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義経と白拍子.1

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)

義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛した。

一気に千年の時空をこえて

時をおいて、鎌倉に戻りました。なぜかって、やはり人は持続すると、いくら名作でも飽きてしまうからです。何を隠そう、私が飽きるからです。

一連の小津映画は、超現代記録資料誌であって、物語り、というより個人の追憶、生活再現記録保存版としての意味合いもありました。そう見えたのは、小津監督の細部に行き届いたディテールの描写にあり、小道具一つ一つに渡ってウソがなかったからです。

だから 別の映画(perfectdays)書評に「この映画はもしかしてたいへん退屈な映画じゃないのか」、という正鵠指摘は、正しいと思いましたし、また、これまで小津映画をまったく知らない世代にとっては今どきアニメ画とはまったく異次元の(昭和レトロ)を見せられて、野原電柱背景を見て「これっどこなの?」という疑問も、正しいと思いました。

と云ってもZ世代はその野原は知らないし見てないし、話題も存在しないのですから、問答無用というべきでしょう。ですから、この説明がそもそも間違いです。

それでも学校では、その一連の歴史は教える訳ですから、入試用解答としては覚える必要はあるのでしょう。

そのことは、今回の鎌倉時代の源氏、平家の話も同じで、よくよく探ってみると良くわからない、という考証が、いっぱいあるわけです。
その第一の疑問が、肖像画で「源頼朝」図は、これまで信じていたのは別人だった、と云われても困ってしまうのです。

云われてみれは、そんな気がしてしまうのも人間思考の曖昧さで、雷同的に、さっと入れ替えてしまう。まあ、「義経」図については、ウイキペディア検索でも、限定一図、しかないので、論争も起きない。

それで「源頼朝」の伝図、は、名画に異論はありませんが、武将にしては、無骨さがなく、伝えられる政権維持のための数々の討伐罪を思うと、その皺の数が数本足りないような印象を受けます。
といっても、その異論説が出る前は、そんなことは考えないので、これまた、情報理解度の認識は、幾通りも出来てしまう、ということなんでしょう。
そんなことを考えてみると今日的にも、文言とか写真、画像、動画など、どれが本物か、という特定は難しいし、そこにChatGPTなどの、新たなアプリが入り込むと、カテゴリー分けは、益々困難になる、と結論したくなります。

これからの話題は、1000年前の鎌倉時代で、根拠は「吾妻鏡」を多方面から分析した結果の、執筆者(松岡正剛)による労作です。

先日の「(perfectdays)」と同様、それを観やすくするのにスチール「雨降りフイルム」を1コマ1コマ修正したものを、いま見ている訳で、この「吾妻鏡」でも古代日本語を現代日本語に翻訳したものを読んで理解する、それも一つの文化と置き換えることができるでしよう。


ウイキペディア神護寺 頼朝伝

頼朝トップ画 ウイキペディア

義経の東アジア 松岡正剛の千夜千冊
小島毅 トランスビュー 2010・勉誠出版 2005
1420夜 『義経の東アジア』 小島毅

日本人が大好きな義経は、なぜ30歳そこそこで屠られたのか。
そもそも義経は、なぜ奥州平泉に行ったのか。
奥州藤原氏と義経の連携を討った頼朝は、どんなジャパン・プログラムを構想していたのか。
いや、そもそも平家と源氏は、何をめざして争ったのか。
本書はその背景に、実は東アジアにおける「金から宋への転換」がはたらいたと見た。
一読の価値がある一冊である。
 義経は奥州衣川で死んではいなかった。生きのびて蝦夷から北アジアをへてモンゴル(蒙古)に入り、そこで勇猛果敢な武力を発揮してチンギス・ハーンになったというのだ。シーボルトの『日本』にも拾われた話で、明治になって小谷部全一郎が奔放な大仮説を著述し、話題の「義経=成吉思汗」説として大正昭和の有名なトンデモ歴史観になった。
 源義経は一一五九年(平治一)に生まれて一一八九年(文治五)に死んだことになっている。チンギス・ハーンの生涯には不明のことも多いのだが、一一五五年から六二年あたりに生まれ、「青き狼」として育ってモンゴル帝国を一代で築き、一二二七年八月に没した。たしかに同時代だし、ほぼ同い歳である。なぜ、こんなトンデモ仮説が出回ったのか。
 すでに林羅山が『本朝通鑑』に義経が蝦夷に渡った可能性を書いていた。新井白石も『読史余論』でアイヌ説話に小柄で英明なオキクルミと無双の大男のサマイクルの話があって、それが義経と弁慶の主従関係に喩えられている話を紹介していた。そこへもってきて江戸前期に近江の沢田源内という著述家が書いた『金史別本』というあやしげな歴史書に、十二世紀の「金」の将軍には源義経という名の男がいたと、のちに「清」の乾隆帝が書き残しているという説が披露されたのである。これについては金田

