可能性ではなく、不可能性が自分を規定する。

サッカー選手になれるか。ピアニストになれるか。書道の師範になれるか。柴咲コウの夫になれるか。登録者数500万人YouTuberになれるか。直木賞作家になれるか。AAAのメンバーになれるか。

答えは言うまでもない。

不可能性が自分を規定することを甘んじて受け入れなければならないのか。

割り切らなければならないのか。

でもそこに、曖昧な領域が存在する気がする。

それが例え不可能性だとしても。

経験と知識がその曖昧さを拡張する。

そこにしがみつく泥臭さがあるならば

可能性を信じてみてもいいのかも。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?