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古事記伝、国譲り伝説

古いにしえ神社の老古木幹の語るもの

昔の国と、いまの県で古事記は理解できない。それは何だろうとかんがえれば、今の県庁所在地名称と、1300年前の行政区分けが、噛み合わないからだろうと。
また地勢地理的にも、「道路」と農地の境が曖昧(税制制度)など、個人財産の確定がない、といった社会と類推された。

アマテラスは天の国である高天原、ツクヨミは夜の国、スサノオは海原と、それぞれが支配地を与えられます。
しかし、スサノオは母イザナミを慕って泣いてばかりいて、海原を治めようとしません。それが原因で父イザナキの怒りを買い、スサノオは追放されることになってしまいました。
そこでスサノオは姉にあたるアマテラスに挨拶して黄泉の国に旅立とうと、高天原へ上っていきます。そんな姿を見て、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと誤解してしまいます。そこで、スサノオは疑いを晴らすため、「誓約(うけい)」*1 という占い(正邪を判断する裁判)を行うよう提案。占いの結果はスサノオの勝利で、野心がないと認められました。

と語られてもね、黄泉の国は知らないし、天の国である高天原(天孫降臨の地)ってどこなの? 日本神話話は、そうしたモノで語られる世界最古記録本です。

それに携わった種族トネリ

舎人村 (鳥取県)とねりそん舎人村 廃止日 1953年4月1日 廃止理由新設合併
東郷松崎町、花見村、舎人村 → 東郷町 現在の自治体 湯梨浜町
中国・四国地方都道府県 鳥取県東伯郡
人口 1,847人([1]、1952年)隣接自治体 泊村、宇野村、浅津村、東郷松崎町、気高郡勝部村

舎人村役場 所在地 鳥取県東伯郡舎人村大字方地 人村は、かつて鳥取県の中部東伯郡に属していた村である。1952年(昭和27年)当時の人口は1,847人、世帯数330、面積13.25 km2。
1889年(明治22年)10月に河村郡内(当時)の藤津・宮内・野方(のかた)・白石・方地(ほうじ)・漆原・北福の7か村が合併して成立した。隣接する松崎村が近隣地域の商工業の中心であったため、あまり商工業が盛んにならなかった。
一方、農業は舎人川流域に位置していることから盛んであり、村内に広大な水田地帯を形成していた。また、山の斜面を利用してこの地域の特産品の梨の栽培が広く行われており各地に出荷されていた。
1953年(昭和28年)4月1日、東郷松崎町・花見村と合併、東郷町が成立し消滅した。
村名の由来 この地域は古来、(注)有力な首長がいたとされ一族より天皇や皇族に雑用人として仕える舎人を出したことが由来とされている。また、平安時代の『和名抄』には「伯耆国河村郡舎人郷」とあり、また江戸時代の「元文2年村分帳」には舎人村全域と泊村の原が舎人郷と記されており、古来よりこの地域が「舎人」と呼ばれていたことが分かる。
(※注)舎人地区には平安時代以前の創建とされる伯耆国一宮の倭文神社、

奈良時代の野方・弥陀ヶ平(みだがなる)廃寺跡があり、また、この地域に限らず東郷池一帯には古墳が数多く分布していることから東郷池周辺には古代より中央の大和朝廷と何らかのつながりのある有力首長がいたと推定されている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1952年(昭和27年)当時の人口は1,847人、世帯数330、面積13.25 km2。
1889年(明治22年)10月に河村郡内(当時)の藤津・宮内・野方(のかた)・白石・方地(ほうじ)・漆原・北福の7か村が合併して成立した。隣接する松崎村が近隣地域の商工業の中心であったため、あまり商工業が盛んにならなかった。

一方、農業は舎人川流域に位置していることから盛んであり、村内に広大な水田地帯を形成していた。また、山の斜面を利用してこの地域の特産品の梨の栽培が広く行われており各地に出荷されていた。1953年(昭和28年)4月1日、東郷松崎町・花見村と合併、東郷町が成立し消滅した。

