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小食土(やさしど)゛縄文゛

"昭和の森" 小食土(やさしど)廃寺跡 再訪録

先日、3/19(火)に再度、小食土(やさしど)散策に行ってきました。今回は自家用自転車持ち込みで、広大な「昭和の杜」縄文散策です。搬送して30分の道のりを走って、小食土(やさしど)廃寺跡に到着しました。

前日は風が吹いており、予定変更しましたが、やはり外気が寒くて、防寒着は欠かせませんでした。

桜開花には早いので、辺りの風景は鬱蒼とした森の佇まいです。その中にモモのピンク花が咲いていたので、とても輝いて見えました。やはり色彩は季節を感じさせ、また女性の匂いを漂わせるので、なくてはならない存在だと認識いたしました。

縄文、といったら5000年を越して1万年の歴史時間ですから、まったく想像されませんが、なにしろ土器とか石器の現物が目の前にあって、それが1万年の歴史を語るわけですから、有無がないわけです。信じるしかない(といっても半信半疑)な世界です。

そうなんですね~、いくら著名な学者説であっても、にわかに信じがたい、皆そう感じていることでしょう。

例えば、縄文火炎土器とか、古墳時代副葬品(焼き物 推定1500年~2000年)など、見た目は、新作復古調茶碗、と広告しても誰も疑わないほど、新旧判定が難しい。「石器」にしても同様で、3万年前の石と、昨日掘り出した砕石場の石の区別は、殆どできない。

それがどうして石器と判定するかは、手にもって、程よく収まる型とサイズ、咎った先が摩耗している、なおかつ、その部分が光っている。縦横斜め角度、どの角度でも、手の平に収まり、それを握っているだけで恋しくなる、という一体感を持っている。それは紛れもない、石器としての条件です。
また、それを握って思うことは、はるか昔の縄文ヒト(中には子供サイズもある)が、これを使って料理した、衣服を紡いだ、と連想しただけで、原始人間の生きざまを彷彿とさせます。

昨今、科学分析が高度になって、縄文遺伝子解読が、リアルな答えを出しているようですが、難点を云えば、その似顔絵が全然、にていない。
というのは逆説にいって、それを提示する研究者は、10000年前だから、今よりもっともっと石器的だろう、という付加を与えて表示しているのではないかと邪推するのです。

先程の石器例ですが、人間の手の機能は、10000年前と50000年前では、違っていたという進化論は訊きません。もしそれが同等だとすれば、その似顔絵が、50000年前らしい顔、というのは作りものであって、今の顔、現代人(種の別はある)と、ほとんど変わらないスタイルと考えるのは、無理がないロジックでしょう。

そんなことを思いながら「小食土(やさしど)」を2時間かけて、走りまわったのですが、ついに私が縄文人にはならなかった(当然の話しです。)。


古墳時代 和釘発掘品

にわかに持ち上がった「ウンブキ」発掘の年代測定結果の波紋

それで問題は、徳之島で発掘発見された「ウンブキ」品の数々です。その調査は、今も続いているようですから、結論は出せないのですが、「日本人ルーツ」の絶対説が、それによって覆ってしまうような科学分岐結果が衝撃的なものでした。
それの" 何゛が衝撃的であるのかは、縄文と弥生の間の僅かな「スキ間に」その南の島の海底に寝ていた遺骨の遺伝子が、その隙間を埋めていた、という学説が、語られようとしていたのです。

そのことはNHK特集番組でも放送され、その遺伝子の祖先は、大陸アジアに在った、という筋書きであったのです。いや確定ではないので今後の研究が待たれますが、それが真に証明されることになったら「古事記」「日本書紀」の記述の信憑性が担保されない、翻って世界で唯一日本に残存する天皇制ルーツを再検証するということも考慮されるという話しです。

この「ウンブキ」についてはnote上に二つの記事を掲載しましたが、どちらの記事も検索ランクトップにあって、社会的にも評価された記事であると自負しております。

小食土(やさしど)廃寺跡 "昭和の森"
racoco 2023年3月22日 14:59
小食土(やさしど)廃寺跡 "昭和の森"
‐古代人の定住が始まった‐
あすみが丘および昭和の森には縄文遺跡が30カ所を越える
次の表は『千葉市遺跡地図』(平成12年)の記載をもとに、あすみが丘および昭和の森の縄文時代の遺跡を編集し直したものです。
あすみが丘および昭和の森には、今から1万6千年前から2千5百年前の縄文時代の遺跡が、30カ所以上も発掘されています。
とくに、1万3千年前から4千5百年前の縄文早期から中期の遺跡が多いのが特徴です。縄文後期以降から弥生時代にかけては、あすみが丘の遺跡は極端に少なくなります。人々は何処に行ったのでしょうか? 
この頃から、千葉市および市原市の東京湾岸の遺跡が増えているので、そちらに移ったのでしょうか? 若葉区桜木町の国指定史跡「加曾利貝塚」がその代表的な例でしょう。
あすみが丘および昭和の森の縄文時代遺跡(1万6千年前~2千5百年前)あすみが丘


1万3千年前から4千5百年前の縄文早期から中期の遺跡が多いのが特徴です。縄文後期以降から弥生時代にかけては、あすみが丘の遺跡は極端に少なくなります。
人々は何処に行ったのでしょうか? この頃から、千葉市および市原市の東京湾岸の遺跡が増えているので、そちらに移ったのでしょうか?
若葉区桜木町の国指定史跡「加曾利貝塚」がその代表的な例でしょう。

当時は、地球の温暖化がみられ、あすみが丘の気温は、今よりも気温は2、3℃高く、海面が上がり、海は東京湾岸で、誉田・鎌取辺りまで、九十九里側で昭和の森の下、1キロ辺りまで迫っていたことが貝塚の分布からわかっている。房総半島は村田川と大網白里辺りが一番狭くなっていた。この状況を「縄文海進」といいます。

見つかった縄文土器 あすみが丘プラザの展示室には、文六1・弥三郎1の遺跡から出た縄文前期の縄文土器が見られます。中期・後期の複雑なデザインのものではなく、シンプルなデインの土器です。

あすみが丘プラザの展示室には、あすみが丘から出た石鏃と狩りに使った落とし穴が出ています。この時代になると、比較的小型のシカやイノシシが狩りの対象になったと言われています。昭和の森の辰の台遺跡からは貝塚も見つかっているそうです。温暖な縄文時代は、木の実やイノシシ・シカの山の幸、貝や魚の海のさちに恵まれた時代だったと思われます。また、土器の発達は食料の貯蔵・煮炊きの技術も進歩し、豊かな生活が営まれていたと思われます。

部分抜粋記事~

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