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「祀り」ごと

政治は、まつりごとか

あなたの神様は、どこにいらっしゃいますか?
古来から日本には八百万(やおよろず)の神がいると言われいる。決して8,000,000の神様がいるという意味ではない。それくらいたくさんの崇拝すべき感謝の対象があるということ。山にも、川にも、火にも、田畑にも、台所にも、トイレにも私たちを支えてくれる全てのものに神様は宿っている。神(カミ)が上(カミ)の発音に似ていることから、この言葉の起源が「上の存在」という意味を持つ、といった説は少なくない。そういう意味では、昨今の若者言葉である「神」の持つ意味もそう遠くはない。

神様のいる場所に「まつり」はつきもであった。
「まつり」の語源はと言うと、差し上げるの意味を持つ「奉る(まつる)」という説が一般的だが、中には「待つ」から由来し、「神様を待つ」の意味を持っているというユニークな説もある。人々が神様や祭りを待ちわびていることに間違いはない。そしてもう1つ「祭り」が、「政(まつりごと)」という言葉につながっていることは疑いの余地はない。なぜなら、祭りは人をつなぎ、社会をつくるものであるから。
大テーマ「神様のいる場所」と題して、大阪府唯一の村「千早赤阪村」にある「建水分(たけみくまり)神社」の祭りを通して「待つ」の意味を持つ「祭り」と、「政」の意味を持つ「祭り」。

政(まつりごと)は祭りごと
政(まつりごと)とは、人や土地、社会を統治する行為です。社会の最小単位は家族。その次は学生なら学校、会社員なら会社、ママなら保護者会。このように現在では、立場によって身をおいている社会はさまざまです。
しかし、少し時代を遡り、学校がなく、子どもたちは暮らしながら学ぶしかなかった時代。会社がなく、大人たちは農作業や狩猟などで地元の仲間と共に働いた時代。ママは子どもを育てながら、農作業や狩猟の手伝いなど、仕事の大きな担い手だった時代を考えると身を置く社会は、10代半ばを過ぎれば、子どもも大人も大差なく、村や町そのものでした。
身分の隔たりはあったものの、人々はさまざまな年代の人とつながり子どもたちはたくさんの大人たちに叱られ、褒められ、いろいろな人たちの背中を見て生き方を学ぶことができました。
いずれも「奉(まつ)る」に由来するのだそう。この2つが同じ語源であるのには諸説ありますが、一般的には、神様を鎮めることと領地を治めることが一緒に行われていたからと言われています。もちろん、現在は政治と祀祭が一緒に行われることはありませんが今回、建水分(たけみくまり)神社の秋祭りを取材する中で「まつり」が、人を育て、人々をつなぎ、小さな社会を形成している姿を見ました。 (この町のストーリー)

その定義のような文言を漁ってみだが、どれもこれも、その輪郭のような時代的な考証がはっきりしない。

そんなことを漠然とイメージしてみると「衣冠束帯」姿の「聖徳太子」当たりの時代が、その「政治」のことを「まつりごと」と称していたような気もするが確証はない。

古代日本 まつりごと

かくして、太子1300年(生年月日: 西暦574年2月7日 死亡日: 西暦622年4月8日、 日本)という記録からすると1448年来以降、から政治を、つかさどっていたことになる。

それをいきなり令和政治と比較するには無理があったので、かねてよりの未解決事件「2.26」事件の時代、そのころの政治は、誰が政治を支配していたのか、垣間見ることにした。(天皇勅令が大事件を鎮静した)

その人「北一輝」は、事件の首謀者として極刑の死刑となった。

2022年10月22日記事

「北 一輝」とは誰か?


2.26事件のシナリオライター「北 一輝」
2.26事件 戒厳令下の警備 『国際写真情報』第15巻第4号所収
昭和11(1936)年2月26日未明、急進的な陸軍青年将校が所属部隊から約1,400人の兵を率いて首相官邸等を襲撃し、内大臣斎藤実・蔵相高橋是清・陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害、政治・軍事の中枢である永田町・三宅坂一帯を占拠した。
この史料は、同日に宮中で開かれた非公式の軍事参議官会議で、決起将校達に同情的な荒木貞夫・真崎甚三郎などにより鎮撫・原隊復帰を目的として作成され、決起将校達に伝達されたものであるが、途中で字句が変わるなど、混乱を招いた。事態は決起将校達に一時的に有利に動くように見えたが、天皇が断固たる討伐の意思を示して事態は一転鎮圧へと向かい、29日に終息した。

北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎〈きた てるじろう〉、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。
右目は義眼であったが、数少ないその肖像写真からも分かるように容貌眉目秀麗であり、二・二六事件後の軍法会議の裁判長吉田悳少将はその手記で「北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と述べている。日ごろから言葉遣いは丁寧で、目下、年下の者にも敬語を使っていたという。裁判では、青年将校たちの決起については自分は関係がないことを主張しながらも、青年将校たちに与えた自らの思想的影響についてはまったく逃げず、死刑判決を受け入れている。

話しは「明治維新」にさかのぼる

この2.26事件に直接かかわった人物ではないが、日本軍部に多大な足跡と影響をもたらした軍人「山縣有朋」が金字塔のように燦然と輝いている。これまでの国家戦争スタイルの骨格シナリオを策定した人物として注目されていた。

