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十二世紀ルネサンス

これは技術論か科学論か、いやもっと違った感情論の紀元前より説かれた、論語、孔子の死後に弟子が記録した書物の儒教の経典である経書の一つ、朱子学における「四書」の一つとか、 その内容の簡潔さから儒教入門書として見聞した中国の歴史とか、それともギリシア、ローマ時代からの哲学論か、もっと身近に云って、月額サブスク定額論か、もっと云ったら無税論に近い「ベーシックインカム」を積極的に推進した子育て支援とか、諸説が思い浮かびますが、それらがYouTubeの中で語る、ハイテンション語彙は、力説するほどに、むなしくひびき渡るのは、こちらがさっぱり無関心だからなんででしよう。

史記

司馬遷『史記』
班固『漢書』
范曄『後漢書』
陳寿『三国志』
房玄齢等『晋書』
沈約『宋書』
蕭子顕『南斉書』
姚思廉『梁書』
姚思廉『陳書』
魏収『魏書』
李百薬『北斉書』
令狐徳棻等『周書』
魏徴・長孫無忌等『隋書』
李延寿『南史』
李延寿『北史』
劉昫等『旧唐書』
欧陽脩・宋祁『新唐書』
薛居正等『旧五代史』
欧陽脩『新五代史』
脱脱等『宋史』
脱脱等『遼史』
脱脱等『金史』
宋濂等『元史』
張廷玉等『明史』

二十六史
柯劭忞等『新元史』
趙爾巽等『清史稿』
その他
班固・劉珍・蔡邕等『東観漢記』
中華民國版『清史(中国語版)』
中華民國版『新清史』(未完)
中華人民共和国版『清史(中国語版)』
表話編歴
『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された歴史書である。
二十四史の一つで、正史の第一に数えられる。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。
二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価(史漢)を得ており、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。



ウイキペディア


司馬遷
司馬遷の家系は、代々「太史公」(太史令)という史官に従事し、天文・暦法・占星や、歴史記録の保管・整備に当たっていた。
特に父の司馬談は、史官として記録の整理に当たるだけではなく、それを記載・論評し、自分の著書とする計画を持っていた[2]。しかし、司馬談はその事業を終えることなく死去し、息子の司馬遷に自分の作業を継ぐように遺言した。
父の死後3年目に、司馬遷も太史令となり、史官の残した記録や宮廷の図書館に秘蔵された書物を読み、資料を集めた。太初元年(紀元前108年)には、太初暦の改定作業に携わり、この頃に『史記』の執筆を開始した。のち、天漢3年(紀元前98年)、司馬遷は匈奴に投降した友人の李陵を弁護したため武帝に激怒され、宮刑に処される。
こうした屈辱を味わいながらも司馬遷は執筆を続け、征和年間(紀元前92~89年)に至って完成した。

『史記』を執筆する意図について、司馬遷は父の言葉を引用し以下のように述べている。
易伝を正し、春秋を継ぎ、詩書礼楽の際に本づくるもの有らん。(孔子が作られた『易』の解釈を正し、『春秋』の精神を継承し、『詩』『書』『礼』『楽』の諸分野を基礎づけるものが出て良いときだ。)
— 司馬遷、太史公自序(司馬談の言葉)

加えて、司馬遷は当時の春秋公羊学の領袖である董仲舒の説を敷衍して孔子の『春秋』執筆の目的を論じている。
子曰く、我れ之を空言に載せんと欲するも、之を行事に見(しめ)すの深切著明なるに如かざるなり、と。(孔子は「私はそのことを抽象的な言葉で記述しようとしたが、それよりも、これを人々が実際に行った具体的な行為の迹において示すほうが、はるかに切実であり鮮明なのだ」と仰った。)
— 司馬遷、太史公自序(董仲舒が孔子の言葉を引用する部分)
ここに示された「空言」より「行事」を重視する態度は、『史記』に継承された。また司馬遷は、自分の著作は『春秋』の周王朝称賛に倣い、漢帝国の盛世を顕彰するものであるとも述べている。『史記』執筆の最大の目的は漢代史の記述にあり、それによって同時代である漢帝国の歴史的意義を宣揚することにあった。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

と、検索ウイキペディアには、膨大な字数が並んでおりますが、スタートアップして金を稼ぐには必要ない知識だし、ビル・ゲイツやジョブズにしたって、本業が忙しくて大学は出ていない。
※「リード大学」 スティーブ・ジョブズは、大学を中退しています。 その理由は、大学の必須科目の授業には興味がなく、両親が苦労して貯めたお金を興味のない授業に使うことに罪悪感があったためと言われています。 しかし、ジョブズは中退した後も大学にこっそりと通い続け、自分が興味のある授業を受講していました。
ビル・ゲイツ. 1975年、「ハーバード大学」を3年生で中退し、幼友達のポール・アレン氏と共にマイクロソフト社を創立。 ウイキペディア

