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半世紀を生きて

 1973年7月12日にこの世に生を受け、気がつけば半世紀も生き存えてきた。実に半世紀もだ。
子供の頃にノストラダムスの大予言を聞いて以来、僕は1999年の7月に地球は滅び、ほとんどの人と一緒に26歳でこの世を去る予定だった。
だが、幸か不幸か現実は異なった。
大目に見ても、2000年問題ですら何も起こらなかった。
人類は今日も生存し、それなりに僕も生き続けている。

 そろそろ一年の終わりが近づき、改めて自分の人生を振り返ってみた。
海外で長期生活をしたいという夢は叶えた。
大手ゲーム会社の情報システム部門で働きたいという夢も叶えた。
恋愛をして素敵な人と結婚したいという願望も叶った。
男の子と女の子の両方授かりたいという願いも叶った。
乗りたかった車、満足の行くマイホーム、楽しく安定した満足の行く収入を得られる勤務先。客観的に見れば上々の人生ではなかろうか。
あとは、最後に作家としてデビューし何冊かの小説を世に送り出せれば、僕個人の人生としては満点だ。その本が飛ぶように売れれば尚良し。
子どもたちが健康で幸せな人生を送り、孫の顔を見て棺桶に入れば「実に申し分ない人生だった」と僕を迎えに来た死神に言っているだろう。

 とはいえ、とても平坦な人生とは言い難い。
とても良い家庭環境だったとは言えなかったし、就職も超氷河期時代で所謂「ロスジェネ世代」だ。先輩たちは「バブル世代」で、全く就職戦線に異状はなかった。しかし、自分たちが就職する時になってみると、ガラリと様変りしていた。就職戦線には異常しかなかった
 幸いWindows95ブームと、趣味が講じてITスキルが高かったので、なんとか就職することが出来たがもし僕にITスキルが無ければ、今の人生は歩めていなかっただろう。
実際、短大ブームがあった頃なので時代の流れに合わせて、女の子たちはこぞって短大に入学したがバブルが弾けてしまったあと、学歴としてアカデミックには高卒となるので就職活動時にはかなり不利になり、加えて女性採用枠も無く、今とは比べ物にならないほど厳しい時代だった。
 僕たちは団塊ジュニア世代と言われ、人数がとても多い世代だった。コカ・コーラのCMのような爽やかな学生生活、ホイチョイ・プロダクションの映画のような休日を満喫して、オンとオフがキチンと切り替わるビジネススタイルは丁度、就職時期を迎えた頃には幻のように目の前から消えてなくなった。
 僕たちはバブルの崩壊に大きく翻弄され、まるでノルマンディ上陸作戦のように目の前から不採用という弾丸が止むこと無く打ち放たれ続ける中、面接の交通費は当然全て自腹が当たり前で、僕たちは社会に飛び出さなくてはならなかった。鉄格子のように固く閉ざされている酷く狭い採用枠を僕たちは走り抜けて飛び込むしかなかった。圧迫面接をされても、セクハラを受けても、鼻であしらわれても、僕たちは這いつくばり笑顔を絶やさないように、なんとしてでも就職にたどり着くしかなかった。沖縄旅行などの接待を受けて前祝い金をもらえるバブル時代の就職活動や、人材不足で完全売り手市場の現在の就職活動とは全く異なり、本当に地獄のような就職戦線の中をくぐり抜けて行くしかなかった。そんな厳しい時代だった。

 半世紀も生きれば、教科書に掲載されるような大きな事件や大災害をリアルタイムで知ることが数多くあった。
最初にそう感じた大きなニュースが、1991年の「湾岸戦争」だった。
テレビの向こうで花火のような光がチカチカと綺羅びやかに光っているのが、爆弾だとニュースキャスターが言っていたのは印象的だった。
泣きながら戦争に行きたくないと言っていたアメリカ兵の姿を、僕は夕飯を食べながら見ていた。そのテレビに映し出されているものと僕との温度差はなんとも言い難いものがあった。とはいえ、自分自身が全く関係する戦争ではないということも、また僕の心境を複雑化させた。
 当時、高校の国語を担当していた教師は「実に馬鹿で愚かな戦争やね」と僕たちにアメリカを嘲るように言っていた事を今でも鮮明に覚えている。
昨晩にテレビで見た、出兵する青年のアメリカ兵が涙を流していた姿を思い出すと、僕の心の中では簡単にそんな言葉で片付けられることは出来なかった。その青年の姿をテレビで観ながら、夕飯を食べている僕たちも馬鹿で愚かではないかと感じた。僕は、特にその先生に言い返すようなことはせず黙ってその日の授業は過ごしたが、今でもその教師の言葉は僕の心の何処かに喉に引っかかった魚の骨のように残り続けたまま、今日も過ごしている。

