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古代アクロポリスの栄枯盛衰(パルティア)

2020年07月11日記事(再編集)

古代都市国家「パルティア」1

アルサケス朝パルサワ
パルティアという名称は、元来イラン高原北東部に位置する一地方名であり、アケメネス朝(前550年頃 - 前330年)時代には「パルサワ」という名前で記録に登場する。
(パルティアは、古代イランの王朝。王朝の名前からアルサケス朝とも呼ばれ日本語ではしばしばアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。古代中国では安息と呼称された。 ウィキペディア)

アサケス朝という王朝の名前は、建国者とされるアルサケス1世(古代ギリシア語:アルサケース、Ἀρσάκης Arsakēs、パルティア語:アルシャク、 𐭀𐭓𐭔𐭊、Aršak)から来ている。彼は中央アジアの遊牧民の一派、パルニ氏族の族長であり、前3世紀半ばにパルティア地方を征服してこの王朝を打ち立てた。以降、歴代の王たちは彼の名前、アルサケスを代々受け継いだ。

ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代には、シリアに本拠地を置くセレウコス朝からメディアとメソポタミア、バビロニアを奪い取り、その領土は大幅に拡大した。最盛期には、その支配はユーフラテス川の北、現在のトルコ中央東部から、東はイラン高原にまで達した。パルティアの支配地は、地中海のローマと、中国の漢朝の間の交易路であるシルクロード上に位置しており、交易と商業の中心となった。

パルティア人は様々な地域的文化を持つ領域を支配し、ペルシア(英語版)やギリシア、そして更に各地の文化から、芸術、建築、宗教的信条、王権観など様々な要素を採用した。アルサケス朝の治世の前半には、宮廷はギリシア文化(英語版)の要素を強く採用しており、王達は「ギリシア愛好者(ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣ)」という称号をコインに刻んだ。そして時代が進むにつれイラン的伝統が徐々に復活した。

アルサケス朝の支配者はかつてのアケメネス朝やセレウコス朝の王たちと同じく「諸王の王」という称号を帯びた。アルサケス朝の勢力が拡大するとともに、中央政府の拠点はニサからティグリス河畔のクテシフォン(テーシフォーン、現在のイラク、バグダードの南)に移されたが、他の複数の都市も首都として機能していた。

パルティアの初期の敵は西ではセレウコス朝、東ではスキタイ人であった。パルティアの建国当初、セレウコス朝はパルティアを服属させるべくたびたび遠征を行った。

その後パルティアの優勢は確実なものとなり、セレウコス朝はローマによって滅ぼされた。パルティアとローマが西アジアで互いに勢力を拡張した結果、両者は各地で衝突するようになった。パルティアとローマはともに、自らの属王としてアルメニア王(英語版)を擁立しようと競い合った。パルティアは前53年にカルラエの戦いでマルクス・リキニウス・クラッスス率いるローマ軍を完全に撃破し、前40年から前39年にかけては、テュロス市を除くレヴァント地方をローマから奪い取った。しかしその後、ローマの反撃によってシリアから撃退された。2世紀以降の戦争では、たびたびメソポタミアとバビロニアにローマ軍が侵入し、数度にわたり首都のセレウキアとクテシフォンを占領された。また、王位をめぐるパルティア人同士の間の頻繁な内戦は、国家の安定にとって外国の侵略よりも重大な影響を及ぼした。

最終的にパルティアはファールス地方のエスタフルの支配者、アルダシール1世が反逆し、分裂していたパルティアの王の一人、アルタバノス4世(アルタバーン4世)が224年に戦いに敗れ殺害されたことで滅亡した。だが、アルサケス家の分流がアルメニア(英語版)、イベリア(英語版)、コーカサスのアルバニア(英語版)の王家としてその後も生き残った。

パルティアの歴史は不明瞭な部分が多い。パルティア自身が残した史料は、後のサーサーン朝や、かつてのアケメネス朝の史料に比べ乏しく、散在する楔形文字粘土板文書、オストラコン、碑文、コイン(ドラクマ貨)、幸運にも生き残ったいくつかの羊皮紙文書が残されるのみである。