それで彼らは、20代そこそこの小僧にして、アメリカの金を全部集めてしまった。さらにそれは類は友を呼び、世界中の金を集めて、そこいらに点在する並み居る国家予算数倍の資金力を貯えるまでに至ったのです。

ですからいまさら慌てて論語、史記を読んだとしても、有名大学を卒業できないし、とは云ってもその論語時代の官吏試験より継承している学歴崇拝は、今でも衰えることなく、とくに東洋圏においてはさらに熾烈な世界に及んでいるのが現実です。
まして女性のケースでしたら、シングルマザーが一般的になってしまったこの社会で、子育て支援金法案が施行されたとしても、企業(日本)がそれを遵守するという確約はないし、まったく進まないデジタル行政の中で、茶封筒送金システムが、いたって健在であることは、この国の現状をよく語っている現実を、知らない人も多い現実を知るべきなんでしょう。

随分前に読んだ本ですが「12世紀ルネサンス」という知見をしって
考えも随分変わりました。
その内容には何が書いてあったかと云うと、現代欧米世界の、以前の時代は、イスラム世界が世の中心で、それで世界は動いていた、というロジックが書いてありました。

以下、自著ブログ転載

「12世紀ルネサンス」伊東俊太郎著の大変革は、とても重要なソースとして機軸におくが、それだけでは片付かない複雑怪奇な歴史がしっかりと残されていた。
 ここではそれを探ってみたいと考えている。いわゆるヨーロッパ中世時代の光と影の部分に、そのヒントがあった。

 科学者「ニュートン」は1624年、イングランド生まれで中世の後に生まれた世代で、在籍中「ケンブリッジ」で学んだ学術はケプラー、ガリレオ、デカルトなど、中世時代キリスト教会異端審問の抑圧下、もっとも厳しい時代に生きた学者の著書をむさぼり読んだ、という逸話が記録されてる。
 すなわちニュートンが生きた時代背景は、古典ギリシア学術を直に触れることが出来た時代であった。
 また中世の錬金術を「万有引力」とパラレルに研究していたのもニュートンであり、科学と古代占星術の二つの世界を研究した唯一の科学者であった。
 そのことは通説一般論とは異なるニュートンの人物像に益々興味が湧き、物理学者ニュートンの秘義を追ってみた。

定説、古代文明メソポタミア・ギリシア
 紀元前5世紀、ギリシア文明の叡智が現代社会に与えた影響は計り知れない。もっとも有名な「ピタゴラス定理」は現代でも教育の場で必須だ。
 いま、中東諸国、アフリカ(シリア、エジプト)は内戦の様相を呈している。最大の関心事が宗教問題だ。シーア派、スンニ派間の戦いは長い間、そして今でも歴史的な民族紛争でもある。

 いまもっともメディア上に載る言葉「イスラム」とは、いつからイスラムなのか。
 西暦570年に生まれた「ムハンマド」は610年40歳のときアッラーの啓示を神託、イスラム教の開祖とされる。そこから二派に分裂したのがスンニ派とシーア派だった。
 シーア派はイスラム教徒少数宗派だがイラン・イラクにおいて国民の半数以上がシーア派とされスンニ派との対立は解決の糸口が見えない。
 その現代事情とは、まったく一線を画した古代の先進学問国「アラビア文明」は一体どこに消えてしまったのか、という疑問を拭い去ることができない。
 現在進行形でいまその行方を追っている。その大方が判りかけてきた。さらにその検証が必要だが、おおまか西と東、その宗教対立の構図に根ざす、というところまで近づいた。キリスト対イスラムの宗教対立、そして世界覇権あらそいは、ギリシアからローマ帝国に至り、その時代より営々と繰り返されている。
 
 「12世紀ルネサンス」とは1927年、チャールズ・ハスキンズの著した書物によって欧米で認知された研究成果であり、紀元前ギリシアで開花した人間世界の叡智が、どのような変遷過程で現代社会にもたらされたのか、というワンセクションを担ったのがアラビア文明であることを、それは説明している。