ヨーロッパ諸国が君主政治から民主政治に移行する狭間の時期、日本もそれに同調して世界情勢を睨んでいた。そこにフランスとプロイセンのいざこざが勃発して、それがやがて世界戦争に向かうという世界戦争殺戮史が展開する。そこにいたのが「山縣有朋」だった。

NHKテレビスペシャル~ 政府要人を殺害した「二・二六事件」について、事件の発生から収束までの4日間を分単位で記録した極秘文書が残されていたことがNHKの取材でわかりました。

当時、海軍が記録したもので、青年将校と軍幹部の動きややり取りなどが細かく記されており、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

今回見つかった資料は、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、海軍が当時記録した内部文書です。文書には「極秘」の印が押されていて、事件発生から収束までの4日間について、海軍が現場で把握した情報が分単位で記録されています。

このうち、発生からおよそ2時間後の2月26日午前7時に記された第一報とみられるメモは、「警視庁」「占領」、「総理官邸」「死」など、なぐり書きの文字が並び、その衝撃の度合いがわかります。事件の鎮圧には青年将校たちが所属した陸軍が当たりましたが、海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していました。2日目、2月27日の午後6時半の記録には、陸軍の幹部が青年将校らについて「彼らの言い分にも理あり」と理解を示し、「暴徒としては取り扱い居らず」と発言をしたことが記され、陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえます。

さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、「何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか」と問い、天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていました。

そして最終日、2月29日の午前8時5分の記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載され、この直後の青年将校らの投降がなければ、市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられています。

「二・二六事件」は、これまで青年将校らを裁いた特設軍法会議の資料など事件後にまとめられた記録が、主な公文書とされてきましたが、今回見つかったのは事件を同時進行で詳しく記録したもので専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

専門家「重要な部分を埋める資料」

軍事史に詳しい大和ミュージアムの館長、戸高一成さんは、「二・二六事件は軍人によるクーデターだが、陸海軍という2つの大きな組織のなかの陸軍サイドのみがほとんど見られて、海軍側の資料がなかった。
今回資料が発見されたことで海軍が事件のかなり大きな要素を握っていたことがわかった。特に、海軍は習慣で、時間を丁寧に記載するため、事件の推移がリアルタイムで書き残されているのは貴重だ」と指摘しています。そのうえで戸高さんは「今後、文書を精査することで二・二六事件の全体像がさらに明らかになる。事件の研究にこの資料が使われていたら、事件の全体像についてもう少し違う見方もあったかもしれず、全体の筋書きのなかで、非常に重要な部分を埋める資料になる」と話しています。~~~

そのほか、関連の自著記事引用したもの

■141年前「西南の役」は昔話じゃない2018.A2 ■現代版「西南の役」カルロス・ゴーン事件

141年前「西南の役」は昔話じゃない
2018.A2 : 2010/3/パラノイア blog.livedoor.jp

「だが、ほんとうにそれだけなのか。フランス大統領が関係する案件を、東京地検特捜部だけの意向で、しかもゴーン会長ほどの大物を、逮捕できるのか。どうやら日本政府がからんでいる、という情報もある。この事件は、今後も政界を巻き込みながら、まだまだ広がりそうだ。」

と書いた田原氏のオフシャルサイトだった。それは氏の推理であって真偽のほどはわからない。現在時間でいまでもそれは誰にも判らない。

日産ゴーン会長逮捕、なぜ今だったのか?
田原総一朗 Official web site 2018年12月03日 13:38
11月19日、衝撃的なニュースが流れた。日産自動車の会長だったカルロス・ゴーンさんが逮捕されたのだ。ゴーンさんの罪名は、金融商品取引法違反だ。2011年3月期から15年3月期の各連結会計年度における報酬総額99億9800万円を、49億8700万円と有価証券報告書に過少記載。さらに、経費の私的流用もあったという。ゴーンさんといえば、経営危機にあった日産をV字回復させた人物だ。
だから、この逮捕劇には、僕もたいへん驚いた。同時に、いくつかの疑問も生じた。たとえば、こんなにも長く続いた不正を日産の幹部が知らなかったはずはない。それを、日産側が検察に訴え、捜査に全面協力したのだ。つまり、そこには司法取引があり、日産側のダメージを最小限に抑えようとしたのだろう、と。

それにしても、なぜ今なのか。20日付のイギリス「FINANCIAL Times」紙によれば、ゴーンさんはルノーと日産の統合を強く進めていた。そして、それは数カ月以内に実現する可能性があった。反対する日産の経営陣は、これまでの不正をあばくことで、ゴーンさんを排除しようとしたのだそうだ。
さらに、その統合には、フランスのマクロン大統領の意向があったという。つまり、ゴーンさんがマクロン大統領と組んで進めようとした統合話を、日産側がひっくり返したことになる。
だが、ほんとうにそれだけなのか。フランス大統領が関係する案件を、東京地検特捜部だけの意向で、しかもゴーン会長ほどの大物を、逮捕できるのか。
どうやら、日本政府がからんでいる、という情報もある。この事件は、今後も政界を巻き込みながら、まだまだ広がりそうだ。
(記事引用)

参考にした記事

「二・二六事件」海軍極秘文書発見 収束までの4日間詳細に記録
2019年8月15日 19時31分


SNS時代の平和を問う
歴史のターニングポイント 二.二六事件 全貌(1936年2月26日).2

http://blog.livedoor.jp/raki333/preview/edit/90fdcf015be4e0e14fc47de494b88df0


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