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文字は言葉か?

縄文時代は文字がなかった時代だ。土器にも、土偶にも、土版や石板にも、文字というものは今のところ発見されていない。タイトルの写真はなにかしらの意味のある記号のようで、それともただの文様のようで、その意味はまるでわかっていない。

「文字がなかったってことは言葉もなかったの?」と、時折言われる。
そんなわけはない。「はじめに言葉ありき」というあの有名な決め台詞を知らないのだろうか、言葉の歴史は文字の歴史の何倍も古く、世界中のどんな民族にも言語はあり、どんな民俗事例をみても言語より先に文字ができることはない。世界中には約7000とも8000ともいわれる数の言語が存在し、その中で独自の文字を持っている言語は約400しか存在していない。
文字がない=言葉もない、と短絡的に考えたそこのあなたには、それってパンツを履かずにズボンを履いているようなものですよと言ってあげたい(ちょっとちがうようで割と上手いたとえ)。

文字という媒体は一つの発明だ。これによって情報の伝達が容易になった、文字さえ読めれば誰にでもそこに書かれている情報にアクセスすることができ、またその文字は(たとえばロゼッタストーンのような碑文なんかは)時代を超えて存在することも可能だ。文字のおかげで人類はその知識を共有し、大幅に文明を発達させることができるようになったのだ。まさに文字って最高! 文字ってV8! 文字ってイモータン! なのだ。

持つものと持たざる者

じゃあ、文字を持っている民族が優れていて、持っていない民族は遅れているのだろうか。縄文時代の終わりころには、文字を持ち始めた世界各地の民族が国家を作り、その大きさを誇り始めた。たとえばエジプトではピラミッドが作られ、たとえば中国では春秋戦国時代が始まることになる。
縄文人は最後まで文字を持たなかった。縄文と文化的につながりのあるアイヌ民族も独自の文字を持たなかった。文字を持つことと持たないことの差は一体何なのだろうか。

それを文明の程度の問題だと考えるのも短絡的だ。そこには「文字は言葉か」との哲学的な問いがあるのだと僕は思う。

文字は言葉の代用品である。言葉を記号化したものが文字である。それはだいたいにおいて正解だ。しかし、「文字は言葉だ」と言われると、おいそれとうなづけないものがある。言葉を文字に再編集したときに削ぎ落とされるものがあまりにも多いからだ。
その言葉のイントネーションから話者の声質に表情。場を取り巻く空気に、誰が誰に話しているのかその人間関係。言葉とは「話者の人間性」と言い換えてもいい。乱暴なことを言えば、文字とは言葉から人間性を取り除いた無機質な記号なのだ。

余談。文学や詩はその言葉が本来持っていた記号としての文字の周辺をすくい取るために生まれたと言っても過言ではないと考えている。優れた文学や詩がどうしようもなく心に刺さるのは、その文字という記号の周辺の空気をうまく切り取っているからこそなんだと思う。

もうひとつ余談。それを考察的に裏付けるとしたら、最初期の「文字」は今と比べてもっともっと力があったことがあげられる。たとえば梵字、一文字で魔を払い、知恵や慈悲の象徴となる。これらは文字にあえて言葉以上の意味を込めようとしたのではないかと思う。たとえばエジプトのヒエログリフ、簡略化される前の文字はほとんど絵画だといっても差し支えない。これらもやはり記号化することによってそぎおとされてしまった何かを必死に取り戻そうとしているように僕は見える。

だからこそ「文字」という技術を採用するには心理的にものすごく高いハードルがあるのだ。それは言葉の文化が成熟していればしているほど難しいのではないかとも思う。誰もが無邪気に文字のある文化に移行するわけではないのだ。

文字のある暮らしが好きだ

もちろん文字はシンプルな情報の伝達に適した「媒体」だ。文字を採用した文明と採用しなかった文明の発展の差は現在では明らかだ。僕個人としても文字のある社会に属し、この文章も文字を使って書いている。文字を覚えてしまったということは、こぼれたミルクのように不可逆で、どうしようもないことだ。そのうえで(僕自身も含め)だいたいの人たちが、文字のある暮らしを気に入っている。

心配なことがある。文字が重要になればなるほど反対に、「言葉」の重要度が低くなっているのではないかと思う。その証拠に縄文時代あれだけ重要であったであろう「口約束」が現在では信用ならないものの代名詞と、なりさがっている。国会では畏れをしらない連中が簡単に前言を撤回し悪びれもしない。知らず知らずのうちに言葉は意味と質量を失い、近い未来には絶滅してしまうのではないかと冗談ではなく危惧している。
文字は言葉ではない。しかしオイディプス王の物語のように言葉は文字に殺される。


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