「百合」 私が「百合」を好きになったときのこと

 私は、女性同士の関係性を描いた物語が好きだ。それは、恋愛は勿論だけど、それ以外の関係でもよい。友情でも、或いはお互いを憎悪している関係でも。尊敬、一方的な憧れ。連体の物語も好き。シスターフッドという言葉も好き。そして、最近知ったガールクラッシュという言葉も。(この女性が大好き、憧れ、というような意味らしい。「あの人は私のガールクラッシュ!」という風に芸能人に対して使ったりするみたい。そんなスラング。)

 こういったものを、なんと呼ぶのか。「百合」という言葉が相応しいんだろうか。(流布しているので、便宜上、ここではタイトルはかっこ付きで「百合」としている。)ネット上で「ロマンシス」という言葉も見た(ロマンス+シスターフッド、「ブロマンス」に対して)。私は、一生懸命色々考えたけれど、自分が好きなものは、「『女たちの時間―レズビアン短編小説集 』(平凡社ライブラリー)に載っているようなもの」と定義するのが、一番相応しいような気がしている。

 この『女たちの時間』に掲載されている短編は、必ずしも「女性を恋愛対象とする女性」の話というわけではない。翻訳者のあとがきで「レズビアン」という言葉について、「ここではもっと広義のものを差す」という風に書かれていた。女主人への尊敬、姉への複雑な感情。そんな、色々な、物語。私はなかでも特に、一番最初の「マーサの愛しい女主人」という物語が大好きだ。私が好きなものが、二重にも、三重にも、詰まっているから。これについて書きだすと、止まらなくなってしまいそうだから、また後にして。

 時々「なんで好きなの?」「なにがきっかけ?」と聞かれることがある。なんで―という問いに対しては、よくわからないままだ。私は自分が好きだと思ったものについて「どこが好きなのか、なんで好きなのか」を延々と考えるのが大好きだから、それについても考える、考えてきたけれど、いまだによくわからない。これからも考えていくと思うけど、いまのところは、「理由はわからないが、とにかく好きです」と答えるしかない。

 「なにがきっかけ?」これについても、よく考える。いつから好きだったかはわからないけれど、「私はこういう、女性が女性を好きな物語が、大好きなんだ」と最初に認識したのは、多分、高校の時の古文の授業で、「枕草子」が出てきた時のことだと思う。第二八四段ーかの有名な、香炉法の雪。授業ではさらっと触れられる程度だった。確か教科書には、コラムみたいな、参考のような形で載っていた。授業の中で、しっかり読みこむー現代語訳したり、文法を解説したりーしたのは、最初の「春は、曙」の部分で、こちらはおまけのようなものだったんだろう。だけど、その「おまけ」に、私はどぼんと落ちた。落ちてしまった。

 古文の先生が「源氏物語」の話をした。紫式部の「源氏物語」。先生が高校生の時のこと。瀬戸内寂聴の「源氏物語」を読んで、とても感動して(「感動」という言葉を使ったかはわからない、他の言葉だったかもしれない。ただ、先生はとにかく大好きになったと、そんな風に話をした。)、読み進めるのが惜しくて、少しずつ少しずつ読んだーそれほど「源氏物語」が好きになった、と。(「読み進めるのがもったいなくて」という話が印象的だから今でも覚えてる、「更級日記」みたい。)それをきっかけに古文の道に進んだ、と語った気がするーこの部分はさだかではないけれど、先生が「源氏物語」の素晴らしさについて熱っぽく語ったのは、しっかり覚えている。

 それから、先生は紫式部と清少納言の話をした。よく引き合いに出される、紫式部が清少納言を日記のなかで酷く書いたという話だとか。このふたりはよく比較されるんだとか。そして、先生はちょっと清少納言をけなす(というほどのものでもないけれど)ようなことを言った。紫式部の方がずっと教養があって、とか、清少納言はそれほどでもなくて、でも「自分は教養がある」ということを言っちゃうような、あっけらかんとした人。「枕草子」も定子様大好き!ばっかりの内容でー書いてみたら、なんだか先生が清少納言を褒めているような気がするけれど、そうではない。先生は、それ故に、清少納言より紫式部が好きなのだと言った。「私は紫式部贔屓です」と。