一京助がその真偽を確かめたほどだった。
 ともかくも、こうした臆見やシーボルト説があれこれ絡まって「義経=成吉思汗」説が捏造されたようなのである。むろんそんな話を採り上げたくて、今夜の本書を選んだのではない。しかし義経の時代というもの、実は東アジアを俯瞰して語るべきことがいくつもあったのである。小島毅の俯瞰力を借りて、その話を案内してみたい。
 この本の主旨は、義経が三十歳ちょっとの生涯をおくった十二世紀後半は、日本史上の稀にみる転換期であって、かつ東アジアでも重大な選択がおころうとしていた時期に当たっているのだから、そして秀衡・清盛・義経・頼朝の奥州藤原氏の時代もまたそうした動向の本質と似たところをもっていたのだから、義経を考えるにもつねに東アジアの社会経済のダイナミズムは欠かせないというものだ。
 ま、こんなふうに簡素に言ってしまってはミもフタもないだろうから、もう少し歴史的な様相を説明することにする。
 その前に、この著者はなかなかおもしろい。機知にも富んでいるし、記述の工夫も怠らない。『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(ともにトランスビュー)があるかと思えば、『靖国史観』(ちくま新書)があり、ぼくもおおいにお世話になった『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)なんていう本も書いている。
 こういう本の並びからすると、てっきり日本の歴史学か日本思想史の研究者だろうと思われるだろうが、そうじゃない。一九六二年生まれの、れっきとした気鋭の中国思想史の専門家だ。『中国思想と宗教の奔流』(講談社)、『朱子学と陽明学』(放送大学教育振興会)などがある。『足利義満』(光文社新書)を難なく料理してしまう腕前の持ち主でもある。
 本書はもともと勉誠出版で同名の書籍として刊行された。義経についてのアジア的捉えなおしの展開はほぼこちらに書いてあったのだが、このたびはこれに「日本を東アジアから見るためのリベラル・アーツ」ともいうべき補助章がいくつか加えられ、いっそう背景の被写界深度のレンズ効果が増した。
 義経は平治一年(一一五九)に生まれた。それぞれ母の異なる源義朝の息子十一人の九番目だった。それゆえのちに九郎とも名のった。父の義朝は東国で活躍していた武士団のリーダーで相模の鎌倉の楯(館)を本拠にしていた。
 長兄の義平は相模原あるいは橋本の遊女を母とする鎌倉悪源太で、三兄が熱田大宮司の娘を母とする頼朝、次が池田宿の遊女が母の範頼で、義経は常盤を母として生まれた。九条院(藤原呈子)に仕えていた雑仕女だったようだ。そうとうの美女だったと『平治物語』にある。
 生まれてすぐに父の義朝が平治の乱で殺された。常盤は幼い義経を連れて大和の龍門に隠れ、兄の頼朝は伊豆に流された。母は捕らえられたが、わが子の命と引き換えに清盛の言いなりになることを引き受けたので(清盛とのあいだに一子を生んだ)、義経はひそかに牛若丸として七歳まで山科に育って、あとは鞍馬山中にいた。
 鞍馬は都の北方の守護神である毘沙門天(多聞天)の山である。ここで牛若は遮那王とよばれ、稚児として仕付けを施されるはずが、暴れん坊に育った。鬼一法眼なる奇怪な人物から武術を教わったということになっている。鬼一法眼は中国の兵法書『六』を伝授したらしい。ここに荒法師たちがいたか、その中に弁慶がいたかどうか、牛若が五条大橋(一説では五条天神)でひらりひらりとその弁慶を翻弄したかどうか、まったく史実にはのこっていない。
 常盤は、このあと一条長成(大蔵卿)に嫁いだ。長成は父の一条長忠にさかのぼれば藤原基成と縁戚関係で、基成がのちに奥州平泉の館に入ることになり、そこへ義経が落ちのびるようにやってくるわけだから、常盤の再婚は義経の未来を図らずもスコープしていたことになる。
 承安四年(一一七四)、牛若丸は鞍馬を出て奥州平泉の藤原秀衡のところに行った。最初の奥州藤原氏とのかかわりだ。金売り吉次や陵助重頼(=深栖三郎の三男)らが手引きしたことになっている。一条長成の縁があったかもしれない。奥州への途次、熱田神宮の大宮司のもとで元服をはたし、源九郎義経を名のった。九郎判官だ。義経人気のことをしきりに「判官贔屓」というのは、このときの名義に倣っている。
 治承四年(一一八〇)、清盛が後白河法皇を幽閉して院政を一時停止させたことをきっかけに、以仁王の平家追討の令旨が出て、頼朝が伊豆で挙兵した。このことを聞き知った義経は、ずっと会いたかった兄と駿河の黄瀬川に初めて対面した。兄弟は互いに手をとりあって源氏の武運と平家打倒を誓いあっている。
 頼朝は侍所を開設して、ここに義経を配した。頼朝は累代の家人や広大な所領などもっていなかった男だ。直属の武力基盤もなかった。ただ源氏の嫡流という貴種性によって坂東武士団の“主君”に推戴されているにすぎない。もし頼朝が天下に君臨したいなら、ここで坂東武者とは明確な一線を引き、自分をかれらの容喙を許さない超越者に仕立てあげなくてはならない。それには、どんな武士団連合をも自分の下知に無条件で応じる政治システムに組織替えし、武士の一人一人を御家人として従属させることをめざす必要があった。それは弟の義経でも例外ではなかった。
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黄瀬川陣(安田靫彦画/部分・東京都国立近代美術館蔵)
兄頼朝挙兵の報に接した義経は奥州藤原氏の元から急ぎ参陣。
富士川合戦の翌日、黄瀬川にて感激の対面を果たした。
13才歳の離れた兄弟はこれが初対面だった。
2人は心を合わせて打倒平氏の誓いを新たにする。
