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武田徹 立花隆を語る

武田徹 立花隆が一生をかけて語ろうとしたこと。ジャーナリズムと宗教のあわいで

2023/6/26(月) 中央公論

 ジャーナリストとして幅広い分野で執筆し、『田中角栄研究 全記録』『宇宙からの帰還』『臨死体験』など、数々の名著を世に送り出した立花隆氏が亡くなって2年が過ぎた。科学技術やメディア論など立花氏と重なる領域でジャーナリスト・評論家として仕事をしてきた武田徹氏が、同じ道を追走する者ならではの視点で、彼の人生を掘り下げる。立花は「何を書き」「何を書かなかった」のか。両氏が共通して強い影響を受けた言語哲学者・ウィトゲンシュタインを導きの糸として立花氏の思考をたどる――。

立花を遠ざけてきた

 生前の立花隆と会ったことは二回しかない。そう書くと意外に感じる人もいるかもしれない。
 おまえは先端科学技術関係の紹介ものやジャーナリズム論など、立花と執筆領域が近かったではないか。だから、直接、教えを請うたこともあったのではないか。少なくとも会う機会は様々にあったのではないか、そう思う人もいるだろうか。
 現実はそうではなかった。立花に会えそうな場所、たとえば先端科学技術関係の記者発表会見や新聞社や出版社が主催する各種のイベントに出掛けることが少なかったのは、もっぱら筆者生来の出不精のせいだったが、立花に会いたくないと思う気持ちが正直あった。
 なぜ、遠ざけていたのか。それはまず処世術的な理由だった。物書きの一人として、立花の後に道は残らないと感じていた。とても人気のある書き手なので、立花が選んだテーマには注目が集まる。そのテーマを追求してゆくプロセスで、立花は活字媒体だけでなく、テレビなど放送メディアまで総動員して取材を展開するので、そのテーマは「立花さんがやっていましたね」と言われるものになる。二番煎じ呼ばわりを避けるには、立花の後は追わないほうが得策だと思った。
 もうひとつ、立花の後を追いたくないとも考えた理由はスタイルの問題である。スタイルといっても姿格好の話ではなく、文体のことだ。
 立花の書く文章は平易だ。事実の列記が文章の多くを占め、彼自身が言いたかったことも明解に伝わってくる。誤解されることの少ない文章であり、事実を伝えることがジャーナリズムの使命だと考えれば、理想に近いものだとさえ評価できる。だが、筆者はそこに不足があるように感じてきた。
 ジャーナリストとはいえ、言葉で表現する以上、言葉で作品を作っている。事実と意見を伝えるジャーナリズムの作品であっても、言葉の作品としてオリジナルな個性が伴うべきではないかと筆者は考えた。その点、立花は間違いなく不世出のジャーナリストだが、言葉を道具として使う表現者であって、言葉そのもので表現する表現者ではないと筆者は思った。だから彼の作品を読んで、そこに描かれている世界は伝わってくるが、彼の言葉自体が意識に残ることはない。自分は、そうではなく、言語表現としても自立して成立する作品を目指したいと思った。
 一度目の出会い こうして損をしないために同じテーマを扱わないという、どちらかというと身過ぎ世過ぎ的な判断に加え、スタイルとしてもその影響を受けたくないという思いから、筆者は立花と会うのをなかば意図的に避けていたように思う。それゆえ、冒頭に書いた二回の出会いは、それでも避けきれずに起きた出合い頭の事故のようなものだった。
 一度目は、2008年12月13日に東京大学大学院情報学環が読売新聞社と共催したシンポジウム「情報の海~漕ぎ出す船~」において。登壇者としてステージで同席した。
 立花はインターネットによってアメリカの名門新聞が廃刊になった話をしていた。1990年代後半に東京大学先端科学技術研究センターの客員教授になった立花は、理系を含む総合研究系大学ならではの優れたインターネット環境が一般社会より早く得られたこともあったのだろう、ネットに夢中になった。その後、彼が書く記事には素朴なネット礼賛が散見するようになっていた。それに対して、案の定というか、安易なネット論に対して疑問が投げかけられる機会が増え、その後、封印が解かれたように立花批判書が刊行されている。
 そのシンポジウムは、そうした批判の嵐を通り抜けた時期で、所属は東大情報学環の特任教授に変わっていたが、立花は老舗新聞社の閉鎖など現象面を取り上げ、インターネット環境によって激変するジャーナリズムについて語っていた。メディア技術が社会を変えると因果関係を簡単に決めつけている印象があり、あれだけ批判に曝されてもこの人は変われないのかと同じシンポジウムのテーブルについて感じた。
 そして、この変われないところこそ、立花が変わってしまった大きなポイントなのだと筆者は感じていた。