 話は少し逸れたが、教科書に掲載されるような大きな事件や大災害をリアルタイムで過ごしたきた中で、特に印象残っているのはこの七つだった。
・ベルリンの壁崩壊(1989年)
・湾岸戦争(1991年)
・ソビエト連邦の崩壊(1991年)
・阪神・淡路大震災(1995年)
・アメリカ同時多発テロ事件(2001年)
・東日本大震災(2011年)
・新型コロナウイルス感染症の世界的流行(2019年)
 「ベルリンの壁崩壊」は、僕は一生あり得ないと思っていた。オリンピックでも「西ドイツ」「東ドイツ」と分かれているのはあたりまえだと思っていたし、今の韓国と北朝鮮と同じように不変なものだと信じ切っていた。
 「湾岸戦争」は、先程記述した通りだが、戦争って本当に起こるんだと初めて実感した戦争だった。残念なことだがその後は麻痺するほど世界中で休み無く戦争が続いていると言っても過言ではない状況が今日も続いている。
 「ソビエト連邦の崩壊」は、1988年から徐々に始まっていたらしいが僕個人としてはある日突然、ソビエト連邦共和国が消えて亡くなり同時に米ソの冷戦も消えてしまった。1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故から何かとソビエトが頻繁にニュース番組で取り上げられていたが、1991年に大きく地図が書き換わるほど巨大な主権国家があっけなく終了した出来事だった。この出来事が起因して、現在のロシアがウクライナへ進行開始し今日も不要な血が流れ続けている。ソビエトは崩壊して良かったのか否かは僕にはわからない。ただ、本当に人間は争いが好きな愚かな生き物なんだなと思う。
 「阪神・淡路大震災」は、大阪に住んでいるものとしては、多少なりとも何かしら関わりがあった大きな天災だった。大阪も大きく何度も揺れたのは当然だが、知り合いの恋人が亡くなったり、友人の家が半壊または全壊したりした。東京から来たアナウンサーが燃えさかる長田区の商店街を観て「燃えてる、燃えてる!」と燥いでいた姿を観て言葉を失った。
友人は自衛隊員として救助活動に向かっていたが、空を飛ぶ報道ヘリコプターの音で被災者の声が完全にかき消され、奴らがいなければもっと命を救えたはずだと、悔しがっていた彼の姿を今でも覚えている。今では、燥いでいたアナウンサーの著書やブログではすっかり美談に書き換えられているが、当時あの姿をテレビで観た僕や友人たちは、言葉の全てを失った瞬間だった。そして、彼は僕たちや被災者の記憶までは都合よく美談にすり替えることは決して出来ない。1月17日から死者が日に日に膨れ上がり、最終的には約六千四百人という数字になった時には、もうこんな天災は二度と起こらないだろうと思っていた。そこにはこんな事は二度と起こってほしくないという強い願いがあった。
 「アメリカ同時多発テロ事件」は、文字通り完全な対岸の火事だ。
ただ、人為的にこんなハリウッド映画のような壮大なスケールで、加えてほぼ同時に実際に事が起こせるんだなと深く感心した出来事だった。
最初は妻と電話しながらこのニュースを観ていて、てっきり不幸な飛行機事故だと思っていたが、二機目の飛行機がもう一棟に衝突し、ペンタゴンにも衝突し、アメリカ合衆国議会議事堂を狙った飛行機がペンシルベニア州に墜落したニュースが矢継ぎ早に報道されるとただ事ではないと確信した。
とはいえ、翌日も仕事なのでテレビを消して就寝し、翌朝の会社でワールドトレードセンターの二つのビルが完全に倒壊したことを知って驚いた。
一連の攻撃で、約三千人が死亡するという未曽有の大規模テロだった。
その後、日本でもテロに対しての警戒が強まったが、日本は諸外国のテロリストに恨まれるような事はしていないのでそこまで警戒を喚起するほどではないと思っていた。日本では「地下鉄サリン事件」以上のテロは起こらないと思っているしそう願っている。