 義経は初陣で、征夷大将軍を名のったばかりの木曽義仲を宇治・勢多に追いかけた。当時の義仲は“朝日将軍”といわれるほどの勢いだった。しかし義経はなんなく豪猛で鳴る義仲を近江の粟津で討って、そのあと初めて入京した。
 元暦一年(一一八四)、頼朝に平家追討の命がくだると、今度は義経は六兄の範頼とともに西国の福原に向かったが、平家はここを脱出していたため、一ノ谷で「鵯越えの逆落とし」などの奇略を敢行して平家軍をもののみごとに破ると、屋島に逃れた一門をさらに追撃した。その途中、後白河院から左衛門少尉および検非違使に命ぜられ、さらに従五位、大夫判官へと順調に昇進していくのだが、これが兄頼朝の勘気にふれた。
 それまで頼朝は以仁王の平家追討の令旨によって動いていたにすぎない。この令旨は頼朝だけに与えられたのではなく、誰もが挙兵することができた。これではいくら頼朝軍が勝とうとも天下の中心には近づけない。朝廷からのオーダーこそが必要だ。当時の権力者は後白河法皇である。だから、その宣旨を入手したかった。それなのに義経は後白河法皇に近づいて、ちゃらちゃらしている。これが気にくわない。頼朝は頼朝で鎌倉に公文所・問注所を開いて、次の手を準備する。
 文治一年(一一八五)、平家は壇ノ浦に沈んだが、都での義経の評判の高揚や人気にくらべ、その勝利は関係者たちにはまったくよろこばれなかった。梶原景時の讒訴が迎え、頼朝からは勘当された。
 平家滅亡が三月二四日で頼朝の勘当の達しが五月四日だから、わずか一ヵ月あまりで義経は嫌われたわけだ。そこでともかくは兄のいる鎌倉に行こうとするのだが、その手前の腰越で差し止められた。このとき江ノ島近くの満福寺で書いたのが有名な「腰越状」で、大江広元に兄へのとりなしを頼んだ手紙だ。のちの寺子屋で手習いにされるほどの名文と書風だが、弁慶が下書きしたとも伝わっている。
 腰越状に対する頼朝の返事は「そのまま京都に帰れ」というもので、冷たい。のみならず所領二四ヵ所を没収した。ここに至って義経は兄との対決もやむないと感じ、叔父の源行家らとともにあらためて後白河法皇に接近し、頼朝追討の院宣を獲得する。これでもう引き返しはなくなった。
 頼朝も土佐坊昌俊に義経が依拠する堀川を襲撃させ、これが失敗すると、ついでは大軍を率いて義経を討ちにかかった。なんとか九州惣地頭に補任をもらった義経はたまらず西国に向かうのだが、十一月六日、大物浦で出帆したのち、嵐のなかで和泉の浦に漂着したという噂をのこしたまま、消息を絶った。六日後、今度は頼朝が義経追討の院宣を得るものの、義経の行方は杳としてわからない。吉野山にいるらしいということになり、そこを襲うのだけれど、捕まったのは静御前だけだった。歌舞伎『義経千本桜』はこのときの出来事を題材にした。
 こうして義経の逃避行が始まっていく。そこには『勧進帳』に名高い安宅ルートなどもふくまれるのだろうが、そしてそれが能や歌舞伎にもなっていくのだが、史実はどれもこれもはっきりしない。ともかくも文治三年二月、義経は奥州平泉の藤原秀衡の御所に辿り着いたのである。
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腰越状(末尾・満福寺蔵)
父の仇である平氏を見事に討ち滅ぼした義経だが、
兄頼朝の疑心を買ってしまう。義経が自分には異心が
ないことを訴えたのが腰越状。左下に義経の名がみえる。
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大物浦難船(中尊寺蔵)
再起を期すために大物浦から西国を指して出航した義経一行だったが、大嵐に遭遇して難船する。平知盛の亡霊が大風を起こしたとも伝えられている。
 秀衡の庇護のもと、義経は藤原基成の衣川館に入った。その挙動のいっさいは伏せられていたが、平泉に義経がいるらしいという情報は、まもなく頼朝の耳に入る。さっそく後白河法皇に奏申して義経追捕を命じる使者を平泉に送った。ところが秀衡はこれをにべなく断った。
 秀衡には奥州政権を確立したいという意志が逬っていた。しかし、これこそ頼朝が虎視眈々と待っていたことなのだ。義経には追捕の命令が出ているのだから、義経を匿えば国家的犯罪になる。秀衡はその禁を犯した。頼朝はまんまと「北の王者」を討つ名分を得た。もっとも奥州攻めとなれば、事態は大掛かりになる。まずは征夷大将軍の名義を求め、万策を練ることにした。
 そこへ秀衡の病死が伝わってきた。文治三年(一一八七)十月末だ。義経は最大の後ろ盾を失った。頼朝にチャンスがおとずれた。藤原基成と四代泰衡に義経の討伐を命じた。ぐずぐずしていた泰衡はそれでも文治五年四月になって、衣川を襲った。義経は持仏堂に籠もって応戦したが、もはやこれまでと自害して果てた。時にわずか三一歳だ。
 義経の死が奥州藤原四代の最期である。以降、日本は幕府をセンターとする「武者の世」となり、源氏、北条氏、足利氏をへて徳川一族による幕藩体制に進んでいく。
 義経の一生は十二世紀後半にはまる。武家政権が生まれようとする日本の転換期であるが、この時期は東アジアの転換期でもあった。その話に入ろう。
 義経が生まれた一一五九年ちょうど、日本からざっと二〇〇〇キロほど離れた中国の一隅で陳淳という男が生まれた。陳淳は義経が非業の最期をとげた翌年の一一九〇年に朱子(朱熹)と出会い、その後は朱子に師事してさまざまな問答を重ねることになった。その問答は全一四〇巻の『朱子語類』となり、陳淳が直接の弟子とかわした問答は『北渓字義』となった。義経の時代とは東アジアでは朱子学(宋学)が確立していった時期なのである。
