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中東アラビア・ロレンスの逸話~

それは絵空こと、他人ごとしての出来事か?

あまり深入りすると疎まれるし、かといって無関心にすると他(外国)から非難されるというレアな部分で難しい提起な問題です。

何故、という疑問を探ると紀元前の話しになるだろうし、ま~私の分野としては地中海沿岸ギリシア・クノッソス神話も、絡むことだし、延々と話せば長いのですが、いまは、そのタイミングではありません。

前項では、核心部分を引用記事で解説しましたが、大筋では理解されたと思います。
なので、ここでは、西洋史的解釈の映画「アラビアのロレンス」を持ち出して、お茶を濁す、という安易な会話にしました。

その話も若い人は、まったく知らないパノラマ映画で、銀幕を飾った、という一種のプロパガンダだったのでしょう。

著書映像作品としてのロレンス
『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia) (イギリス、アメリカ映画, 1962年)。1989年に完全版が公開。『ロレンス1918』(A Dangerous Man: Lawrence After Arabia) 、イギリスのテレビドラマ(1990)

とありますから、61年前の制作で、エンターテイメント開祖といってもいいでしょう。

歴史的に世界大変革と云うのがあって、イタリアルネサンス14~16世紀、1900年~1905年(アインシュタイン相対論、その他の科学研究発展)、その前の産業革命、1945年終戦以降の近現代イノベーション(人口大増)など、大きな変革がありました。

そのイスラエル問題は、その近代史が始まる直前の発火点になっていた、ともいえるのでしょう。ですから、おいそれと終わらない民族の軋轢が絡んでいて、コマ一ついじると、ドミノ倒し連鎖がはじまるという不文律を抱えているのです。

また、先日のはなしでは植民地時代に搾取した民族遺跡類を祖国に返還するという天地が逆転するような交渉が始まっており、先進各国は、その対応に追われているという話しは隔世の感があります。

それは同時に、くすぶっていた火種が、発火しはじめた、と、とらえることもできるし、そのイスラエル紛争に端を発した問題は、これからさらに世界を巻き込むという杞憂は、まっく否定できないのです。


中東アラビア・ロレンスの逸話~

トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence、1888年8月16日 - 1935年5月19日)は、イギリスの軍人、考古学者。オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。

トーマス・エドワード・ロレンスは1888年にウェールズのトレマドックで生まれた。父はトーマス・ロバート・タイ・チャップマン(英語版)(後に第7代チャップマン準男爵(英語版)となる)、母はセアラ・ロレンス。夫妻は正式な結婚ができなかったため、ロレンス姓で生活し、彼らの子供たちもこれに倣った。

1907年、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回った。1909年の夏にはレバノンを訪れ、1,600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍の遺跡調査をしている。1910年の卒業時には、これらの調査結果を踏まえた論文を著し、最優秀の評価を得た。卒業後は、アラビア語の習得のためベイルートを経由してビブロスに滞在した。1911年には、恩師のデイヴィッド・ホガース(英語版)博士による大英博物館の調査隊に参加し、カルケミシュで考古学の仕事に従事した。同じ頃、ガートルード・ベルと知己を得ている。

ロレンスは短期の帰国をはさんで再び中東に戻り、考古学者のレオナード・ウーリーと共にカルケミシュでの調査を続けた。同地での研究のかたわらで、ウーリーとロレンスはイギリス陸軍の依頼を受け、水源確保の点から戦略的価値が高いとされていたネゲヴ砂漠を調査し、軍用の地図を作成している。

トーマス・エドワード・ロレンス アラビアのロレンス 1917年、アカバにて
1914年7月、第一次世界大戦が勃発し、イギリスも連合国の一員として参戦することになった。ロレンスは同年10月に召集を受け、イギリス陸軍省作戦部地図課に勤務することになる。臨時陸軍中尉に任官された後、同年12月にはカイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する一方で、語学力を活かし連絡係を務めるようになった。
1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局(英語版)(局長はホガース)に転属され、同年3月には大尉に昇進。この間の休暇にアラビア半島へ旅行し、オスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者候補たちに会った。

情報将校としての任務を通じて、ロレンスはハーシム家当主フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フサインと接触する。ロレンスはファイサル1世とその配下のゲリラ部隊に目をつけ、共闘を申し出た。そして、強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、各地でゲリラ戦を行いヒジャーズ鉄道を破壊するという戦略を提案した。この提案の背景には、ヒジャーズ鉄道に対する絶えざる攻撃と破壊活動を続ければ、オスマン帝国軍は鉄道沿線に釘付けにされ、結果としてイギリス軍のスエズ運河防衛やパレスチナ進軍を助けることができるという目論見があった。

