はっきりとした鋭い痛みを伴っていた。心臓がどっと弾むぐらいに強い痛みが。しかし、有理はうめき声すらあげない。あげるわけにはいかない。ただ、奥歯を噛み締める。
 作業台の上で金づちが重く鈍い音を立てた、ついで、波に浚われる砂山のように有理はその場に崩れ落ちる。気がつくと椅子の前で、両膝をついて長いあいだ座り込んでいた。
 反射的に作業台にしがみついたので、かろうじて尻もちをつかなかった。そのことに有理はほっと胸を撫で下ろす。仕事道具を落とさなかったのも大きく安心させた。そんなことをしてしまえば、きっと、もう二度と立ち上がることは出来なかったはずだから。
 いずれにしろ譲ってはいけない一線をどうにか、死守したという感覚は存在していた。そしてそれは本当にきわどい闘いだった。何から、あるいは何に対してとは具体的には言えないが。
 よくて相討ちか――。依頼品を見据えながら、そう有理は考える。まだ座面の張りつけはしていないため、腰を掛ける部分は空洞で、とうてい使い物にはならない。けれど、だいぶ椅子らしい姿になってきていた。完成まであと一歩というところだ。
 しかし感慨など、ちっとも湧かなかった。もちろん完成に近づいただけで、まだ実際に商品が出来上がっていないのもある。だけれど気が抜けないというよりかは、感受性が阻まれていると言い表した方が、今の有理の心情には似つかわしかった。向こう岸が見えないくらいに広い川を泳ぎ切ったみたいな、凄まじい疲労感と虚脱感が残されていた。
 有理はその場から立ち上がり、金づちを持ち直す。そうして椅子の方に寄っていく。足元が二日酔いの朝に似ていて若干あやしいが、進んでいく方向に迷いはない。續谷の言葉がリフレインする。
 ――あなたの理屈なんて、何かが欠けた人間にあまり意味がないとは思いませんか。
 ――あなたと僕は何もないところから、1つのものを生み出すことができる。だから、大丈夫。

 じっと椅子の前に佇んでいると、つんとした汗の臭いが鼻につく。きんきんと甲高い耳鳴りが響き、心臓が野ウサギのようにとんとん跳ねた。ずっと奥の筋肉が固くなっている感じがする。たしかに有理は緊張していた。しかし、呼吸だけはどうしてだか比較的穏やかだ。
 心持ちもさっきとくらべれば、はるかに落ち着いている。でも気が安らぐ、鎮まったのとは感覚が違う。どちらかといえば身体の奥が凍りついている感じがした。
 未完成の製作物と向かいあって、どれくらい経ったろうか。ある瞬間、有理は不意に柄を握る力をぐっと強めた。そうして金づちを持つ手を振りかぶった、そのときだった。

【続く】

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