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2.26事件

アーカイブス「二・二六事件」

なぞの人物「北一輝」 (2017-02-28 07:52:28記事)

NHKアーカイブス「二・二六事件の実像~近代日本最大のクーデター~」

1936年、81年前の昭和11年2月26日。陸軍の青年将校らが総理大臣官邸などを襲撃した「二・二六事件」。以後軍部の政治関与が一層強まることとなった歴史の大きな転換点だが、いまも多くの謎が残る。
事件から40年あまり経って発見された青年将校たちの通話を録音したレコードを元に当時の関係者を取材、大きな話題を呼んだ1979年のNHK特集をとおして、識者とともに「二・二六事件」の実像とは何か改めて見つめる。

出演】帝京大学教授…筒井清忠,【キャスター】森田美由紀

NHK特集「戒厳指令…交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~」
1979年(昭和54年)2月26日放送:79分

 NHKの保管庫に眠っていた20枚の古びたレコード。そこには昭和11年に起きた陸軍青年将校によるクーデター、2・26事件の最中に取り交わされた電話を傍受した生の声が録音されていました。声の主は誰か、誰が何のために傍受したのか、闇に埋もれた事件の輪郭が少しずつ明らかになっていきます。戦後も長い間謎とされてきた2・26事件に、再びスポットライトを当て、後にこの事件の歴史的解釈を変えていく大スクープとなったドキュメンタリーです。
【ゲスト】元・NHKディレクター、現・大正大学教授  中田整一

 今回、この番組を制作し、その後も2・26事件を追い続けてきた中田整一さんをスタジオに招き、番組の放送後さらに明らかになった事実をお聞きすると共に、2・26事件を今伝える意義を考えていきます。
7月は2・26事件に深い関わりのある月です。事件後、首謀者となった青年将校たちのうち15名が「一審のみ、上告なし、弁護なし」という厳しい裁判にかけられ処刑されたのが7月12日、翌年の昭和12年の7月には2・26事件の全ての裁判が終わりました。そして同じ昭和12年7月、廬溝橋で日中両軍が激突し日中戦争の火ぶたが切って落とされました。その後日本は破局の大戦へと加速していきました。

http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2003/h030720.html

書名:盗聴 二・二六事件 中田整一
初版発行:2007/2/10出版社:文藝春秋社


 1979年2月26日、2.26事件の際に行われた盗聴記録について、NHKは 「戒厳指令『交信ヲ傍受セヨ』」 というドキュメンタリー番組を制作し放送しました。発見された当時の電話の傍受記録の原盤を元に作られた番組で、生々しい青年将校の電話の声に衝撃を受けた記憶があります。

 この本は、この番組制作にかかわった作者が、放送後にNHKに送られた手紙から始まった電話録音記録の謎の解明と、2.26事件の背後にあったものの再研究をまとめたものです。

 NHKに届けられた手紙は、

 1.電話傍受録音を担当実施したのは私であります。

 2.当時、私は大尉、戒厳司令部通信主任。  
 とのこと。盗聴されたものではなく、正式な命令によって傍受したものである、とのこと。

 届いたのは放送直後ではなく、その年の夏になっていたのだそうな。この手紙を書いたのは、濱田萬はまだ よろず氏、元日本陸軍工兵大尉。著者が数日後、東京近郊の氏の自宅を訪ねると、黙って墓にまで持っていこうと思っていた話を、とつとつと語ってくれたそうです。

 そして最後に、吐き捨てるようにこんな言葉を残し、それがまた著者の疑問を誘います。

 「盗聴なんかやったばっかりに、 ・・・軍人の名誉を汚してしまって・・・ 」  (P19)  いったい何を言っているのだろう。

 この傍受記録は、レコード盤に録音されたものでした。それも、昭和初期のころですから、ゼンマイ動力のもの。回転は不安定で、音盤の外側に行くほど回転速度は落ちて音の周波数が変わります。さらに、さまざまなノイズがあり、そのままではほとんど聞き取れないシロモノでした。

 再生速度を調整し、300ヘルツ以下の“ブーン”という低周波の雑音と3000ヘルツ以上の“サー”という高周波の雑音を取り除き、会話の周波数エリア内の2000ヘルツ付近の雑音をぎりぎりまで抑え、当時としては最大の技術を投入して再現されます。

 見つかった録音盤は20枚。数奇な運命を経て、NHKの放送文化ライブラリーに保管されていたそうです。だれも知られないままに片隅にひっそりと。しかも、オリジナル録音盤の複製であったらしい。

 これが、単なる歴史の遺産ではなく、2.26事件の際の反乱軍と外部との電話の傍受記録であった事が、その価値を無限に高めます。血気にはやる青年将校の暴発と思われていたあの事件の裏に、何かがあったのかもしれない。

 のちに反乱軍を包囲した戦車の音と判明した轟音にかき消されそうな、NHKの番組内で注目された会話があります。

 安藤 ほぼ順調にやっております。

 北 ××××××

 安藤 ほぼ順調にやっております。

 (詳細不明の対応がくりかえされる)

 北 ××××××かね。

 安藤 えッ?

