ミューコ

昭和8年4月1日生 小学校5回転校、高等女学校、高校を経て、昭和30年東大文学部卒 結…

ミューコ

昭和8年4月1日生 小学校5回転校、高等女学校、高校を経て、昭和30年東大文学部卒 結婚後は夫の転勤多数ゆえ定職は困難 20年間新潟大学で英語を担当 70歳で退職 子供4人 趣味多彩 社会活動多少

最近の記事

小島のお遍路八十八ヶ所

 四国のお遍路さんは、この頃はますます人気が高まっているらしい。 観光と信仰を兼ねているからだろうか。  お遍路さんの装束に身を固め、七つ道具を備えて、全行程を歩き通す人もあれば、身なりだけはそこそこに、途中は乗り物を使うという今風お遍路さんも多いらしい。いずれにしても簡単な旅ではない。  お遍路さんの出発点は徳島だから、まずは瀬戸大橋を渡って四国に入るのも良い。  瀬戸内は本当に美しい。  桜や紅葉の季節はいうまでもなく、いつ走っても、本州から何本もの橋に繋がれた

    • 生き返ったちび太

       noteに何回か登場して、お馴染みになって下さっているちび太の事で、書かずにはいられない或る経験をしました。それは、43日間にもわたる感動の物語です。  庭中を駆け回り、元気いっぱいだった娘の愛猫ちび太が、2月27日の夕方、突然後脚が動かなくなりました。苦しそうにもがいているので、急遽かかりつけの動物病院へ連れて行きました。  原因は、脚へ行く動脈の分岐点に、血栓が詰まった故と診断されました。 元々心臓に持病があったので、検査の結果は非常に悪く、とりあえず入院させたもの

      • 3%の女子学生

         自分の学歴や経歴を人に語るのは、ひけらかすようで、なるべく避けているけれども、70年前の、日本女性の社会での立場に興味を持たれる方々が、結構居られるらしい。  私の学歴に関しては、ミューコのプロフィールとして告白済みなので、ひけらかすという感じではなく、東大へ行ったために経験したエピソードを拾ってみようかと思う。  女子に東大への門戸が開かれてから3年目の昭和26年には、入学者2000人のうち女子は64人だった。大志と情熱に溢れた優秀な方々ばかりだと思う。  しかし、希

        • サクラサク

           入学試験を受けた本人はもちろんのこと、その家族にとっても、合否を知らされる時ほど、人生の中で劇的な瞬間はそう多くはないかもしれない。 近頃は、ITの発達と普及のおかげで、わざわざ受けた学校まで発表を見に行く必要はなくなった。大体、どこにいてもPCかスマホが教えてくれるご時世だ。  一世代前くらいまではそうはいかなかった。受験した学校まで出向いて、早い人は1時間も、もしかするともっと前から、合格者の名前、または受験番号の書かれた紙が貼り出されるボードの前に陣取って

        小島のお遍路八十八ヶ所

          女学校vs.女子高校

           この記事は昨年の5月に公開したものですが、或る事情で直ぐに取り下げたため、下書きとして残っていました。この度、事務局の方から、下書きを復活させる件についてお勧めがあったので、このような昔話に興味のある方も居られるかと思い、再度公開に踏み切つたわけです。公開直後にすでに読まれた方も居られるかもしれませんが、ご容赦のほどお願い致します。  孫娘から女学校のことをnoteに書いて、とのリクエストが来た。この孫は愛読者の1人であるらしい。  元々、noteを始めたきっかけの一つが

          女学校vs.女子高校

          献体のご帰還

           65年連れ添った最愛の夫を、あの世ならぬ新潟大学の医学部へ、献体として送り出してから3年近い月日が経った2月の或る日、大学から、献体帰還追悼式の案内が届いた。  夫亡き後の3年は、あまりに雑事の多さと環境の変化で、故人を懐かしく偲ぶというような優雅な時間は、殆ど持てなかった。  けれども、いざご帰還を知らされると、俄かに、介護に明け暮れた日々や、それから遡る色々な懐かしい出来事が思い出されて、しばらくの間、いつもとは違う私になっていた。  どんな風に?  私は、あまり

          献体のご帰還

          引越し裏話

           noteのコメント欄で、引越しの経験談が賑やかに取り交わされている。 私もそこで仲間入りをさせて頂いたけれど、苦労話ではないことも少し書いてみたくなった。  私の父も夫も転勤族だったので、北海道を除く国内の主要10都市を渡り歩いて、娘の頃に12回、結婚後は14回、合計26回引越しをした。  ベートーヴェンはウイーン市内で78回も住まいを変えたという伝説があるが、欧米諸国の家は、おおかた家具付きだから、身の回りのものだけ移動すれば済む。  片や、こちらはカタツムリのように

          引越し裏話

          歓喜の歌あれこれ

           昨年末、暮も押し詰まったある日、ベートーヴェンの交響曲第九番を、誘ってくれた娘と孫娘と一緒に、コンサートホールで聴きに行った。  かなり以前から、この曲の演奏会は、プロ、アマを問わず、日本の年末行事の一つとして定着してきたように思われる。  アマチュアの合唱団を加えての演奏は、昭和30年代から盛んになり始めた。  話題となって面白かったのは、当時、浅草の国技館を会場として、1000人の合唱団が集められた時のこと。 土地柄、下町の芸者さんたちも、多数が張り切って参加したも

