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気象もすべて「科学」である

100年間「猛暑」がない、はタダの偶然ではなく科学的実証があった、という話し 玉前伝承

昨日は、100年間「猛暑」がないというアリスの国が千葉県にあったという話をして、アッと驚かせましたが、さて、と私の個人データストックをいろいろ知らべてみると、さもありなん、当然の結果として上総の一宮地方は、古来より「避暑地」として名を馳せた別荘地だったのです。

また先日の「鎌倉殿」では玉前神社ゆかりの「上総之介広常」※上総氏は、平忠常を祖とする房総平氏。上総介として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた豪族。上総広常(かずさひろつね)は、上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総介広常」の呼称が広く用いられる。(鎌倉手帳)

が、大河ドラマで全国配信されて有名になりましたが、そんな逸話が数多くのこっているのが「上総一之宮」という人口1.2万の小さな田舎町なのです。

また「芥川龍之介」ゆかりの投宿「一宮館」があって、その建物が記念館として保存されています。

■芥川龍之介書簡(恋文全文)
大正五年八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて
文ちゃん。
僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして 暮らしてゐます。何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから 奮発して 一つ長いのを書きます ひるまは 仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが 夕方や夜は 東京がこひしくなります。さうして 早く又 あのあかりの多い にぎやかな通りを歩きたいと思ひます。しかし、東京がこひしくなると云ふのは、東京の町がこひしくなるばかりではありません。東京にゐる人もこひしくなるのです。さう云う時に 僕は時々 文ちゃんの事を思ひ出します。文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでせう。
(中略)
この手紙は 人に見せても見せなくても 文ちゃんの自由です。一の宮は もう秋らしくなりました。木槿の葉がしぼみかかったり 弘法麦の穂がこげ茶色になったりしてゐるのを見ると 心細い気がします。僕がここにゐる間に 書く暇と書く気とがあったら もう一度手紙を書いて下さい。「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまひません。が 書いて頂ければ 尚 うれしいだらうと思ひます。
これでやめます 皆さまによろしく 「芥川龍之介」
一宮館 〒299-4301千葉県長生郡一宮町一宮9241
Tel.0475-42-2127 Fax.0475-42-5983

そんな場所を文学ロードとし案内するサイトもある。

千葉ゆかりの文学を巡る
場 所 山武市内にある伊藤左千夫の生家(県指定史跡)と山武市歴史民俗資料館、および一宮町にある一宮館・芥川荘(国登録有形文化財)など。 https://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/b-shigen/meguru/documents/meguru02.pdf

ではなぜ、芥川龍之介が、その一宮が気に入って「白砂青松」の海浜(いまではサーファーのメッカ)にいたのか、その理由です。
その当時の町長が、別荘誘致をするのに、中央政界の主要人物に一宮広告宣伝して、住まわせた、という記録があります。その筆頭が前首相だった「斎藤実」で、その跡地に碑文が顕彰されています。
その理由ですが昔から東の大磯、と謳われ高級別荘地とし知れ渡っていたのです。
2020オリンピックサーフィン会場を選ぶときの候補が、その湘南大磯と、上総の一宮が絞られた、という話しでした。結果は知っての通り、太東岬(いすみ町)海浜で行われました。大河ドラマ「鎌倉殿」の経緯も絡んでいたのでしょう。

■斎藤 実(さいとう まこと:齋藤 實、1858年12月2日〈安政5年10月27日〉- 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。出生時の名前は富五郎(とみごろう)といったが、海軍兵学校卒業後に改名した。号は皋水(こうすい)。総理大臣であった犬養毅が海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣として、陸軍関東軍による前年からの満州事変など混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった国際連盟を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣総辞職した。その後内大臣となって宮中にまわったが、直後に二・二六事件で暗殺された。ウイキペディア

では、どうして国家中枢の人物たちが、そんな小さな田舎町に大挙しておしよせたのかといったら、やはりそれなりの理由があるからです。
それを全部説明すると、note字数10万字程度に膨大な文記録が、私の庫書に記録されてます。歴史に興味のある方は、断片的に書き出した、それらの伝記歴史書を読んだこととおもいますが、ない人にとっては猫に小判です。

そのとっかかりは、一宮町長であった「加納久宜」にすべてが凝縮されている。

加納久宜(かのう・ひさよし) 【生没】1848(嘉永元)-1919(大正8)
【生地】武蔵国
【家系】大友氏
【実父】立花種道
【略伝】
 筑後三池藩主の子に生まれるが、1867(慶応3)年、親族の上総一宮藩主加納久恒が没すると、その養子となって一宮藩主となる。維新後は一宮藩知事となるが、1871(明治4)年の廃藩置県後は新政府に出仕して文部省に勤務し、後に判事に転じて大審院検事などを務める。1890(明治23)年の帝国議会開設時に貴族院議員となり、1894(明治27)年には鹿児島県知事に就任。その一方で、日本体育会会長なども歴任した。晩年は旧領一宮で町長を務め、民政に心を砕いて「現代の二宮尊徳」とも称された。【索引】大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典

上総介広常「誅殺」


さてその別荘地の根拠ですが、統計的に気象データに残っているもので証明されています。

1930年頃の中央気象台(現・気象庁)大手町時代の庁舎 1871年(明治4年)8月14日 -工部省が10寮と測量司で発足する。1875年(明治8年)6月1日 - 東京気象台創設。チャレンジャー号海洋探検隊チャールズ・トムソンとトーマス・ティザードの指導を受け、公式観測の開始(毎日3回)。ウイキペディア

100年前の話しですから、その1930年頃の中央気象台(現・気象庁)から始まった気象庁記録データが根拠でしょう。

それら、前書の歴史記述書を見れば、暑いとか寒いとかいう以前に、まず避暑という地の利で、一宮が脚光されていたようです。また、九十九浜西端の太東岬は、古来より「玉依姫」(玉前祭神)が招来した海浜として伝説が残っており、それ以降の「玉前神社」の謂れが連綿と語り継がれているのです。

いや長くなってしまい、ますます饒舌で止まりませんが、この続きは、断片的に「歴史伝記小説」として、書きたいとおもいますので期待してお待ちください。

※追伸、ですが今朝4時30分ころ草刈り現場の海浜駐車場にいったら、すでに満車で、草刈りスペースがどこにもない。
日中は「猛暑日」ですから、それを避けようと、その時間にいったら、サーファーたちは、その先手を打ってきた。これには勝てない。
といっても皆さん、普段は過酷な都会で仕事をしているので、せめて休日くらいは、田舎の波で悠々遊びたいのでしょう。ごゆっくり・・・どうぞ



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