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【青識亜論考:1.5】青識亜論は、「自分に有利な状態で議論できる場」でしか「議論」しない


「【青識亜論考:1】」という記事を書いた

先日、【青識亜論考:1】石川優実 VS 青識亜論 訴訟で、青識亜論が「和解(実質敗訴)」した件についての考察という記事を書いた。

記事の中で、「近々、青識亜論に関する2本目の記事を書く予定でいる」と書いた。
実は既に2本目の記事は完成している。
だが、2本目の記事の公開は少し先にさせて頂こうと思っている

その理由は、この記事が「青識亜論とnote記事を通して議論する事」を目的として書いたものだからだ。

「【青識亜論考:2】」の公開を一旦封印する理由

上記の記事を書いた後、青識亜論を議論に誘うために、青識亜論の下記の記事に、青識亜論を議論に誘い込むためにコメントを付けた。

マシュマロ返し vol.1に私が付けたコメント

彼が真に「論客」としての自負を持っているならば、この誘いに乗るのが自然な流れだろう。
しかし、彼はこの議論の誘いに乗ろうとせずに、長文記事を更新している。
つまり、彼は「意図的に、この議論に乗る事を避けている」と現状では言わざるを得ない
私が投げかけた議論の誘いを罠だとでも思っているのだろう
罠にかかって自分が不利になる場で議論する事を避けたいのだろう。
つまり、「青識亜論は、「自分に有利な状態で議論できる場」でしか「議論」しないという事だ。
違うのならば、私からの議論の誘いに対して、「議論に乗る旨の返事(【青識亜論考:1】の内容を肯定する発言か、若しくは反論のどちらか)」を返して欲しいものだ。

議論の主筋ではないが

なお、議論の主筋ではないが、議論を行うためのフック(議論を始めるためのひっかけ)として【青識亜論考:1】石川優実 VS 青識亜論 訴訟で、青識亜論が「和解(実質敗訴)」した件についての考察の冒頭にて私は下記の通り書いた。

青識亜論はよく、「議論をする際は、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」を重視して欲しい」という主張をする。
しかし、それに対して私は「なら、先ず君は青識亜論という名前を捨てて本名で発言しろ」と指摘する。
「何を言ったか」を重視して欲しいと本心から思っているのなら「青識亜論」という名前に固執する必要が無い「青識亜論」という名前を手放せない時点で、「議論をする際は、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」を重視して欲しい」は破綻している。

【青識亜論考:1】石川優実 VS 青識亜論 訴訟で、青識亜論が「和解(実質敗訴)」した件についての考察

この点を踏まえて、議論を始める際に先ず彼(青識亜論)には

  • 「青識亜論」という名前を手放す

  • 「議論をする際は、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」を重視して欲しい」という過去に彼がした主張を撤回するか

どちらかを行って欲しい

これが出来る人物か否かが、彼(青識亜論)が私との議論に値する人物か否かを見極める目安となる。
言っては何だが、「【青識亜論考:1】という議論の誘いに彼(青識亜論)が応じる反応を示さない現状」では、私は彼(青識亜論)が逃げようとするレベルの議論を投げかける事が出来ているという事になり、彼より私の方が「論客」として上という事になると言わざるを得ない。
私は「論客」のつもりはないし「論客」になりたくもないので、彼が私からの議論の誘いに乗ってきたら「論客」の肩書を即座に返上させてもらうつもりだ。
彼が議論に乗ってきた時点で、「論客」青識亜論 対 特に肩書のない西本三林の議論となる。)

本物の「論客」になりたい人間は、地方議会議員か国会議員にでもなれば良いと私は考えている

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