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書評「リア王」(安西徹雄訳、松岡和子訳)

11代伝蔵の書評100本勝負11本目 
 noteに書評を書くようになって本が本を呼ぶ状態になっています。読みたい本が次々と現れます。
 確か鶴見俊輔のエッセイ「思い出袋」で俳優山崎努の著作「俳優のノート」を知りました。電子書籍化されていないようだったので久々に紙の本をアマゾンで注文し、届くやいなや読み始めました。内容は、1998年新国立劇場のこけら落とし「リア王」を巡る山崎努の役者日記でした。彼はこの舞台で主役のリヤ王を演じたのでした。
 数ページ読んでわかったのは「リア王」をきちんと読んでいないと何が何だかわからないと言うことです(当たり前か⁈)。
 そこでまずは「リア王」を読むことにしました。得意のAmazon limited の中に「リア王」(光文社古典新訳文庫 安西徹雄訳)がありましたのですぐにダウンロードして読んでみました。中学時代にリア王を含むシェイクスピア作品を数冊読んだ記憶がありますが内容はほぼ頭に残っていません。ただ面白くというより楽しく読んだ記憶はありました。そして今回数十年ぶりにシェイクスピアを読んでみると昔の楽しさがよみがえってきました。
 ご存知のように?シェイクスピア作品は比喩や隠喩そして暗示などが豊富に使われます。そして戯曲ですから基本的にセリフのみで書き綴られています。舞台で役者が演じるので、どうしても大袈裟な物言いになります。それは楽しくはあるけど、分かりやすいとは言えないと僕は思いました。だから読了した時スッキリしないというかモヤモヤが残りました。ちなみに戯曲では登場人物がこんらがることがありますから、最初にある人物紹介はメモしておくとよいですね。
 安西徹雄本を読み終わってもスッキリしなかったのでちくま文庫の「リア王」(松岡和子訳)も読んでみました。読み終わった時の読了感は2回目ということを差し引いても松岡訳の方が僕にはスッキリしました。本当は原文で味わうのが一番なんでしょうけど、シェイクスピアの場合、英文テクストの選択や解釈により、翻訳がかなり変わります。だから読み比べも醍醐味の一つとなるでしょうね。そこで少し安西訳と松岡訳を比べてみましょうか。三女コーディリアが父リア王に勘当され婚約者のフランス公に促されふたりの姉(長女と次女に)挨拶して立ち去る場面です。
(安西訳)
コーディリア お父様にとって大切な宝石のお二人に涙で洗われた目をもってお別れ申し上げます。お姉さまのご気性はよく存じておりますけれど、妹として、その欠点をあからさまに申し上げる気にならない。どうか、お父様のこと、くれぐれも大切になさってください、先ほどのお言葉どおり。お二人の胸に、お父様をゆだねましょう。ただ、ああ、お父様の御機嫌を損ねることさえなかったら、もっとふさわしいところに託すことができたものを。
(松岡訳)
コーディリア お姉様、お二人はお父様の宝石、コーディリアは涙に洗われた目でお別れします。お二人のことは分かっています。妹の分際で、お姉様の欠点をありのままに言うのは気がすすみません。どうかお父様を愛して差しあげて。先ほどお誓いになったお二人の胸に、お父様を委ねます。でも、ああ、私がまだお父様お寵愛を受けていればもっといい場所をお勧めするのだけれど。
では、お二人ともご機嫌よう。

どうでしょう?引用した場面は大きな違いはないけれど、言い回しやニュアンスに微妙な違いがあります。松岡訳にある最後の「では、お二人ともご機嫌よう」は安西訳にはありません。こういう違いがボディブローように効いて?全体として好き嫌いや分かりやすさに差が出るかもしれませんね。
 改めて思うのはシェイクスピア戯曲の言葉の豊穣性や力です。彼自身、劇作家であり、俳優であり、劇団の経営者でもあったそうです。公演によっても脚本は変わったのでしょう。もちろん演じる役者や演出家によっても色が出るのでしょうね。山崎努によれば松岡和子訳は「原文を日本語に移すことでせりふのダイナミズムを作り出している」そうです。僕も同感です。そして来月まつもと市民芸術館で串田和美主演による「KING LEAR -キング・リア-」が上演されるのでチケットを予約しました(笑)。脚本は松岡和子であることも楽しみの一つ。初松本なので、松本城を横目に?観劇を楽しみたいと思います。
その前に「俳優ノート」(山崎努 文春文庫)の続きに取り掛かりますかねえ。


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