見出し画像

尾崎豊は「若者の代弁者」ではなくなったのか

以下のブログと映画「尾崎豊を探して」より考えたこと。

尾崎豊に心酔する人々は、社会不適合性や異常性を抱えながら社会と折り合いをつけていくことを望んでいたのではないか。しかしながら今やその異常性に名前がつくようになった。それは「発達障害」なのかもしれない。こうした「生きづらい」人々が同時多発的に何らかの「カテゴリー」を獲得する。するとそうした人ーもちろん全員とは言わないーには、一種の諦念が無意識下に作用しているのではないか。つまり「自分は病気だから仕方ない」、「障害を持っている自分にはこんなことはできない」といった社会や世間と闘い、折り合いをつけていく努力の放棄である。(*)

尾崎豊は境界性パーソナリティ障害を抱えていた可能性が高いと言われている。

境界性パーソナリティ障害患者は孤独に対する耐え難さを有する;見捨てられることを避けるために死に物狂いの努力を払い,他者が救助または世話をしてくれるよう仕向ける形で自殺のそぶりをみせるなどの危機を生み出す。併存症は複雑である。しばしば,他のいくつかの障害,特にうつ病,不安症(例,パニック症),および心的外傷後ストレス障害,ならびに摂食障害および物質使用障害が認められる。 MSD マニュアルプロフェッショナル版

ある種の異常性を抱えながらそれでも「夢」ー尾崎豊はこの言葉を実に頻繁に使っていた。ーを追い、「勝利」「優しさ」「正義」「自由」といった価値を体現しようとする過程での精神世界として数多の作品があったのではないか。

自らの異常性や社会不適合性に起因する、疎外感に耐え何とか生き抜いていくそんな人々が心のよすがとしたのが尾崎豊であったのではないか。

今となってはTwitterに悪口を書き込むことではけ口を得て、嫌なことからは”簡単に”逃げる人の気持ちはもはや「代弁」してくれないだろう。



(*)私は個人的に「障害の押し売り」とでも呼べる現象を問題視している。それは自らの特異性をネタにしたり、盾にしたりすることに執着することだ。そういった人に抜けている視点は、実は同じ障害や疾患を抱えながらそれを隠し、何食わぬ顔で生きている人の方が遥かにたくさんいた(今もいる)ことだ。(もちろん本稿の論旨はそういった人は減っているということであるが。)障害者雇用問題では社会、企業、健常者への批判が多いが、実はこういった視点が障害者側や支援側に存在しないことも問題であると考える。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?