 BC5世紀に起こったギリシア文明の叡智は黄金期であり「ピタゴラス定理」より以下、数知れず幾何学・数学がアラビア文明を象徴する学問として現代社会にもたらされているが、その過程は殆ど知られることがない。とくに「ユークリッド幾何学」はアラビア文化圏からもたらされたことに多くの人は知ることがない。
 その事実が明かしているように現代社会で学習している基礎的学問の多くは、ギリシア文明が育んだ知識をもとに歴史時間を経過しながらアラビア文化圏経由で今の欧米社会へと帰結したという現実を現代歴史はあまり直視しない。そのことは、ある意図的な策略によって、ある方向へと導かれた、と思わせるような痕跡も随所にみられる。
 1997年3月の初版本「キリスト教封印の世界史」には次のような記述がある。
「紀元前6世紀には、すでにピタゴラスが地動説を唱えていた。紀元前3世紀にはアリスタルコスが太陽中心説を訴えていたし、エラトステネスが地球の大きさを測定していた。紀元前2世紀にはヒッパルコスが緯度と経度を考案し黄道傾斜を定めていた。だが暗黒時代に入ると、そうした知識は忘れ去られ16世紀になってようやくコペルニクスが再び地動説を唱えるという始末だった」。
 そこから読み取れるのは、西洋史でも特に有名な異端審問というキリスト教による科学者たちへに対する淘汰である。また、過去にもキリスト教の優位性を保持するためギリシア時代より伝えられた膨大な数の学術書や文学作品を焚書したのである。

 古代エジプト・ギリシアにおいては幾何学が盛んに研究されていた。それは古代社会の生きる知恵であり、大河の氾濫をどのように食い止めるか、そしてそれを灌漑農業に生かせるかが国家形成の糧であった。古代メソポタミアにおいては早くより灌漑技術が発達し、その時代の先進国家であったことは数々の歴史記述で証明されている。
 そうした古代オリエントの数学はタレス、ピタゴラスらによって小アジアのイオニア地方、南イタリアへもたらされる。そうして基礎づけられ発展した数学体系は「エウクレイデス」(英名)に因んで、「ユークリッド幾何学」と呼ばれた。古代エジプトのギリシア系哲学史者エウクレイデスの著した「原論」が今日のユークリッド幾何学の基礎となったのである。
 ユークリッド幾何学「原論」は定義、公準、公理など、様々な定理を演繹的に導き出す手法で現代数学の原型をなす。2000年間におよび数学の聖典としてその地位は不動である。近代自然科学、古典力学の雄「ニュートン」による「自然哲学の数学的原理」は、この「原論」を手本に書かれた、とも云われる。

ギリシアからビザンチン、シリア文明圏
 地中海世界で育まれた数学は時代を経過しながらギリシアへと移行する。そして紀元前3世紀ころから始まるヘレニズム潮流にのりながらアレクサンドリアにおいて展開されるようになる。
 その研究成果はギリシアからビザンチンへ、やがてシリア文明圏へと移行し、シリア的ヘレニズムの諸科学はアラビア語訳されアラビア文明圏へと迂回の道を辿る。 

 やがてアラビア学術文化の時代が訪れ11世紀ころに、それは黄金期に到達する。そして今日の西欧世界の礎をつくった学問の総ては、このアラビア学術文化を翻訳し「12世紀ルネサンス」を迎えることとなる。そして、いよいよその叡智はラテン語化へと消化されて行く。
 
「12世紀ルネサンスの中心となったのはカタロニアを含む北東スペインと中央部のトレドを中心とする地域、パレルモを中心とするシチリア島、そして北イタリアなどの地域であった。これらの地域でアラビア語文献やギリシア語文献のラテン語訳が進められた」、とネットサイトに記述した上垣氏は説明している。
 また伊東俊太郎氏(12世紀ルネサンス著)によると、「アラビア文明との接触は、実は十二世紀に急に始まったわけではなく、それは十世紀の中葉に遡る。その接触の舞台はカタロニア。現在スペインの北東の端を占めるこの地方は、一時イスラムの勢力圏に入り、後にはバルセロナ伯領として西欧文明圏に属した。」
 というように、まさしく西欧とアラビアの接点となった。このようなアラビア文化圏と西欧文化圏が混合した地域には「モサベラ」(アラビア化した人)と称されるアラビア文化に同化したキリスト教徒のスペイン人も数多く存在した。

 こうした地域が西欧文明圏に入ったとき、アラビア語とラテン語をともによくした彼らがアラビア文献をラテン訳してアラビアの学術文化を西欧世界に伝える最初の役割を果たした、と伊東氏は解説している。
 「ラテン語」はかつてイタリア南部のローマを中心とした地域で使われていた言語でラテン人によって使われていた。それはローマ帝国の公用語として用いられたことにより広範囲に伝播した。なお現在でも一部使われる「ラテン語」は殆ど死語に等しいが、それでも名詞として重用されるには、それなりの訳がある。

 中世の時代、公式また学術関係の書物は多くラテン語で記され、現在でもラテン語が残っている。生物の種の命名はラテン語を使用する規則になっている。19世紀までのヨーロッパ各国の大学では学位論文をラテン語で書くことに定められていた。その中世の思想に強い影響を受けていた哲学者、デカルトの著した「哲学原理」(1644)原書はラテン語記述である。

以下割愛 

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