村名の由来 この地域は古来、(注)有力な首長がいたとされ一族より天皇や皇族に雑用人として仕える舎人を出したことが由来とされている。また、平安時代の『和名抄』には「伯耆国河村郡舎人郷」とあり、また江戸時代の「元文2年村分帳」には舎人村全域と泊村の原が舎人郷と記されており、古来よりこの地域が「舎人」と呼ばれていたことが分かる。
(※注)舎人地区には平安時代以前の創建とされる伯耆国一宮の倭文神社、奈良時代の野方・弥陀ヶ平(みだがなる)廃寺跡があり、また、この地域に限らず東郷池一帯には古墳が数多く分布していることから東郷池周辺には古代より中央の大和朝廷と何らかのつながりのある有力首長がいたと推定されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「ウンブキ」縄文のDNA動態を調べてみると、すで日本から隠滅してしまった村落「伯耆国河村郡舎人郷」のかすかな痕跡が残っていた。

おそらく、その子孫は、全国に散逸して、かつて継承していたであろう土着伝統芸能神楽など、すっかり忘れてしまったに違いない。なぜそうなってしまったかとう問答は無用で、「飯のタネ」が途絶したら人も生きていけないくらい知っている。
そうやって山村僻地は、一つ一つ年月をかけて、やがて全体にウイルスのように感染し本体と一緒に消滅する。

この古代史「古事記」分析にあたり、どうしても「国譲り」の正体と、プロットが知りたいと、同系の筋書き譚を拾って読み進んでみたが、その内容は全部判で押したように一緒で、とどのつまり古典は、謂れ伝説で、逸れ以上のものはない、という回答で括られる。勿論、それは試験解答で正解と判定される。

ワニが隊列を組んで、ブリッジを作った(あの国の作った橋は三日で崩落する)場合によってはサメで代替とするが生態系が全く違う、生物をどこから呼んだのか。これに誰も疑問を抱かない、ってアホじゃないのか?

その上を白い兎(野生はブラウン)と珍しく分けているが、もともと兎は海に落ちたらすぐ食われる。もっとも白毛をむしり取るワニって、口がそうできていない。これも疑問。

オオ「可愛そうに、海水で体を洗い、風に当たっておれば治る」。って真逆療法は危険だ。死ぬ。

常識的に考えて、「八尋ワニ」(やひろ、は大きいという意味で寸法でない)サイズの「帆船集団」に載って大陸からやってきた外来敵と観るのが妥当。個人的な見解だが、私の住む一宮(延喜式に掲載)より横穴古墳内に描かれた高位神官人物図、その脇に描かれた帆船図は、それに載ってこの地に来た、という由来線刻画であり、その場からは「ヒラカ」酒器も埋葬さてそれを発掘された。トップ画の木造帆船とまったく同じデザインに驚いた。

と云っても「古事記」以前の、そうした話は物的検証物が目の前にあっても、それが1500年前の物であると立証することが難しいのは云うまでもない。

因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)神話

出雲大社にある因幡の素兎像
隠岐国から因幡国へ渡りたくて仕方のない兎がいました。兎は思いつきます。
「そうだワニ(鮫)の背中を渡って行こう!」
そこでワニたちに「兎とワニでは、どっちが多いのかなぁ?」と聞きます。 それを聞いたワニたちは「そりゃぁ我々、ワニが多いだろう」と答えます。
「じゃぁ僕が数を数えるから、因幡国まで一列で並んでよ」と兎。 海に出来たワニの道を、ワニの数を数えながらピョンピョンと跳ねて行きます。

でも、因幡国に渡りきる際に「しめしめ、これは上手く騙せた」と言ったのが、ワニに聞こえてしまい、怒ったワニたちに皮を剥がされてしまうのです。
オオ「可愛そうに、海水で体を洗い、風に当たっておれば治る」。って真逆療法は危険だ。

そこを通りかかった大国主の兄弟たち、その兎を見てこう言います。「これはこれは可愛そうに、海水で体を洗い、風に当たっておれば治る」と。

もちろんこんな治療では、キズが治る訳もなくどんどん痛くなるばかりです。 その後、そこを通りかかったのが大国主神(オオクニヌシノカミ) です。

「真水で体を洗い、蒲の穂綿に包まれば治る」
と教えてやります。言われた通りにした兎は、キズも治りもとの兎の姿になりました。 ここまでが神話「因幡の素兎」です。

実はこの話は、オオクニヌシノカミの兄弟神たちが因幡の美しい姫神「八上比売命(ヤガミヒメノミコト)」に求婚するために因幡国を訪れた際のお話。 オオクニヌシノカミは兄弟神たちの荷物持ちとして同行させられていたのです。 オオクニヌシノカミに助けられた兎はこう告げます。
「ヤガミヒメノミコト様は、心優しい貴方様をお選びになるでしょう」
兎のお告げ通りにヤガミヒメノミコトとオオクニヌシノカミは恋に落ち結ばれます。 が、この後にオオクニヌシノカミには厳しい試練が、ヤガミヒメノミコトには悲しい現実が待ち受けているのです…

