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小さな自分

 どうしても他人の目を気にしてしまう。自分が取る行動が、紡ぐ言葉が、誰か分からない誰かにとっては気持ちが悪く、受け入れがたいことだと知っているから。洗練されていない言葉や行動が、凄まじい勢いで魑魅魍魎と化す。自分の知らない誰か-ここでは人間を自分を含め誰一人として完全に理解し得ないものと仮定して-の肉体を蝕み憎悪へと変化させる。

 僕は、仲のいい人の大人数の場における振る舞いを、一歩引いた場所から見てしまう。それは、実際に、僕が場所や立場によって振る舞いを変えてしまってるから。殊に、関係が浅い人に対してはぶりっこするし、気を許した人には脳みそを介さずに会話するし、一人でいるときは鼻くそをほじる。
 
 そんな自分を知っているから、第三者の目でそんな僕自身を見るのがいたたまれない。「あ、こいつ態度変えた」とか、「普段鼻ほじってるくせに、かっこつけてますやん」とか思われてるんだろうなって、一瞬でも考えてしまったらもう詰み。袋小路に追いやられてしまって、身動きが取れなくなってしまう。

 そんな誰かの目を通して僕を見つめる僕の目で、他人のことも見つめてしまう。誰にでも分け隔てなく、同じように接することができる人がいるのも分かってる。でも、どうしてもやっぱり、他の人の前での立ち居振る舞いが、僕の前のものとは違うなって思ってしまったときに、得も言われぬ気持ちになってしまう。

 だから僕は大人数が嫌いだ。みんな一張羅を纏って、打算的な交流を図ってる気がしてならない。そんな穿った目でしか、他人のことを、もとい、自分を含めた他人のことを見れない自分が小さすぎて嫌になる。

 じゃあ一体僕はどうすればいいのか。居心地が悪い場所からたくさん、逃げてきた。居心地が悪いなと思ったら、寝たふりをしてきた。たぶんこのままでは、未来永劫心にしこりを抱えたまま、人と付き合うことになるんだろうなって思った時に、とりあえず、小さい自分を認めてみようって考えた。
 
 ご立派な偉業を成し遂げたこともないし、自分を誇示するし、嘘もつくし、他人のことを見下す。それはもう仕方ないから、小さい人間だっていうことを認めるとこから始めよう。そしたら、僕がどんな行動をとっても、誰からどう思われても、限りなくポジティブな意味での、諦念に似た感情を持つことができると思う。

 この文章さえも、僕の知らない誰か-言わずもがなこの言葉に僕自身も内包される-に醜く肉薄する。僕はそれを直視できない。あまりにも希薄で空虚な両足では立っていられない。そんな僕の左胸に、"小さな人間"というバッジをつけることで、何故か自分を許せるような気がしてきた。

 そうだ。鼻くそをほじろう。


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