後のイスラーム時代のイランではパルティアの歴史の大部分は忘れ去られ、非常に大雑把で不正確な記録しか残されていない。このため、その歴史のほとんどは外国の記録を通してのみ知ることができる。この外国史料は主にギリシア(英語版)とローマ(英語版)の歴史書であるが、中国(英語版)の漢朝によって残された記録もある。

またパルティアの芸術(英語版)作品は、その文書史料の存在しない社会および文化的な側面を理解するための有用な情報源であると現代の歴史家たちによって評価されている。


voice.KORGコルグmusic

少年時代のアウレリウス像


起源と建国

初代王とされるアルサケス1世は、アルサケス朝を創設する前は、古代中央アジアのイラン系部族で、ダハエ氏族連合に属する遊牧民パルニ氏族の族長であった。イラン北東部に位置するパルティア地方は、かつてはアケメネス朝の、その後セレウコス朝の支配下にあった。前3世紀半ば頃、東方におけるセレウコス朝の支配は弱体化しつつあり、前250年頃にはバクトリアのサトラップ(総督)であったディオドトス1世がセレウコス朝の支配から独立した。続いて、パルティア地方ではやはりサトラップであったアンドラゴラスが、前240年代初頭にセレウコス朝から離脱した。

画像 銀貨の両面。左側は男性の頭部が、右側の面は座している人物が打刻されている。アルサケス1世(アルシャク1世、在位:前247年-前211年)のドラクマ銀貨。ギリシア文字で彼の名前(ΑΡΣΑΚΟΥ)が刻まれている。

アルサケス1世と、その弟のティリダテス1世(ティルダート1世)は、このアンドラゴラスを破ってパルティア地方を支配下に置いた。これがパルティア王国(アルサケス朝)の成立である。しかし、この出来事が正確にいつ頃の事であるのかはわかっていない。アルサケス朝の宮廷はアルサケス起源の初年を前247年に設定したが、これがアンドラゴラスを打倒した年であるかどうかはわからない。アルサケス1世は、未だ位置不明のアサーク(英語版)というパルティアの都市で即位式を行った。

アルサケス1世とティリダテス1世の関係、アルサケス1世の死、その後継者が誰なのかという問題についてもはっきりとはわかっておらず、後継者は弟であるティリダテス1世である可能性と、ティリダテス1世の息子アルサケス2世(アルシャク2世、アルタバノスとも)である可能性がある。アルサケス朝の王たちは全て、初代王の名前アルサケス(アルシャク)を受け継いだ。このため、「英雄」という意味を持つこの名前は個人名ではなく、王を意味する普通名詞であったとする考え方もある。このことから、アルサケス1世と当初より行動を共にし、その弟であるとされるティリダテス1世は、実際にはアルサケス1世と同一人物であるとする説もあった。現在では、後のパルティア王プリアパティオスが、アルサケス1世の甥の子孫であると示すオストラコンが発見されていることから、やはりこの二人は別個の人物であるという見解が一般的である。

紀元前240年頃の西アジア

セレウコス朝に西側からエジプト王プトレマイオス3世(在位:前246年-前222年)が侵入し、第三次シリア戦争(前246年-前241年)が勃発したことで、アルサケス1世とティリダテス1世に有利な環境が生まれ、彼らはしばらくの間パルティアとヒュルカニアで地歩を固めることができた。この戦争は、バクトリアにおいてもディオドトス1世が政権を安定させ、グレコ・バクトリア王国を形成することを可能とした。パルティアはディオドトス1世の後継者、ディオドトス2世との間に対セレウコス朝の同盟を結んだが、アルサケス1世(またはティリダテス1世)はセレウコス2世(在位:前246年-前225年)の軍勢によって一時的にパルティアから駆逐された。そして遊牧民アパシアカエ(英語版)の中で亡命生活をしばらく送った後、反撃に転じてパルティアを再占領した。セレウコス2世の後継者アンティオコス3世(大王、在位:前222年-前187年)は、軍をメディアで発生していたモロンの反乱の鎮圧にあてていたため、即座に反撃に出ることはできなかった。

