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大人になるということ

こんにちは。こでかぱんつです。
見にきてくれてありがとうございます。大好きです。
今回は、大人になるということ、について今の自分なりの考えを率直に書こうと思います。

 僕は今年で21歳。数字だけを見れば立派な成人。周りをみれば就活やインターンなどなど、将来の話が他人事ではないように降りかかってきます。つまり、僕はもうすでに大人にならなければならない時期に片足どころか、無自覚に頭から突っ込んでいっているのです。僕が胎児なら、頭が下であることは正常なので、取るに足らないことかもしれませんが、生まれちゃったんでそうもいきませんね。話を戻すと、一般的に見れば、大学三年の僕は本格的に将来のことを考え、それに向けて歩み始めている、ことが理想とされていると思います。また、このことが大人になるための準備過程、あるいは、すでに大人としての一歩目なのかもしれません。しかし、僕は少なくとも自分では、今の自分は大人であるとは言えません。僕の中でも、将来のことを真剣に考え始めている友人、既に社会に出て働いている友人の話を聞くと、僕は本当にこのままでいいのか、という不安や焦燥に駆られることが増えてきました。とは言っても、一朝一夕にそんな人たちになれるかと言われれば、そうは思えません。そこで、一歩引いた視点で、大人になるということについて考えてみようと思いました。

 まず、大人になるとはどういうことでしょうか。軽くwikipediaで「大人」と調べてみると、大人とは、「十分に成熟した人。成人。考え方や態度が充分に成熟している人。思慮分別がある人。」このような人のことを「大人」と呼ぶらしいです。この定義に僕を当てはめてみるとどうでしょうか。「成人」であることでしか、僕は大人の要素を満たせていないみたいです。あちゃぱあですね。でも、僕はここで思いました。これらの定義を全て満たすのが大人なのだとしたら、一生大人にはなれないな、と。また、この社会にも大人と呼べる人はあまり多くないのじゃないのかな、と。あくまで個人的な意見なので許してニャンって僕の中のももちが言ってます。もちろん、僕から見て、考えが成熟してるや思慮分別がある人はごまんといます。しかしその一方で、僕にとって納得できない考え方や行動をとる人だって社会にはたくさんいます。つまり、あくまでも考えや態度が成熟している、思慮分別があるという要素はあくまでも相対的なものでしかないのではないかと思います。大人になったと感じた時に、そこであらゆる周りの要素を省いて、自分自身で成熟している、思慮分別がある、と思えるかどうか。その時になってみないと分かりませんが、今の段階では迷わず首肯することは難しいと思います。

 じゃあどうすりゃいいんだ、って。大人になるためには何が必要なのかっって。僕が出した結論はこれです。













大人にならんでいいんじゃね?






は?ですよね。僕が与党代表で国会答弁してたなら間違いなく野党に説明責任を果たせって、ドクロベエみたいなしわがれた声で追及されちゃいますね。ずきゅんどきゅんばきゅんってかんじ。

まあ、何が言いたいかというと、先述したとおり世の中には大人と呼べる人は果たしてどれくらいいるのか、大人になることだけが正解なのか、という疑問にこれからずっと向かい合わなければいかないといけないと思うんです。それはもうまさに、巨人の星の父と子のように卓を挟んで。時にはちゃぶ台ひっくり返されながら。まだ社会に出てないぷー太郎が偉そうに言うのはお門違いなことは承知ですが、僕はこの問いの答えを出せるまでは、子どものままあがき続けようと思います。これは決してピーターパンシンドロームのようなことではないです。たぶん。少なくとも自分の中では。あっとりーすと、、、前向きな大きい子供って思ってくれたら大丈夫です(⌒∇⌒)

 

子どものままじゃだめだって言われても、そうやって言ってくる人も人生一回目だし。それなら僕は僕で子供のままおっきくなってみたいなって思います。絶対そこ足跡ついてないから、踏んだとき気持ちいいで。




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