 その話を先生がしたのが、授業が香炉法の雪のところに差しかかる時だったのだ。中宮様は「少納言よ、香炉法の雪、いかならむ」と仰り、清少納言は白楽天の詩の一節を踏まえ、御簾を高くあげる。そうすると、中宮様は、にっこりなさる。

 中宮が外の雪景色を見たいということを『白氏文集』の世界になぞらえて、女房たちの機転を試す。それに、清少納言は応えてみせるのだ。その後の「笑わせ給ふ。」という言葉に、定子が清少納言に向かって笑顔を向けた情景が目に浮かぶようで、そして清少納言の嬉しさが沢山詰め込まれているように思われて……

 それを聞いた時、なんだか変に気分が高揚したことを覚えている。「胸が高鳴った」と言えばいいのかもしれないが、もっと違う言葉の方が相応しいはずだ。妙な気分。ぞくぞくした。興奮した。定子様の投げかけに私は見事に応えたの、そして定子様は満足されて―「私はすごいでしょう」という「自慢」(その古典の先生が言っていたような)もみえるけど、それ以上に、清少納言がどれだけこの女主人のことが好きか、ということをひしひしと感じた。この人にとって、定子に認められることが、喜んでもらうことが、何にも代えがたい喜びなのだと。今は、この定子から清少納言の感情にも思いを馳せてしまうが、その時の私は、清少納言の定子への想いに胸が一杯になった。好意や憧れなんて言葉じゃ言い表せない、「崇敬」とでも言うのがいいのだろうか。

 なんて素敵なんだろう、と思った。でも、自分のこの気持ちをどう表現したらよいかもわからなくて、自分の感情を持て余して、私は授業中にひとりで気持ちを高ぶらせているだけだった。私は清少納言が大好きだ、「枕草子」が大好き、この段が大好き、清少納言の定子へ向ける感情、このふたりの関係が大好きーとにかく、自分がそれを「好き」ということだけは理解した。

 先生は「私は紫式部贔屓です」と言った。だから私は心の中で、「だったら、私は、清少納言贔屓」と思った。

 多分、これが、まだぼんやりとだけれど、女性が女性を大好きだということを描いた物語、それが自分は好きなのだ、と認識した最初の時なのだと思う。或いは、好きになったきっかけなのかもしれない。後になって、私は女性が女性に向ける感情の中でも「崇敬」というものが好きで、或いは女主人とそれに仕える女性の物語が好きで、そんなことを徐々に思い知っていくのだけれど。その時の私は、「ああ、私はこういうものが好きなんだ」と、すとんと心の中に、何かが落ちたような気がしたのだった。

 高校生の時には、「マリア様がみてる」にはまったり、他にも沢山「百合」と呼ばれる物語を読んだから、何がきっかけかは曖昧だったのだけど。「なにがきっかけ?」ということを改めて聞かれて、延々と考えて、「あ、あの香炉法の雪の時かもしれない」と、はっと思った。

 古文の授業の時に、ときめいた。そして、後になって、清少納言が「枕草子」を書き綴ったのは、中関白家が崩れ落ち、その凋落を目の当たりにしながらだったということを知って、私の、清少納言が、そして「枕草子」が好きだという気持ちは決定的なものになった。中関白家の栄華は短いものだった。けれど、「枕草子」に厳しい現実はみえない。影はみえない。咲き誇る花のように、美しい世界の中の、美しい定子様。宮仕えの、決して忘れられない、大事な宝物のような一時を、書き留める。その行為自体こそが、何よりも清少納言の定子への感情を表わすものではないか。

 清少納言が「枕草子」を書くまでが、私の好きな物語だ。


参考文献:利根川真紀翻訳『女たちの時間―レズビアン短編小説集 』(平凡社ライブラリー)、1998年12月、平凡社(新装版 2015年6月)。清少納言・角川書店編・坂口由美子解説『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 枕草子』(角川ソフィア文庫)、2001年7月、角川書店。


 

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