ところで… 「白兎」じゃなくて「素兎」なの?と思った人もいるはず!
この神話に登場するウサギは野うさぎであったため、「素兎」という字が当てられています。実は白うさぎではなく茶色のかわいいうさぎだったのです。一般的に絵本の挿絵などは白が殆どですよね?! どちらにしても、さめとは違ってかわいいうさぎだったことには違いないです・

根の国神話(ねのくにしんわ) 出雲神話 

古いにしえ神社の老本枝は、遥かレバノン国のレバノン杉と重なった

玉前神社の神楽は、師走日31日~開け1日2時まで奉演して、新年を祝う恒例行事。
私もその一員なので、それに参加演奏した。今年は、温度が高く、いつもと違う神楽演奏だった。

舞台の前広場の杜は古木に覆われ、樹齢800年1000年とか、圧倒されるが、それが既成の風景だと、当たり前だとおもってなにも感じない。

それでくづく、夜空にそびえるカヤ、モミ、槇の枝など見ていると、いま戦禍の中東レバノンのレバノン杉の枝振りを想像した。樹木は、それが現物でなくても、遺伝子系列で、殆ど親戚関係で、とくに針葉樹はよく似ている。
そのレバノンの地を想像しただけで、なんと歴史の深さだと感慨を抱く。

そのレバノン杉番人「フンババ」は、森の守護神として著名だが、いったい何人を相手に戦ったのだろうかと想像を絶する。

今しているイスラエル、ハマス。ロシア、ウクライナでは、最新戦闘機が飛び交い、それを追尾して迫撃ロケットが撃ち込まれる。兵器も金次第で、最新鋭ミサイル「パトリオット日本仕様」があれば先鋭器F-16も敵ではない。
狭い陸上戦のパレスチナ、塹壕に海水を注入するというアナログモグラ叩きが有効であると実行されたという。

それと「フンババ」撃退法の何が違うのか。そして古典的人海作戦のはてに、殺人罪に問われない戦争が、政治のもとに正当化されるという屁理屈は、そのフンババ時代より、先史からやっていて、その議性者をカウントしたことがない人間の罪の深さは余りある。

そして「古事記」は、そのモノたちを祭り上げた記録誌であり、今で云う市場支配権者(偏見的にアメリカGAFAのような)の記録簿として観るなら、とても判り易い経済白書となっていた。

世界歴史は、一方的に西洋文化スタイルであり、それから外れたものは、後進の野蛮国家という括りで成立している。いわゆる文化の東西は、はっきり区別され、後進の東、先進の西としてのカテゴリーで色分けされ、資源、資金においても、その差は歴然で、それは決定的に逆転することはなく、また、そうできないシステムとしてギリシア哲学以来、そう考えられてきた。

では、その規模が強大化し、中央集権「ポリス」化することは、どうやって遂行されたのか、歴史を見れば皆一様に領地拡大戦争であり、換言すれば他を殺りくし奴隷化して、自国を富ませるという方法論は画一的に全部同じである。
「古事記」の中の一説に「くに譲り」系列が詳細にかかれており、その権力移譲話が記録されている。また伝説民話譚としても童話的に書かれていて、神楽伝承舞、と同じく1300年という時間を経過して語り継がれた。

日本国の壮大な戯曲「国譲」

因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)神話
出雲大社にある因幡の素兎像
隠岐国から因幡国へ渡りたくて仕方のない兎がいました。

兎は思いつきます。

「そうだワニ(鮫)の背中を渡って行こう!」

そこでワニたちに「兎とワニでは、どっちが多いのかなぁ?」と聞きます。 それを聞いたワニたちは「そりゃぁ我々、ワニが多いだろう」と答えます。
「じゃぁ僕が数を数えるから、因幡国まで一列で並んでよ」と兎。 海に出来たワニの道を、ワニの数を数えながらピョンピョンと跳ねて行きます。