情勢が安定すると、アンティオコス3世はパルティアとバクトリアを再び支配下に置くべく、前210年から前209年にかけて大規模な遠征を開始した。彼は目的を達成できなかったが、新たにパルティア王となっていたアルサケス2世は和平交渉でアンティオコス3世を上位者と認めた。そして代償として王(希:Basileus、バシレウス)の称号が付与された。 セレウコス朝は前190年のマグネシアの戦いで共和制ローマに敗れ、その脅威によってそれ以上パルティアでの出来事に介入することはできなくなっていた。パルティアではプリアパティオス(在位:前191年-前176年頃)がアルサケス2世の跡を継いだが、史料からは彼が「アルサケス1世の甥の子孫」であることと、アルサケス2世の後継者であったこと以外何もわからない。続いてプラアテス1世(フラハート1世、在位:前176年-前171年頃)がパルティア王位に昇った。プラアテス1世はセレウコス朝の干渉を受けることなくパルティアを統治した。

拡大と統合「セレウコス朝とパルティアの戦争」

岩の側面に刻まれた摩耗したレリーフ。男性と複数の人物が乗馬している場面を描いている。

岩に刻まれたミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年頃-前138年)のレリーフ。王が乗馬している場面。イラン、フーゼスターン州、イゼー(英語版)市、コング=エ・アズダール(Kong-e Aždar)

プラアテス1世はかつてのアレクサンドロスの門(英語版)を超えて位置不明のアパメア・ラギアナ(英語版)市を占領し、パルティアの支配を拡大したと記録されている。だが、本格的にパルティアの勢力が拡大してその領土が広がったのは、彼の弟であり後継者であるミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年頃)の治世中である。カトウジアンは彼をアケメネス朝の創設者キュロス2世(大王、前530年死去)に例えており、日本の研究者「山本由美子」は「真の意味でのパルティア帝国の建設者であった」と評している。

グレコ・バクトリアで内紛が発生し、ディオドトス2世の王位がエウクラティデス1世(在位:前170年-145年頃)に奪われた後、ミトラダテス1世はバクトリアからタプリナとトラクシアナという二つの州(英語版)を奪取した。その後、ミトラダテス1世の視線は西方に転じた。当時セレウコス朝のアンティオコス4世はユダヤ人の反乱に対応するためにパレスチナに軍を集結させていたが、この間にアルメニア王アルタクシアス1世と、メディア王ティマルコスがセレウコス朝の統制下から離れたため、これらを鎮撫すべく遠征を開始した。アンティオコス4世はアルメニアを抑え、メディアの首都エクバタナ、ペルシスのペルセポリスを経てエリュマイスへ進軍したが、現地人の抵抗によって敗退し、ガバエ(現:イスファハーン)で倒れた。

パルティアのミトラダテス1世は、前161年には東側からメディアに侵入し、前155年までにメディア王ティマルコスを倒してメディアを征服した。この勝利に続いて、更に肥沃なメソポタミアを目指し、前141年までにはバビロニアを征服した。彼は前141年にセレウキアでコインを鋳造し、公的な即位式を行っている。その後ミトラダテス1世は東部での問題の対応のためにヒュルカニアへと戻ったが、残された軍隊はエリュマイスとカラケネを征服し、スサ市を占領した。歴史家オロシウスの記録では、ミトラダテス1世の時代にはヒュダスペス川からインダス川の間の一切の民族を支配したとも言う。これは実際にはペルシアのある川からインダス川にいたる、古来争奪されていた地域を漠然と表現したものであると推定されている。

セレウコス朝では前142年に首都アンティオキアで将軍のディオドトス・トリュフォンが反乱を起こしたため、このパルティアの進撃に対応することができなかった。しかし、前140年までにはデメトリオス2世がメソポタミアでパルティアに対する反撃を開始した。パルティアは当初不利であったが、ミトラダテス1世はこれを撃退することに成功し、デメトリオス2世自身を捕らえてヒュルカニアに連行した。ミトラダテス1世は虜囚となったデメトリオス2世を王者として扱い、娘のロドグネ(英語版)と結婚させた。

