見出し画像

引越し裏話

 noteのコメント欄で、引越しの経験談が賑やかに取り交わされている。 私もそこで仲間入りをさせて頂いたけれど、苦労話ではないことも少し書いてみたくなった。

 私の父も夫も転勤族だったので、北海道を除く国内の主要10都市を渡り歩いて、娘の頃に12回、結婚後は14回、合計26回引越しをした。

 ベートーヴェンはウイーン市内で78回も住まいを変えたという伝説があるが、欧米諸国の家は、おおかた家具付きだから、身の回りのものだけ移動すれば済む。
 片や、こちらはカタツムリのように家ごと移動というわけでもなく、中身を一切合切持ち出すのだから大変だ。
   引っ越すたびに、荷物を減らす努力はするけれども、住み続けるうちに荷物は増えるばかりで、断捨離の苦しみはいつまでも続く。

 我が家が最後から3番目に引越しをしたのは、今から16年前で、その時初めて今の形の引越し業者さんのお世話になった。

 それまでは、食器や花瓶など割れ物は、全て自分で新聞紙などで包み、ダンボールに丁寧に詰めたものだ。(今でも業者に頼む時、この作業を自分でする選択肢もあるが)
 この作業で有り難かったのが、友人知人の暖かい手助けだつた。コーラスの仲間は、練習の帰りに3人、5人と寄ってくれて、お喋りをしながら、愛おしむように人形を、また置き物を丁寧に包む。
 夕飯の支度が気になる頃に、一服のお茶でお開きとなる。

 搬出の日が近づくと、職場の仲間や、そのご夫人たちまでが、加勢に来てくださる。流石にその頃でも、運搬や積み込みは専門の業者にお任せだから、素人のご好意はここまでだけれども、人々の親切が身に染みるひと時だった。

 父や夫の職場の転勤には、離着任時に面白い光景が見られた。

 父は、元国鉄の技師だった。当時の国鉄は、20万人の大家族と言われていたほどで、移動の際には職場の仲間が、大勢で出迎えや、見送りをするのが常だった。
 大阪から東京へ赴任するときには、吹田の工場長だった父を見送ろうと、職員さんたちが線路脇まで出てきて手を振って送ってくださるのを、特急ツバメの展望車から、私も懸命に手を振っていたことを、今でも懐かしく想い出す。太平洋戦争中の昭和18年頃のことで、私は小学生だった。

 もう一つ思い出深いのは、夫が、徳島県から本省へ戻る時のこと。
 船が離岸するときに、岸壁にいる見送りの人と五色のテープを持ち合って、船が静かに離れていくさまに憧れていた私の夢そのままに、テープを持った船の上の人となって、徳島に別れを告げた。昭和48年のこと。
 今でも豪華クルーズが港を離れるときには、この光景は見られるのだろうか。

 人生の半分を新潟で過ごした後、私は、既にこの世を去った夫や、彼の両親が住んでいた築64年の古家に戻ってきた。 この期に及んで、もう引越しをすることはないだろう。

 これからは、カタツムリの殻を抜け出して、身軽に、気楽に、どこへでも行ける。 両手に五色のテープを握りしめて、海外へも天国へまでも。

*画像は「特急つばめの展望車」より
http://uenojp.web.fc2.com/maite39-1.htm

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?