 陳淳が生まれたのは中国暦では紹興二九年だ。高宗が即位して二九年がたっていた。高宗は南宋の初代皇帝であるが、宋の皇帝としては開国以来の十代目にあたる。父親は風流天子として名高い徽宗皇帝で八代目、徽宗は自由に書画を遊んでいたのだが、兄の哲宗が病死して急遽皇帝となり、蔡京というブレーンと国政にあたらざるをえなくなった。そこに難問が出現してしまったのである。
 そもそも「宋」という国は、その当初から「燕雲十六州問題」をかかえていた。このことがわからないと義経の時代の東アジアはわからない。
 十世紀はじめに唐帝国が倒れた。北中国に五つの短命な王朝が続いた。「五代」(五代十国)という。そのひとつの「晋」は、建国のために北方の「契丹」の援軍を必要とした。その代償として今日の北京や大同などの一帯を契丹に割譲することにした。これが燕雲十六州である。契丹はやがて「遼」という国名になった。
 宋は割譲後も燕雲十六州を自分たちの領土だと主張したが、遼には強大な軍事力があったので宋からの対応策がなく、十一世紀になると講和条約を結んで遼による十六州占拠を認めることにした。その一方、宋の中で発行する地図には十六州は宋の領土だと示した。まるで今日の日本における北方領土や竹島だ。
 そんな宋と遼の関係に転機がおとずれたのが徽宗時代である。遼のさらに北方にいた女真が「金」という国を建て、宋とのアライアンスを求めてきた。徽宗と蔡京は、よしよしこれなら金と組んで遼を挟み撃ちにできると思った。これが失敗だった。宋は遼に負けつづけ、金は遼に勝ちつづけた。おまけに宋と金が遼の領土分割の交渉に入ると、金は有利な条件を引き出すために宋の本土に侵攻して都の開封を包囲し、徽宗は退位、蔡京は処刑されてしまった。
 こうして九代欽宗皇帝が継ぎ、その欽宗が金によって北方に拉致されるという「靖康の変」がおこると、十代皇帝の高宗が即位した。高宗は金とのあいだに平和友好条約を結び、二十年に及んだ交戦状態に終止符を打った。それがさらに二十年ほどたつと、金の側から一方的に条約を破棄してきた。紹興三一年(一一六一)のことで、義経が常盤と離されて鞍馬山に入るころだ。たちまち宋は混乱し、都の臨安(いまの杭州)は恐慌状態になり、金もここぞと襲いかかろうとしたのだが、虞允文という前線司令官が踏んばって長江南岸の采石磯というところで金を食い止めた。
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10~12世紀の東アジア
(棚橋光男『王朝の社会』小学館、より)
 南宋は生き延びた。このことを日本から見るとどうなるかというと、清盛は金と日金貿易をしないですみ、日宋貿易に集中できたということになる。
 清盛の日宋貿易によって、日本には宋銭が大量に流入して「銭の病」がおこった。あぶく銭やダーティマネーが出回ったのである。相手国の通貨が一方的に流入してきたということは貿易黒字が出たということだ。一九八〇年代の日米関係もそうだった。ドルが日本に入ってきて日本は貿易黒字、アメリカには貿易赤字が積み上がっていった。おかげで手ひどいジャパン・バッシングを食らった。ただし、現代では自動車をはじめとするさまざまな製品が交易されるのだが、当時はまったく別の交易品が流れた。日本は何を中国に売っていたかというと、金を売ったのだ。
 中国では北方では金が産出するが、南では採れない。もしも清盛の交易の相手が女真の金王朝であったならば、日本は貿易黒字はもてなかった、宋が相手だからこそ金が売れたのである。徽宗の失敗は東アジア社会にとって大きな転換だったという意味が、ここにある。
 その金が日本のどこから清盛のところに届いたのかというと、奥州からやってきた。藤原氏が調達していた。清盛はこれを宋に流すために西国福原の大輪田泊をつくって拠点にし、そこから奥州産出の黄金を動かしたわけである。
 奥州藤原氏のほうはどうしたかというと、一方で清盛経由で宋を交易相手にしつつ、実際には他方で北方の遼や金を相手にしていた。清衡・基衡・秀衡は北方交易の王者である。これは何を意味するかといえば、奥州藤原氏は京の朝廷や福原の清盛政権に頼らずとも、独自の北方交易で奥州政権をそれなりに維持できたということだ。だからいまさら清盛の方針に従う必要はない。
 ここに、もうひとつの“東アジアの義経”の意味が隠れている。清盛政権から源氏の政権に時代が移るとき、源氏の棟梁の頼朝にとってはこのままではぐあいが悪かったのだ。まして義経が奥州にいるということは、新たに政権を動かそうとしていた頼朝にとっては、もっとまずい。頼朝が清盛同様の新朝廷型の内政や外交や交易をするつもりだったのならそれでもいいのだが、頼朝はまったくそんなことは考えていない。
 頼朝は複合的な武士団の力を背景に「御恩と奉公」を誓う御家人を集め、従来のシステムとは異なる「幕府」というものをつくろうとしていた。そのために征夷大将軍になろうとしていた(のちになった)。それなのに、弟の義経が奥州と組んでしまったのだ。これでは頼朝は平泉政権とともに義経を叩くしかない。そういうことになる。
 本書の著者の小島毅は、平家と源氏の対立をはなはだ斬新な視点でとらえている。それは「開国か、鎖国か」という視点だ。平家は開国を狙い、源氏は結局は鎖国的だったというのだ。
 そもそも清盛と頼朝の関係は「武の家」どうしの闘いであったとともに、大きくは東日本(東国)と西日本(西国)の覇権争いでもあった。しかしそれとともに同じ源氏の棟梁においても、その方針が開国に向いているか、鎖国に向いているかということによって、骨肉を分けた者のあいだで熾烈な闘いを演じたのであった。頼朝が義経を無慈悲に屠ったのは、“奥州義経”が清衡以来の開国性に富んでいたからだったのだ。