でも、因幡国に渡りきる際に「しめしめ、これは上手く騙せた」と言ったのが、ワニに聞こえてしまい、怒ったワニたちに皮を剥がされてしまうのです。

そこを通りかかった大国主の兄弟たち、その兎を見てこう言います。

「これはこれは可愛そうに、海水で体を洗い、風に当たっておれば治る」と。

もちろんこんな治療では、キズが治る訳もなくどんどん痛くなるばかりです。 その後、そこを通りかかったのが大国主神(オオクニヌシノカミ) です。

「真水で体を洗い、蒲の穂綿に包まれば治る」

と教えてやります。言われた通りにした兎は、キズも治りもとの兎の姿になりました。 ここまでが神話「因幡の素兎」です。

実はこの話は、オオクニヌシノカミの兄弟神たちが因幡の美しい姫神「八上比売命(ヤガミヒメノミコト)」に求婚するために因幡国を訪れた際のお話。 オオクニヌシノカミは兄弟神たちの荷物持ちとして同行させられていたのです。 オオクニヌシノカミに助けられた兎はこう告げます。

「ヤガミヒメノミコト様は、心優しい貴方様をお選びになるでしょう」

兎のお告げ通りにヤガミヒメノミコトとオオクニヌシノカミは恋に落ち結ばれます。 が、この後にオオクニヌシノカミには厳しい試練が、ヤガミヒメノミコトには悲しい現実が待ち受けているのです…

ところで… 「白兎」じゃなくて「素兎」なの?と思った人もいるはず!

この神話に登場するウサギは野うさぎであったため、「素兎」という字が当てられています。実は白うさぎではなく茶色のかわいいうさぎだったのです。

一般的に絵本の挿絵などは白が殆どですよね?! どちらにしても、サメとはちがいます。

出雲神話 ~

葦原中国の平定
国譲り神話
日本列島の支配を正当化?
国譲り神話は、天の国である高天原が、地上の国すなわち日本列島の支配権をオオクニヌシから受け継ぐという神話です。『古事記』『日本書記』などにみられますが、特に記・紀の中でこの神話が果たす役割はとても大きく、天皇家の日本列島支配の正当性を伝えています。この神話がないと、天孫降臨神話につながらず、神武東征に始まる天皇支配の正当性は説得力に欠けるものになります。

高天原の使者が次々にやって来た!

『古事記』をもとにして国譲り神話をみていくと、まず高天原からアメノホヒが使者として派遣されます。しかし、アメノホヒはオオクニヌシに取り込まれて3年経っても復命しませんでした。

そこでアメノワカヒコが弓と矢を授けられて地上へ降りますが、やはり8年経っても復命しませんでした。そこで、様子を見るため、鳴女(ナナキメ)と呼ばれる雉を遣わしましたが、アメノワカヒコに射殺され、その矢は雉を抜いて高天原のアマテラス・タカミムスヒのところまで届きました。タカミムスヒがその矢を投げ返すとアメノカワヒコの胸に刺さり、死んでしまいました。

その後、タケミカヅチとアメノトリフネが派遣されて、伊耶佐(いざさ)の小浜(稲佐浜)に降りました。タケミカヅチは十拳剣(とつかのつるぎ)を波頭にさかさまに立て、その剣先にどっかとあぐらをかいてオオクニヌシに国譲りを迫りました。オオクニヌシは「年老いた自分の一存では決められません」と、わが子であるコトシロヌシに判断を委ねます。

出雲大社はこうして造られた

コトシロヌシが国譲りに同意すると、「もう一人の子どもであるタケミナカタにも聞いてほしい」と、言いました。タケミナカタはすぐには賛成せず、「力比べで勝負してきめよう」と、タケミカヅチに挑みますが、敗れて逃げ出し、信濃の諏訪湖で追い詰められてついに国譲りに同意しました。 二人の子どもが同意したのを知り、オオクニヌシもついに国譲りを受け入れ、「その代わりに、私の神殿を皇孫が天つ日継ぎを受け、統治する立派な宮殿と同じくらい立派なものにしてください」と望みます。願いはかなえられ、多芸志の小浜に大きな神殿が造られました。これが出雲大社の起源です。そしてオオクニヌシは、そこに鎮座してコトシロヌシにやはり自分の子である百八十神を統率させました。 ≫ <第三章>国譲りを詳しく読む

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