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3%の女子学生

 自分の学歴や経歴を人に語るのは、ひけらかすようで、なるべく避けているけれども、70年前の、日本女性の社会での立場に興味を持たれる方々が、結構居られるらしい。

 私の学歴に関しては、ミューコのプロフィールとして告白済みなので、ひけらかすという感じではなく、東大へ行ったために経験したエピソードを拾ってみようかと思う。

 女子に東大への門戸が開かれてから3年目の昭和26年には、入学者2000人のうち女子は64人だった。大志と情熱に溢れた優秀な方々ばかりだと思う。
 しかし、希少価値として珍しがられた事は確かだ。銀杏のバッジをつけていると、電車の中では、じろじろと顔を見られる。
 心ない男子学生からは、
 「お前らが来なければ、仲間に合格できた奴らがいたのにな」とか、
 「東大出て、ただの主婦になるなら、税金泥棒だよ」
   などと嫌みを言われたりした。

 夫の転勤に伴って地方都市住まいになると、さっそく新聞のネタにされる。夫が上司からからかわれたことも。子供さんの家庭教師を頼まれるなど、肩書きのご利益がなかったわけではない。
 しかし、OO夫人というだけでは、何の力もない。

 東大を選んだ女性たちの動機は様々だと思うが、彼女たちの多くは、女性も男性と同様に、自分の能力を開花させて、社会に尽くしたいという気持に駆られるパイオニアの卵たちが多くいたのは疑いない。女性が自分の能力を伸ばすために、最良の環境を選びたいと思うのは当然のこと。門戸が開かれれば東大にも女子は受け入れられる。

 今では、一部の国々を除いて、女性の社会進出は珍しくもないが、昔は女子が高等教育を受ける事には、反対の気風が支配的だった。
 嫁の貰い手がなくなる、などと親は心配する。
 古家へ帰ってきたある日、昔の我が家を知っている近所の古老たちと立ち話をしていたら、
 「よく親御さんが許されたものですね」
という言葉が飛び出した。
 当時の親の気持ちを言い当てている。  しかしいつの世でも親は一様ではない。

 在学中の4年間、殆どいつも一緒に行動していた親友がいた。
 彼女と私の卒業後の生き方は、自立した女性と、殆どを妻、嫁、母としてのみ生きた女の、対照的な道を歩んだことになる。

 大学の時の親友だった彼女の御父上は画家で、娘の教育方針は、一芸を身につけて自立するべきというものだった。当然彼女はそのような自覚を持って成長し、志を胸に進路を選んだ。卒業後は、仕事と育児が両立できる幸運に恵まれてはいたものの、様々なガラスの天井を打ち破って、正にパイオニアというに値する活躍をし、実績をあげた。

 片や相棒だった私といえば、父親の教育方針は良妻賢母だったから、自立を目指して東大を選んだわけではない。成り行きというか、運命の導く所としか言いようがない。

 転勤の多い国家公務員の妻となり、当事は単身赴任など考えられなかったために、私は定職に就くこともできず、大方を内助の功の役目に終始した。戦後の厳しい時期に、夫の家族と同居して、大家族の繁忙さも人並みに経験したし、地方へ出れば、役人の妻の良いことや辛いことも。
 夫が新潟に落ち着き、4人の子供が手を離れた50才になつてから、ようやく学歴と人脈のおかげで、大学の非常勤講師の仕事を頂き、税金泥棒の呪縛から解放された。

 シューマン作曲「女の愛と生涯」という歌曲がある。
 今では、発表会で歌ったこともあるこの曲を、しみじみと味わう老境の日々となった。

サムネイル写真: 東京大学男女共同参画室のサイトより使わせて頂きました。
https://www.u-tokyo.ac.jp/kyodo-sankaku/ja/activities/model-program/library/UTW_History/Page03.html




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