          歓喜の歌あれこれ

          三社を初詣

           20日正月も過ぎて、ほろ酔い気分が覚めた今頃、何を語ろうというのかと思われる方が居られるかもしれません。  昨今、明治神宮外苑の森の一部を伐採するという計画をめぐって、議論が沸騰している折から、昔の初詣を思い出していたのです。  私が、元日に毎年お詣りしていた三社とは、明治神宮、靖國神社、それと氏神さまです。  この年初めの年中行事は、娘の頃の私にとって、母との貴重な思い出なのです。  父親の頻繁な転勤で、地方に住むことが多かった我が家は、終戦後間もなくから、東京に住み

          三社を初詣

          13人でノートを回す

           古今東西、有名人の書簡は、その人の知られざる姿や心を知るものとして、貴重な資料であり、数多く出版されてもいる。  新年早々、くだらない話を、と思われるかもしれないが、珍しい懐古談として、書いてみたい。  これは、現在とは全く違って、筆記用具こそが通信手段の主役だった頃の話です。今ならさしずめ、スマホでのやりとりというところか。  大学の教養課程では、外国語の選択によってクラスが分けられた。入学早々の若い学生たちは、何でもお仕着せの高校とは違い、自分で選択教科を決めて、ス

          13人でノートを回す

          三種の雑煮

           新年の話題なので、神がかって三種の神器にあやかったタイトルにしたわけではありません。これは、娘の頃の我が家の話です。  新年を迎えるために、多くの日本人は、松飾り、しめ縄、お屠蘇、お節料理など伝統的な準備をします。これらは大体どこでも共通ですが、お雑煮は千差万別のようです。  私の父は四国出身、母の実家は宮城県、結婚後は各地を歩いたものの、東京が一番長い。 そこで、母の作るお雑煮は、元日は東京風、2日は関西風、3日は仙台風と、三が日で三種類の、それぞれ趣の違うお雑煮を、

          三種の雑煮

          魚を飼う

           塩辛にして、お酒の肴にも、ご飯のおかずにも美味しい赤ひげ(オキアミの仲間)を、立派な水槽に入れて飼うなんて、思いもよらなかった。  それがなんと、67年もの時を経て、還暦近い息子が、私たちの結婚当初と似たような光景を、古家の居間に再現したのだ。  昭和30年代の始め頃、熱帯魚を飼うのが流行り始めていた。新婚の、まだ家具も大して無いような家に、夫はフル装備の大きな水槽を構えて、当時人気のエンゼルフィッシュを始め、派手な色のグッピーや、幻想的なネオンテトラなど、いろいろな熱

          終戦後のクリスマス

           月日は巡り、今年は、はや戦後78回目のクリスマスを迎える。  クリスチャンでもない私は、特にクリスマスに興味を持ったことはなかった。しかし戦後の日本には、占領国アメリカによって、いろいろな風習が持ち込まれた。  特にキリスト教の信者が増えたとも思えないが、宗教としてでなく、行事ばかりが盛んになったように思う。  講和条約が結ばれるまでの7年間、日本中の主要なビルや豪邸などが、進駐軍に接収されていた。立派な教会もそれに漏れず、クリスマスでも、一般の日本人は立入禁止だった。

          終戦後のクリスマス

          ちび太の呟き

           僕のボスは、一年近くも僕を放って居なくなってしまったのに、やっと帰ってきたと思ったら、また1ヶ月もしないうちに、どこかへ消えてしまった。  ボスが居なくても、後からやって来たオバアさんが、僕の気持ちをよくわかってくれて、好きなようにさせてくれるから、まあ、何とか快適に過ごしている。  何しろ、僕は外で遊ぶのが大好きだから、庭へ自由に出してくれるのは有り難い。オバアさんはボスから、どこかへ逃げ出していなくなると困るので外へは出すな!と言われていたらしく、はじめのうちは随分

          ちび太の呟き

          自然の音と人間が作る音

           近頃、 人の話す言葉の聞き取りが悪くなって不便なので、 補聴器を調達したら、単によく聞こえるという話ではなく、思いがけない一大発見があった。  それは、文明の発達した現代人は、殆ど人間が作り出した音の環境の中で生きている、ということだっだ。  最も身近な所から見れば、ラジオやテレビの声は、スピーカーを通した音だし、食事の時、お皿とスプーンが触れ合う音も、人工音だ。  太古の世界には、この類の音は、木を切り倒す時に触れ合う石器の音などの他には、人間が作ったものから発する音

          自然の音と人間が作る音

          クラシック音楽の未来

           ある記事のコメント欄で、この話題が沸騰しました。私も意見を求められていましたので、遅まきながら、この欄をお借りします。  大体、日本に於けるクラシック音楽の位置は、欧米諸国とはかなり違います。  我が国には、日本古来の豊かな文化があり、人々はそれぞれに、好みに合った文化を教養として嗜んでいます。  そこへ、明治維新以来、欧米に追いつけ追い越せとて、あらゆる分野で、当時の先進国のものが持ち込まれました。  音楽もその例に漏れず、主にヨーロッパへ留学した先人達から持ち帰られた

          クラシック音楽の未来