 その後に三代実朝が鎌倉八幡宮の大銀杏の下で殺されたのも、そういう事情によっていたと小島は見ている。実朝はなぜ殺されたのか。宋に心酔しすぎていたからだった。鎌倉幕府はそういう実朝を早々に抹殺することによって、いわば「関東農本主義」を基軸にした新たな「日本一国主義」の確立を急いだのだ。
 この見方はかなり大胆である。はたしてそこまで踏みこんで言えるのか心配だが、しかし小島からすれば、それほどに東アジアにおける宋の役割が日本の十二世紀と十三世紀に大きくのしかかっている、そこに義経の抹殺も含まれていたと言いたいわけなのである。
 唐から金をへて宋へ、平家から源氏をへて北条氏へ。ここに東アジアにおける「武家政権」の出現というローカル・スコープが立ち上がったのである。
【参考情報】
(1)小島毅の著書については上記に紹介しておいたので(『近世日本の陽明学』は必読書)、ここでは義経まわりの参考図書をあげておく。
 学界的にセンセーショナルだったのは保立道久の『義経の登場』(NHKブックス)で、その関連では元木泰雄の『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)、奥富敬之の『新・中世王権論』(新人物往来社)、菅野覚明『よみがえる武士道』(PHP研究所)などが新しくて、わかりやすい。東アジアを背景に見るには村井章介の『東アジアのなかの日本文化』(放送大学テキスト)あたりがどうか。武家とは何かということでは、野口実の『武家の棟梁の条件』(中公新書)をどうしても読む必要がある。
 むろん義経をめぐってはいろいろな本がこれまでしこたま出ているが、もともとは『義経記』(平凡社・東洋文庫)が下敷きである。これに『平治物語』や『吾妻鏡』が加わる。が、これらは史実にもとづいているとはいえない。そのためさまざまな空想が生じてきたのだが、それを勘案して新たな歴史的義経像を描いたという点では、いまならばまずは五味文彦の『源義経』(岩波新書)か、奥富敬之の『義経の悲劇』(角川選書)か、上横手雅敬の『源義経・源平内乱と英雄の実像』(平凡社ライブラリー)かだろう。ごくごく入門的にはいろいろあるものの、きっと『図説源義経』(河出書房ふくろうの本)が便利だろう。
 ちなみにぼくは、偕成社の子供向け伝記本をべつとすると、古くは角川源義・高田実の『源義経』(いまは講談社学術文庫)などをたのしんだ。司馬遼太郎の『義経』(文春文庫)はつまらなかった。
(2)本書『義経の東アジア』をとりあげたのは、これまでの一連の「蝦夷→古代東北問題→奥州藤原氏の意味→平泉の役割」という流れの頂点を示すためで、ぼくとしてはこれでいったん「番外録」をもとの「連環篇」に戻して、長らくほうっておいたアジア・ユーラシア遊牧民から唐や宋やイスラム諸国をへてモンゴル帝国に及ぶ歴史の案内にとりくみたいと思っている。そこで今夜は「東北」と「アジア」を結節するために本書をもってきたのだった。
 もっとも「番外録」はこれからもときどき挟もうと思っている。とくに原発問題についてはあまり突っ込んでとりあげてこなかったので、今後の事態の推移に応じてとりあげたい。すでにぼくの手元には100冊近い原発系の本が積み上がっている。
(3)東北問題については、実は鎌倉幕府以降の大きな出来事としてとりあげなければいないと思っていることがある。それは「津軽安藤氏」の問題だ。十三湊(とさみなと)を根拠に安藤太郎が「日の本将軍」を名のったのだ。すこぶる興味深い。うまく千夜千冊の流れがつけばいずれ拾いたい。けれども、もしそうならなかったら、ぜひとも小口雅史編の『津軽安藤氏と北方世界』(河出書房新社)を読んでほしい。この一冊に極まっている。
平泉の文化遺産を学ぶ
古都平泉の文化遺産言い伝えられた平泉 岩手県立平泉世界遺産
平泉は、後世の人々にさまざまなイメージを与えた。文学では、芭蕉、田山花袋、宮沢賢治の作品が著名である。おそらく、過去の栄光と現在との落差が、格好の題材を提供しているものであろう。
平泉は、実態以上の存在感を有しているのかもしれない。後世における平泉伝説を、「奥州藤原氏」、「源義経」、「黄金伝説」の観点で紹介。
すでに中世東北地方において、奥州藤原氏=平泉は、この地方における武士団統合の象徴的役割を担いながら、支配の正当性を示す根拠として用いられている。戦国期の覇者である伊達氏は、伝承としての「事実」に過ぎない奥州藤原氏との系譜関係によって、奥州支配の正当性を説明する。
また、「余目氏旧記」では、奥州政治の中心地としての平泉の重要性が伝えられている。また、近世弘前藩津軽氏の始祖が、秀衡の弟として伝えられていることは、北奥においても同様の思想が伝承していることを示している。藤原氏を遡る安倍氏の系譜もまた、津軽安東氏の祖とされることで、安倍から藤原への系譜が奥州武士団の本流と考えられていたといえるだろう。
源義経は、日本史上もっとも著名な人物の一人である。その伝説について、「吾妻鏡」など同時代の一級史料にはほとんど記述がない。その後、時代が下るにつれて物語が再生産されて、伝説が形成されていく。
義経は二度平泉に居住している。とりわけ藤原秀衡の信望厚く、一族の統率者としての期待までかけられた。しかし、泰衡の攻撃を受け、衣川館において自害したと考えられている。
その伝承地は、現在、高館と呼ばれている観光スポットとなっている。一方「義経記」で完成の域に達した伝説は、中世後半には蝦夷島へ渡る新たな伝説へと発展した。
江戸時代には「続本朝通鑑」など権威ある史書においてさえ、義経が平泉を脱出して北海道で生き延びたという説が紹介されるようになる(ただし仙台藩医相原友直は、この説を明確に否定している)。さらに高じて、明治時代半ばにはついに義経=チンギスハン説が唱えられる。