 たとえば『田中角栄研究』は筆者が中学生だった頃の仕事で、その後、角栄が辞任すると、我が家でも、通っていた中学校でも話題沸騰で、『文藝春秋』の本文までは読んでいなかった中学生にも、何がそこで報じられているのかはわかった。その後、ロッキード事件ウォッチャーとして、テレビでももじゃもじゃの髪型の男性がコメントしている姿がよく見られた。立花は最前線で身体を張って仕事をしているジャーナリストなのだと感じてきた。以後の仕事でも、強引に移植医療を進めようとする医療界に真っ向から論争を挑んだ『脳死』や、未開拓の領域に挑む人間が経験する意識の変容という、誰もが扱ったことのないテーマにアプローチする『宇宙からの帰還』の果敢さも印象的だった。こうしてメディア経由で知る立花は巨悪へ立ち向かい、新分野を開拓する精力的なジャーナリスト・評論家だった。
 だが、シンポジウムの場で会った立花には、かつての覇気が感じられなかった。東大に務め始めた後、それまでの仕事の流れに学生を巻き込んだ活動が加わり、立花は多産な時期を迎えていたが、2007年に検査で膀胱にがんが発見され、手術を経験している。シンポジウムは受診から手術まで無事終わっていた時期の開催だったが、やはり気落ちする面もあったのかもしれない。そこは同情に値するが、批判を受けて立って、更に高みを目指そうとして自己革新を重ねる姿勢を示さない立花は、過去とはだいぶ変わってしまった印象を感じた。
 神保町で見かけた 二度目に会ったのは地下鉄の神保町駅で、だった。会ったというのは不正確で、こちらが一方的に目撃したのだ。神保町の書店街で買ったのだろうか、本を大量に買い込んで入れた紙袋を持っており、読書欲(書籍購買欲?)は相変わらず旺盛らしかったが、大きな紙袋を持つのもたいへんそうで、顔つきも見るからに弱々しかった。
 その姿を見て、動揺する気持ちが起こった。戦後日本のジャーナリズム史に燦然と輝く偉大な業績を幾つも残してきた立花が、その活動に幕を引く時期がそう遠くなく訪れる。そう思い知って、ジャーナリストとして立花が生きてきた時間がどのようなものであったのかが改めて気になった。そして、後を追わないと決めていた時点で、読むのを止めていた、自分自身の過去を立花が語る本に、遅ればせながら手を伸ばしていた。
 たとえば『ぼくはこんな本を読んできた』を読んで、筆者は驚きを禁じえなかった。読書歴を通じて立花が自身の人生を振り返る内容に、筆者自身の過去の経験と重なる部分があまりにも多くあり、筆者の興味関心と響き合う内容が本当に次々と見つかったからだ。
 筆者も立花と同じく小さい頃から同じように本の虫だった。キリスト教とつかず離れずの生活をしてきたのも同じ、古今東西の思想に触れようと大学時代に様々な言語を習得しようとしていたのも同じだった。
 ウィトゲンシュタインの影響 極め付きはウィトゲンシュタインとの出会いだ。決定的な影響を受けたと立花が公言している哲学者ウィトゲンシュタインは、大学時代の私にとっても大きな存在だったし、立花がウィトゲンシュタインを理解するために学んだとしばしば語っている数学基礎論、記号論理学を自分もサブメジャー(副専攻)のつもりで授業を履修し、学んだ。立花と近かったのは物書き業を始めてからの仕事の領域だけでなく、実は生い立ちや興味関心も実によく似ていたのだ。
 ただ、悔しいことに筆者の方が常にスケールが小さい。小さい頃から読書好きは共通しているが、比較的早くから古典文学への志向を失っていた筆者は、立花のように世界の文学全集をむさぼり読んではいない。キリスト教とつかず離れずと言っても、熱心なクリスチャンだった両親と一生かけて対決するように生きた立花と違って、筆者が生まれ育ったのは、葬式になって自分の宗派を思い出すような日本に典型的な仏教系の家で、宗教的な葛藤を経験したことはほぼない。
 ただ、洗礼こそ受けていないが、ミッション系の中学高校で学んで、牧師にオルガンを習ったという腕前を披露して賛美歌をピアノで弾いてみせてくれるような父親の影響で、近所の子供より多少多めにキリスト教の文化や風俗に触れて育った。そのせいか、キリスト教系の大学に進むことにも躊躇がなかったし、キリスト教を始めとする西洋の宗教や思想についても大学で本格的に学びたいとも思っていた。
 そのために英、仏、独語だけでなくラテン語、ヘブライ語にも手を出したが、「ギリシャ語でプラトンを読み、ラテン語でトマス・アクイナスを読」んだと豪語する立花と違って、古典語は殆ど身につかずに終わってしまった。母校に職を得て研究を続けるにはクリスチャンになることが条件だったので、大学院進学後、洗礼を受けるかどうか悩んだ時期もあったが、今にして思えば研究者としての資質もおぼつかないのに未来を妄想して勝手に悩んでいたのであり、青春期の熱病のようなものだった。
 こうして立花の知的遍歴を見た上で、我が人生を振り返ってみると、立花を避けて、あえて違う道を行こうとしていたと冒頭で書いたが、とんでもない、実は同じ道を後から追いかけている。筆者はまるで立花の縮小劣化コピーのようだった。
 感化された一節 だが、スケールは小さくとも同じ道を通ってきたがゆえに理解できることもあるはずだ。そう期待できるひとつが、先にも触れたウィトゲンシュタインへの愛着とその影響についてである。