 (詳細不明の対応がくりかえされる)

 北 ××××××

 安藤 えッ?

 北 カネ、カネ。

 安藤 えッ?

 北 マル、マル、カネはいらんかね・・・

 安藤 なに・・・・

 北 カネッ。

 安藤 カネですか・・・・

 北 ええ。

 安藤 ええ、まだ大丈夫です。(P144-145)
 
 この場面は、ドキュメンタリー番組の中で白眉となるものの一つでした。生死の境にいる反乱軍のリーダーの一人安藤輝三大尉が、その思想的な師とされた北一輝きた いっきと交わした最後の電話連絡と思われていたからです。

 しかし、と番組放送後に著者は考えます。優れた著書を残し、つねに目下の者にでも丁寧に話し、若い将校たちに威厳と品格を示し、高い信頼を得ていた人格者が、金はあるのかなど、こんな下卑た話をするだろうか。そして録音盤に書かれていた日付は、2/29。北一輝は、すでに28日に逮捕され、収監されていたのです。

 では、なぜこんな録音盤があるのか。

 そして謎は、さまざまな方向に広がります。歌人として知られた斎藤瀏・陸軍少将と反乱軍のリーダーの一人栗原中尉。山下奉文・陸軍少将の苦衷。

 社会的な矛盾に苦悩し、やむにやまれず蹶起してしまった青年将校たちによる短絡的な事件、ということで裁かれた2.26事件の本質とは、いったい何だったのか。若者たちにすべての罪を負わせて葬り去った人々は、いったい何ものだったのか。

 2.26事件とは、いったい何だったのか。

 投降し、後世のために自分の見た真実を残そうとした安藤輝三大尉は、秘密裁判で有罪とされ、処刑されます。

 公の場で言葉を残すことも許されなかった彼は、かろうじて遺書を残し、その思いを託します。そして歴史は動く。

 「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して而も吾人の行える結果を利用して軍部独裁のファッショ的改革を試みんとなしあり、一石二鳥の名案なり、逆賊の汚名の下に虐殺され 『精神は残る』 とか何とかごまかされては断じて死する能わず」 (河野司編 『二・二六事件獄中手記遺書』)

 陸軍は事件処理に名を借りて、着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。青年将校等のテロリズムは、軍国主義の暴走に格好の口実を与える結果だったのである。  

 2.26事件は、軍部が暴走して日本の歴史を歪めていく契機となった、とあたかもこの事件が入り口にすぎなかったように思えます。しかし新しい光をあててこの事件を見ると、その意味合いは大きく変わっていきます。

 ある意味純真であったが、その考え方があまりにも硬直して独善的であった事に気づかずに突っ走った青年将校たち。彼らの行ったことは、いかに純粋に未来を思ったことであっても、あくまで鐵太郎の規準ですが、社会の中で悪です。

 思いが純真であれば、はるかなゴール点が理想に満ちていれば、何をしても正しいという理屈は、いまこの時代にSHIELDsというはねっ返りが行っていることと同じで、法律と慣習の中で生きるぼくらの社会では害悪と思う。SHIELDsに関しては、今の段階で。

 しかし彼らを背後から見守り、うまくいったらそれを功績と讃えて支援者、責任者として顔を出そうとした人々がいた。

 いまのSHIELDsが一定の成功を収め、社会的に認知されれば、その創設者、支援者、精神的支柱はうじゃうじゃ出てくるに違いない。

 2.26事件にもそういう背景があったという。

 成功したら親兄弟親戚縁者が無数に現れ、失敗は孤児なのです。

 北のケ号作戦は成功したため、迷惑窮まりないお節介だった第五艦隊司令部の督戦は、その功績のおこぼれにあずかります。今に至っても前線部隊の背後にいただけで彼らにも功績ありと思う人もいる。作戦が失敗したら、口をぬぐってそこにいなかったことにしたかも知れない人々を。

 そんな背後の人々を、たしかに罪には問えないかも知れないけれど、俎上にあげて検討する必要はあるのではないか。

 誇り高い軍人であった濱田萬元大尉の後悔とはなんだったのか。彼は、なにも語らず1985年に81歳でこの世を去ります。

 人生とは、いろいろ重さの積み重ねです。  (2015/9/25)

(録音盤 ウイキペディア)

二・二六事件発生前に『北一輝とされる人物』と安藤との会話を盗聴した録音盤(レコード)が、関東戒厳司令部に残されていた。

その記録では、「北」とされる人物から電話をかけて、「マル(金)はいらんかね」(活動資金は十分か)と言い、安藤は「まだ大丈夫です」と返答している。

しかし、北の逮捕後の証言などから、電話をかけたのは北ではなく、安藤に対し、カマをかけようとした憲兵ではないかと言われていたが、後に、作家・中田整一の調査によって、この通話は、何者かが北の名を騙(かた)って、安藤にかけたものであることが検証されている。詳細は中田整一『盗聴 二・二六事件』ISBN 4163688609参照。