 「東日本大震災」は、今でも信じられないほどの悲劇だ。
「阪神・淡路大震災」の時、こんな事は絶対にあってはならないと思っていたことが再び起こってしまった。それどころか約二万二千名の死者・行方不明者が発生し、津波とそれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害となり、ハイテクノロジーが駆使出来るこの現代において地震被害としては関東大震災、明治三陸地震に次ぐ三番目の規模の被害となった。そしてこの地震で、津波の恐ろしさと脅威を思い知ることになる。
それまでは正直なところ、僕を含めて多くの人が津波がこんなに恐ろしいものだとは思っていなかったと思う。燃えさかる家が海の上を流れていたり、ビルの六階相当まで津波が来たりと、テレビで観ていることさえ辛いと思ったことはこれが初めての経験だった。僕は被災地に誰一人と知り合いが居ないにも関わらず、一人で風呂に入りシャワーで体を流していた時に止めどなく涙が溢れ泣き崩れてしまったことを昨日のことのように覚えている。
どうしてこんな事が起こってしまったのだと、涙が止まらなかった。
また、これまで気にも掛けなかった原子力発電所の恐ろしさも思い知った。
日本にある原子力発電所は些か多すぎたことと、その管理が想像していたより杜撰だった点も露呈した。東京電力の上層部は高級な座布団を用意させてその上に座って土下座している姿は怒りを超えて滑稽に見えた。後に知ることになるのだが、一方にはフクシマフィフティと呼ばれる約五十名の作業員の方々が命をかけて、福島第一原子力発電所の事故を最小限に抑えようと、尽力してくださった事に心から敬意と感謝の念で一杯になった。
次は南海トラフとよく言われているが、正直なところもうこんな大災害は二度と起こらないで欲しいと心から思う。
 「新型コロナウイルス感染症の世界的流行」に関しては、中国に対して恨み節しか思いつかない。個々の中国の人に対してではなく、国家としての中国に対してだ。それはこの新型コロナで大きな被害を被った多くの国々の人が同じ心境だと思う。本来なら亡くならないで済んだ人たちが数多く亡くなり、ロックダウンや緊急事態宣言で家の中に閉じこもらなくてはならなくなった。これまで当たり前だったお祭りやフェス、イベントなどはもちろん初詣もなくなり、飛び交う噂に疑義し、閉ざされた中で季節感を感じ取れる興趣もなく、ただ営為だけを行う日々が続いた。これは世界中の誰も経験したことのないことであり、独特の閉塞感はこの上なく息の詰まるものだった。このパンデミックでこの体験から鬱病などの精神疾患を患ったり、様々なビジネスに強烈なダメージと皮肉な特需をもたらし、世界経済を大きくかき乱した。そして、大小あるが現在もこの傷跡は世界中で引きずっている。地獄のような三年間だったし、戦争や地震とは異なり世界中で誰もが未経験の出来事だったので、大凡の目測もつかないことから精神的に参った人を散見し、中には自ら命を断つ人も多かった。
これは明らかに人災だが、ある意味テロや戦争よりも悲しい人災だと思う。

 これから先、僕は何年生きられるのだろうと強く思ったのは、50歳の誕生日を迎えた時が初めてだった。
自分が小学生の頃から中学生、高校生、大学生とテレビで観ていた人が亡くなるニュースを耳にすると、より一層深く考えるようになった。
百年人生と言われるが、現実はそうではない。
元気にされている方もいれば、歩けなくなって車椅子の人もいる。
認知症になる人もいれば、癌など大きな病を患う人もいる。
あの古畑任三郎の田村正和さんで77歳没だ。
学生時代に観ていたパペポTVの上岡龍太郎さんで81歳没。
あのダウンタウンさんも、今年でお二人共還暦を迎えられた。
今で50歳の僕は、田村正和さんの寿命としても、残り27年。
上岡龍太郎さんの寿命としても、残り31年だ。
ザックリと間をとっても、残り30年くらいだろう。
その間、どれだけ健康に動けるかも大きな問題だ。
続けている水泳に加えて体重をしっかり落とし、ジョギングを加えた方が良さそうだ。
本を読み、こうやって作家を目指して文字を書き続ける事も重要だろう。
色々な映像作品も観て、新しい音楽も聞いたほうが良いだろう。
そして、出来る限り納得できる小説(今書いている旅行記も含む)を書き残し、メジャーデビューが出来ればいいが出来なければ、アマゾンのKDPででも出版して僕がこの世に生きた証として残したい。
 いつまでも気分は19歳のままだったが、気がつけば誰しもに平等に訪れる死に対して考えながらライフプランを立てる必要が出てきたのが、半世紀を生きた時だった。
そう、気がつけばとっくに人生の折り返し地点は過ぎたあとだった。
「The Beatles」の「We Can Work It Out」の歌詞の意味がようやく判った。
そうだ、本当に人生は短い。あっという間だ。
いがみ合ったりケンカしている暇はない。
僕らなら上手くやれるはず。
僕らは上手くやれるんだ。
きっとこれからも、この先も……


率直に申し上げます。 もし、お金に余力がございましたら、遠慮なくこちらまで・・・。 ありがたく、キチンと無駄なく活動費に使わせて頂きます。 一つよしなに。