このチンギスハン説は、学問的にはほどなく否定されたものの、伝説として今日に生き続け、義経北伝ルートとして観光地化されている。悲劇のヒーローと「平泉」という神秘的な舞台が合致した結果であろうか。
マルコ・ポーロの「東方見聞録」中の、「国王の一大宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ている」という一節は、かつて金色堂について述べたものと解釈されていた。金色堂以外にも、諸仏像、紺紙金銀字交書一切経などが今日に伝わり、諸記録の記載と合わせて奥州藤原氏の経済基盤のひとつが金(砂金)であったことは疑う余地がない。近年の平泉町内の発掘調査においても、微量ながら金が出土している。
金売吉次に関する伝説は、平泉と京都の間の金売買ブローカーの存在を示唆している。柳田国男によれば、吉次伝説は炭焼長者伝説と東日本ほど深く関連が認められるという。

平泉周辺では、金鶏山南方に吉次の墓及び五輪塔が所在するほか、岩手県指定史跡長者原廃寺は、吉次の屋敷跡との伝承がある。
江戸時代には、基衡が金鶏山に黄金の鶏を埋めたことや秀衡が黄金を隠匿したことが伝承されている。実際、1759(宝暦9)年にはこの山頂付近から金の入った壺が出土したと記録され、1935(昭和10)年には経塚が出土した。
このように、後世さまざまな立場から平泉に関係する伝説伝承が形成されている。それらは事実をはるかに超えたものであるが、後の歴史への平泉文化や奥州藤原氏の影響力が小さくないことを示している。