ヒジャーズ鉄道
1917年、ロレンスとアラブ人の部隊は紅海北部の海岸の町アル・ワジュの攻略に成功した。これによりロレンスの思惑通り、オスマン帝国軍はヒジャーズの中心であるメッカへの侵攻をあきらめ、メディナと鉄道沿線の拠点を死守することを選んだ。続いてロレンスは、戦略的に重要な場所に位置するにもかかわらず防御が十分でなかったアカバに奇襲し、陥落させた。この功により、ロレンスは少佐に昇進している。

1918年、ロレンスはダマスカス占領に重要な役割を果たしたとして中佐に昇進する。大戦が終わりに近づく中、従軍記者のローウェル・トーマスと彼のカメラマンは、ロレンスの写真と映像を記録している。

戦争終結後、ロレンスはファイサル1世の調査団の一員としてパリ講和会議に出席する。1921年1月からは、植民地省中東局・アラブ問題の顧問として同省大臣のウィンストン・チャーチルの下で働いた。1921年3月21日にカイロ会議に参加した。

空軍に再入隊
1922年8月には「ジョン・ヒューム・ロス」という偽名を用いて空軍に二等兵として入隊するが、すぐに正体が露呈し1923年1月に除隊させられる。同年2月、今度は本名を「T・E・ショー」に改めて、陸軍戦車隊に入隊する。しかしロレンスはこの隊を好まず、空軍に復帰させてくれるよう何度も申請し、1925年にこれが受理された。その後は1935年の除隊までイギリス領インド帝国やイギリス国内で勤務した。

事故死 オートバイ(「ジョージ(George)」)に乗るロレンス

除隊から2ヶ月後の1935年5月13日、ロレンスはブラフ・シューペリア社製のオートバイを運転中、自転車に乗っていた2人の少年を避けようとして事故を起こして意識不明の重体になり、6日後の5月19日に死去した。46歳だった。ロレンスの墓所はドーセット州モートンの教会に現存する。

オスマン帝国はトルコ民族国家のトルコ共和国となり、エジプト、シリア、イラク、アラビア半島、マグリブを放棄せざるを得なくなった。これらのトルコ共和国に含まれなかった地域は、西欧諸国の植民地となった後、西欧諸国によって人工的な国境線を決められ独立を果たしたが、4世紀の間続いた「オスマン帝国の平和」は崩れ、現在に至るまで十字軍、モンゴル帝国、ティムールの襲来以来の政治的混乱が続いている。

ロレンスは生涯独身を貫いた。やもめ暮らしで食事の後片づけを省略するために、ピクニック用の紙製の食器を用いた。
西欧諸国でロレンスは映画『アラビアのロレンス』で描かれているような「アラブ諸国の独立に尽力した人物(アラブ人にとっての英雄)」として認識されているが、アラブ側からは「中東における行動は一貫してイギリスの国益のためのものだった(アラブ側を利用していた)」とする指摘もある。
ロレンスは自伝にて、戦時中に変装し潜り込んだ地で敵に拘束され苦しい拷問の末、快感を覚えるようになったと告白している。しかし、戦争が終わった後に拷問の機会は訪れることは無いため、わざわざ人を雇って自分を鞭で打たせている。
ベトナム戦争当時、圧倒的なアメリカ軍の物量の前に、北ベトナム軍や南ベトナム解放民族戦線では一部、ロレンスのアラブでのゲリラ戦が参考にされ、その著書「知恵の七柱」も読まれていたとされている。
無名の一将校から英雄的な存在として広く人々に認識されるようになったものの、本人はその煩わしさに辟易していた面もあったようで度々偽名を用いるなどしていた。また「当代一流の人物」と賞賛される一方で「目立ちたがり」「露出狂」などの非難も多く、毀誉褒貶の激しい人物としても知られている。
探検家のパーシー・フォーセット(英語版)がアマゾンのジャングルに眠る失われた都市Zを求めていた頃、ロレンスは次のZ探索隊に自分を加えて欲しいと彼に頼み込んでいたが、砂漠での経験があるとしてもジャングル探検では実績がないことなどを理由に断られている。 ウイキペディア


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