その後は報道番組などにおいても、このレコードの声を、『北の声とされる音声』と紹介するにとどめ、NHKは現在、特集の再放送などで「北を名乗る別人の声」と注釈を入れている。

2.26事件のキーマン

安藤 輝三

宇都宮中学校を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校38期生。同期に同じく皇道派で二・二六事件の首魁磯部浅一がいた。当時の陸軍士官学校校長は二・二六事件の黒幕とされる真崎甚三郎であった。

同10月陸軍少尉。歩兵第3聯隊付。歩三においては秩父宮雍仁親王とともに勤務し親しく交わった。

1929年(昭和4年)10月陸軍中尉になる。

1934年(昭和9年)8月陸軍大尉になる。

1935年(昭和10年)歩兵第3聯隊第6中隊長。

中隊長となるにあたっては、部下、同僚からの信望が厚い一方で過激な青年将校たちと関係する安藤を危惧する連隊長井出宣時大佐に対して「誓って直接行動は致しませぬ」との証文を提出した。秩父宮からの口添えもあった。

二・二六事件の日

事件以前1933年に、安藤は日本青年協会の富永半次郎や青木常磐と共に鈴木貫太郎邸を訪問し、時局について話を聞いた事があり面識があった。

鈴木は安藤に親しく歴史観や国家観を説き諭し、安藤は大きな感銘を受けた。面会後、安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐の深い大人物だ」と語っている。

後に鈴木は座右の銘にしたいという安藤の要望に応えて書を送っている。事件に際して安藤は鈴木を一時的に監禁することで済ませることはできないかと考えていていた。

鈴木貫太郎襲撃

午前5時頃に鈴木貫太郎を襲撃した。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。

2.26事件キーマン.2 栗原 安秀

1936年2月26日午前5時頃、岡田啓介総理がいる首相官邸の襲撃を指揮した。総理の義弟・松尾伝蔵を総理本人と誤認したため岡田の暗殺には失敗した。

午前9時頃、栗原の指揮する部隊が朝日新聞社を襲撃し、活字ケースをひっくり返し、その後は日本電通、東京日日、報知、国民、時事新報の各新聞社、および通信社をまわって、決起趣意書の掲載を要求する。その夜は、中橋隊と共に、首相官邸に宿営する。

西田はつ(西田税の妻)や斎藤瀏らと頻繁に電話で連絡を取る。その多くは戒厳司令部により録音されていた。

2月28日陸相官邸に集まり、山下奉文中将から宮中の雲ゆきがあやしい事を聞き悔しさや宸襟を悩ませたことに責任を感じ自刃を決意するも、29日奉勅命令が出されたが裁判での徹底抗戦を叫んだ。同日午後0時50分、反乱部隊将校が免官となる。午後1時前、安藤隊を除いて、栗原隊も帰順する。反乱将校として、陸相官邸に集められる。

3月2日午後3時25分、反乱部隊将校20名の地位・階級が返上されたことが発表される。4月28日、将校達に関する特設軍法会議の初公判が開かれる。陸軍刑務所では常に周りの将校を励まし、裁判の場においては部下の将校をかばっている。7月5日、特設軍法会議の判決(死刑)が下される。このとき栗原は一言、「多すぎたなあ」と呟いたという。

その後悔しさ紛れに遺書を書いたが、みっともないのでこれは処分してくれと刑務官に頼んだものの結局残されて戦後公開された。
この遺書は3通残されており、両親、妻に宛てたもの、そして裁判の不当を告発して「我らを虐殺せし」幕僚に報復を誓い、彼らが滅びぬなら「全国全土をことごとく荒地となさん」、という呪詛に満ちたものであった。死刑判決直後には看守を通じて同じ刑務所にいた斎藤瀏にメモを送った。そこには、「おわかれです。おじさん最後のお礼を申します。史さん、おばさんによろしく クリコ」と書かれていたという。処刑前は仲間達と死んでもなお昭和維新を断行する意思を語り合った。

7月12日午前7時、代々木の陸軍刑務所にて銃殺刑に科せられ、刑死。

関連参考記事

二・二六事件東京陸軍軍法会議録 - 丸善雄松堂
PDF 北一輝に関する膨大な捜査資料や本人の聴取書をはじめ、 国家改造運動に関わった人物の手記や聴き取りを含む。  久原房之助、など

https://kw.maruzen.co.jp/ln/mc/mc_doc/feb26th_incident_2.pdf

※2.26事件については、前回2月26日に書いているが、それとは別のアーカイブストック記事があったので、それを掲載した。文中あるように、核心人物「北一輝」の電話疑惑など、いまだに疑義不明が多い「クーデター未遂」事変であり、首相誤認殺害など検証すべき点は沢山ある。それにつけても、外国列強国の諜報また画策に言及しないのはなぜなんだろうと思う。その極め付きが、近年「極マル秘文書」として発見された「日本海軍」記録には、そのすべて一字一句が記録されており、陰謀すべてが筒抜けであったことが判明している。この事変は、日本歴史の「ミッシングリンク」として永遠に語り継がれる。

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毎日新聞



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