平泉古図
弁慶の墓
源義経

十三湊伝説の交易港 十三湊(青森県市浦村)
鞍馬寺義経成長の場所 鞍馬寺(京都市)
義経寺義経北行伝説「義経寺」(青森県三厩村)
義経北行伝説

1689(元禄2)年芭蕉がこの地を訪れ、その過去の栄耀との落差を格調高い文学として昇華させたのは、奥州藤原氏滅亡後ちょうど500年を経たときである。
その後も、平泉は文学の題材として格好の情景を提供する。田山花袋の感じた「日本では一番廃都らしい気分の完全に残っているところであった」(山行水行)や、宮沢賢治の詠む「中尊寺」の中から、『吾妻鏡』寺塔已下注文に伝える往年の平泉の姿を想像することは困難である。
後世の人々は、平泉・奥州藤原氏について各方面にわたり多様なイメージを生み出している。実在としての平泉は100年あまりの栄華を伝えるに止まるが、逆にそのことが後世の平泉像を極端に大きく膨らませていると考えることができよう。ここでは、それらの中から平泉像形成に大きな役割を持ったと考えられる、「奥州藤原氏」、「源義経」、「黄金文化」について概略を紹介する。
最初の主題は、中世東北地方において伝説化した奥州藤原氏=平泉の歴史的役割とも言うべきもので、小林清治、入間田宣夫ほかによって論じられている。
この時期の東北地方において、「奥州藤原氏」は支配の正当性を示す根拠として用いられ、また、武士団統合の象徴的役割を担わされていたようである。戦国期南奥の覇者である伊達氏は、事実として考えられている鎌倉幕府との主従関係よりも、伝承としての「事実」に過ぎない奥州藤原氏との系譜関係をもって奥州支配の正当性を説明する。
伊達家臣留守氏の一族余目氏に伝わる「余目氏旧記」は、単に血統のみではなく、仁徳天皇以来の奥州政治の中心地としての平泉の重要性を伝え、14~15世紀の東北地方に広がる「平泉伝説」を裏付けている。
また、近世弘前藩津軽氏の始祖「秀栄」が「秀衡」の弟としてつながれていることは、北奥においても同様の意識下にあったことが示されるものであるとされる。
すでに滅亡した奥州藤原氏、往時の勢いを失った平泉について描かれたイメージには、支配を正当化する根拠としての役割があったといえよう。
藤原氏を遡り安倍氏の系譜もまた同様の傾向があり、13世紀の北奥で繁栄を見る津軽安東氏は、伝えられるその最も著名な後裔である。安倍氏に関わる地名や伝承が数多いのも、安倍→藤原と連なる奥州武士団の「本流」が、15世紀後半までかなりの程度意識されていたことの証明として考えられている。後年、歴代の仙台藩主が、平泉諸寺院に対して復興の手を差し延べているのも、このような背景が強く作用しているものであろう。
源義経は、日本の歴史上最も著名な人物のひとりである。皮肉にも、平泉においてさえ藤原氏以上に有名であるといえるかもしれない。その伝説の形成については、高橋富雄、豊田武らによって詳細に論じられている。
義経について、『吾妻鏡』・『玉葉』など同時代の一級史料では、わずかな記事があるにすぎない。しかし、13世紀以降の『平家物語』・『源平盛衰記』、14世紀以降の『義経記』など時代が下るにつれて物語が物語を生み、その内容が増幅されて「義経伝説」が形成されていく。能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」の基礎をなすものである。
義経は、少年時代の数年間と、頼朝の追討から逃れるための最後の2年間の二度にわたり平泉に居住しているとされる。