 恥ずかしながら告白すると筆者は高校時代に拙い詩を書いていた。その時、詩の言葉はなぜ魅力的なのか、なぜその魅力は詩の言葉をほかの言葉で説明すると、粉雪が道路の濡れたアスファルトの上で溶けるように消え去ってしまうのか。そんな詩の不思議が気になり、大学進学後、卒業論文、修士論文とそのことを隠しテーマとして言語哲学の研究を続けてきた。その際に常に意識してきたのが、1922年にウィトゲンシュタインが刊行した『論理哲学論考(以下、論考と略す)』だった。
「論考」は特殊なスタイルで書かれている。まず1から7まで番号を振って一つずつ命題を示してゆき、1についてのコメントであれば1.1、それにまたコメントが必要ならば1.11、さらに1.111...と小数点以下を追加してゆくかたちで短い文章を並べてゆく。結果として1から6まではコメントが、次々に枝を広げてゆく樹を逆立ちさせたように続いて結構なボリュームとなっている。だが、7だけはたったひとつの命題で構成されている。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(1)
 しばしばひかれる一節ゆえに、というか、もはや西洋哲学史上もっとも有名な一節といえるかもしれないが、聞いたことがある人も多いだろう。筆者にとってそれは詩に向き合う姿勢を、戒めを含めて語る言葉だと思えた。詩の魅力を幾多もの言葉を連ねて説明してゆくことで腹落ちすること、「理解できた」と思えることはあるだろう。しかし、それは詩の魅力そのものに触れることでは断じてない。詩の魅力そのものは語り得ず、沈黙の中で、ただ詩の言葉が自らの存在と引き換えにそこに示したものを「了解」するしかない。
 こうして「説明可能なもの」と、「説明不可能なもの」を正しく二分しようとするウィトゲンシュタインの姿勢は、筆者と同じように立花を捉えたのではなかったか。立花が一生を捧げたもの 筆者が詩に惹かれていたのは高校時代からだが、実は立花も大学時代に詩作を試みている。本書ではいくつかの習作を発掘しているので読者自身がその出来ばえを確かめてほしいが、彼が本格的な現代詩を目指していたことは疑いえない。
 立花が詩人でもあったという事実は筆者には意外だった。先にも書いたように筆者は立花の文章に記憶に残る存在感が欠けていると感じていた。そこに「詩」の名残はまったくなかった。現職総理大臣を辞職に追い込んだ『田中角栄研究――その金脈と人脈』で本格的な調査報道を実践したジャーナリストとしての社会的名声を得た後、脳死や臨死体験など、いわゆる政治経済系ジャーナリストの選ばないものにまでテーマを広げたが、それらの作品の文章は、「詩」の対極に位置づけられる文体、つまり事実を端的に示し、主張を明確に、誤解なきように示す散文で綴られていることで一貫している。
 そうした文体の一貫性を貫く縦糸として、ウィトゲンシュタインの冒頭の言葉があったのではないか。世界には語り得ないのに、誤って語られてしまっているものがある。その一方で、語り得るのに、いまだ語られていないものがある。ウィトゲンシュタインが『論考』で示した二分法に基づいて、もう一度、語り得ることと語り得ないことの境界線を引き直すこと。立花は一生をかけてその作業をしたのではなかったか――。それが本書の仮説である。
 ウィトゲンシュタインの『論考』の一節は筆者などよりも、遥かに強く、深く、立花を感化していたのかもしれない。だから一度は詩人たろうとした立花は、語り得ない領域に触れる詩の言葉を弄ぶことを自らに禁じ、その自制の強さが彼に平易で読みやすいジャーナリズムの文体を選ばせた。そして、その文体こそが政治権力の闇を掘り起こし、生死の境界線を縦横無尽に探る武器となったのであり、古代文明から最先端の科学技術に至るまで多岐に及ぶ領域で調査と報道の仕事に携わって国民的ノンフィクション作家・評論家としての地位を確立させたのではなかったか。
 そうした仮説の下に、没後に評伝を記すにあたって立花が何をどのように語り、何をどのように語り得なかったのかを明らかにしてみたい。それが宗教と格闘し、一度は詩人でもあろうとしたジャーナリスト・立花隆の人生の軌跡を整合的に示す方法になるのだと信じている。
 そして立花もまた、語り得ないものを語ろうとして沈黙を破る禁を犯したこともあったろう。「詩」はかたちを変えて彼の仕事の中に実は紛れ込んでいる。その度合は晩年に至って増えてゆくように感じる。そのせいで逆に語り得るものを語りきれずに課題を残してしまったこともあったのではないか。後からゆくからこそ、先行者の迷いながらの足跡を辿り直せる面もあるだろう。そうして、これまで論じられることのなかった立花像を浮かび上がらせたいと思う。
(1) 刊行のタイミングから立花隆の二度目の東大時代(1967年~69年)に目を通すことができた唯一の邦訳である藤本隆志、坂井秀寿訳(『論理哲学論考』法政大学出版局1968)を用いた。

武田徹


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