秀衡には手厚く待遇され、その死に際しては藤原一族を統率するものとしての期待までかけられている。史実と考えられている義経の最期は、衣川館における自害である。現在、高館義経堂(『吾妻鏡』衣川館かどうかは不明)は、義経終焉の場所としての観光スポットとなっている。
一方で、『義経記』で完成の域に達した伝説は、中世後半には蝦夷島へ渡る新たな伝説へと発展した。17世紀以降、『鎌倉実記』等通俗的歴史書中では義経生存説が通説化し、『続本朝通鑑』や『読史世論』のような権威ある史書においてさえ、平泉を脱出した義経が北海道で生き延びた、という話題が取り上げられるようになる。もっとも、相原友直は『平泉実記』(1745)中で義経生存説を明確に否定している。

しかし、義経生存説の伸張は止まるところを知らず、1885(明治18)年、ついに義経=チンギスハン説が広く紹介されるに至る。この説は学問的にはまもなく否定されたものの、伝説としては今日に生き続け、現在北奥各地に義経が平泉を落ち延びて蝦夷島にわたったルートが観光地化されている。このように伝説が再生産されているのは、義経が悲劇のヒーローであると同時に、「平泉」という舞台の神秘性にもその理由を求めることができるのではないだろうか。

「この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している」。マルコ・ポーロ「東方見聞録」(13世紀末)のこの一節は、日本列島における金の産出を中国大陸を越えてヨーロッパに知らしめることとなった。そして、「国王の一大宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ている」という箇所は、かつて金色堂について述べたものと解されたこともあった。
金色堂ばかりでなく、諸仏像や紺紙金銀字交書一切経、金銅華鬘など今日に伝わる文化財や、諸記録が伝えるところにより、奥州藤原氏の大きな経済基盤のひとつが金(砂金)であったことは疑う余地がない。
陸奥の産金は天平年間に遡り、近世に至るまで続いていくが、11世紀中葉以降には、浄土系寺院建立の盛行に伴い、金の需要が高まったものと考えられている。近年の柳之御所遺跡ほか平泉町内の発掘調査においても、微量でありながら金が出土している。
金商人「金売吉次」は、義経伝説の発展とともに「平治物語」以降の記録に登場する。この人物の実在は疑わしいとされているが、平泉と京都の間で金の売買等を仲介するブローカー的存在については異論がないようである。

また、柳田国男によれば、吉次伝説は炭焼により長者となっていく成金伝説と、東日本ほど深く関連するという。ここ平泉にも藤太伝説は存在し、平泉町金鶏山の南方にその墓及び五輪塔があると伝承されている。吉次の屋敷跡と伝えられる場所は全国に分布する。
そのひとつ、衣川左岸の吉次屋敷の伝承は近世には見えている(岩手県指定史跡 長者原廃寺跡)。この遺跡は、1958(昭和33)年板橋源らにより発掘調査が行われた。出土遺物から、11世紀代の寺院跡と考えられているが、詳細については検討がなされていない。
平泉市街域の西方に所在する標高60mの小規模な丘陵が、金鶏山と呼ばれている。18世紀半ばには「基衡黄金をもって鶏の雌雄を造り、此山の土中に築こめて、平泉を鎮護」し、「秀衡漆萬盃の内に、黄金億金を交へ土中に埋み隠し置く」などという伝承が成立している。
1935(昭和10)年、山頂付近より経塚が確認され、渥美壺・青銅製経筒が出土している。また、金鶏山の山麓付近東南方からは、1759(宝暦9)年耕作の最中、中に球状の金の入った壺が出土したことが記録されている(相原友直『平泉雑記』)。
このように、後世さまざまな立場から平泉に関係する伝説・伝承が形成されている。それらは、事実をはるかに超えたものであるが、後の歴史への平泉文化や奥州藤原氏の影響力が小さくないことを示している。個々の主題について、その系譜や思想等検討すべき課題は多いが、平泉文化研究にとって、単に史実の実証的な研究ばかりではなく、このような側面からの研究もまた大きな今日的重要性を持つと考えている。

続 義経と白拍子.2 ~

(この記事は以前ー掲載したもの)  2024/2/15


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