ミトラダテス1世の治世の間、ヘカトンピュロスがパルティアの最初の首都として機能していたが、彼はセレウキア、エクバタナ、クテシフォン、新たに建設した都市ミトラダトケルタ(トルクメニスタンのニサ)にも王宮を建設した。ミトラダトケルタにはその後アルサケス朝の王たちの墓が建設された。エクバタナはアルサケス朝の王族たちの主たる夏宮となった。クテシフォンはゴタルゼス1世(ゴータルズ1世、在位:前90年-前80年頃)の治世まで公式な首都とはならなかったと思われるが、歴史学者のマリア・ブロシウス(Maria Brosius)によればこの地は戴冠式を執り行う場所となり、アルサケス朝を代表する都市であった。

歴史学者のA.D.H.ビヴァール(英語版)は、このミトラダテス1世の治世最後の年である紀元前138年が「パルティアの歴史の中で正確に確定できる最初の年」であるとしており、デベボイスもまた前137年/前138年のミトラダテス1世の死が「貨幣と楔形文字の記録を元に確定されたパルティアの最も古い年代である。」としている。

コインの両面。左図は髭のある男性の頭部、右図は立っている人物

パルティア王ミトラダテス1世のドラクマ貨。髭を蓄え、ディアディム(英語版)をかぶっている。

ミトラダテス1世の跡を継いだのは幼い王子プラアテス2世(フラハート2世、在位:138年-前129年)であった。一方、セレウコス朝ではデメトリオス2世の兄弟のアンティオコス7世(在位:前138年-前129年)が王位を引き継いだと想定される。彼はデメトリオス2世の妻、クレオパトラ・テアと結婚した。ディオドトス・トリュフォンの反乱を完全に鎮圧した後、前130年にアンティオコス7世はパルティアの支配下にあるメソポタミアを奪回するための遠征を開始した。

パルティアの将軍イダテスは大ザブ川沿いで撃破され、その後バビロニアでも反乱が発生して将軍エニウスがセレウキアの住民によって殺害された。アンティオコス7世はバビロニアを征服し、スサも占領してその地でコインを発行した。その後、彼の軍隊がメディアへ進軍すると、パルティアは和平を求めた。アンティオコス7世が提示した和平の条件は、アルサケス朝がパルティア地方を除く全ての土地を譲渡し、莫大な賠償金を払い、デメトリオス2世を虜囚から解放するという過酷なものであった。

パルティアはデメトリオス2世を解放しセレウコス朝の本国シリアへ送ったが、他の要求は拒否した。だがアンティオコス7世と彼の軍勢は、メディアで越冬する間に物資を使い果たし、住民から厳しい徴発を行ったために、前129年の春までにメディア人が公然と反逆し始めた。アンティオコス7世がこの反乱の鎮圧を試みている間にパルティア軍の主力がメディアに押し寄せ、彼を殺害した。パルティアはアンティオコス7世の死体を銀の棺に入れてシリアに送り返し、彼の幼い息子のセレウコスを捕らえた。そしてアンティオコス7世に同行していたデメトリオス2世の娘もこの時捕らえ、彼女はプラアテス2世の後宮に入った。

ミトラダテス2世(在位:前124年-前90年頃)のドラクマ貨

こうしてパルティアは西方における失地を回復したが、別の脅威が東方で生じていた。既に前177年から前176年にかけ、匈奴の遊牧民部族連合が、遊牧民の月氏を、現在の中国西北部の甘粛省にあった彼らの故地から追いやっていた。月氏は西へ逃れバクトリアに移住し、サカ(スキタイ)人の部族を放逐した。サカ人は更に西へと追い立てられ、パルティアの北東国境地帯へ侵入していた。かつて、ミトラダテス1世はこれに対処するため、メソポタミアを征服した後ヒュルカニアへ戻ることを余儀なくされた。

このサカ人は、プラアテス2世の時代にはアンティオコス7世と戦うパルティア軍に傭兵として加わったが、彼らは実際の戦闘には間に合わなかった。このためプラアテス2世は彼らに賃金を支払うことを拒否したが、結果としてサカ人たちは反乱を起こした。
プラアテス2世は捕虜にしたセレウコス朝の元兵士たちをこれに当てて鎮圧しようとしたが、彼らは非常に冷遇されており、パルティア人の戦列がぐらついたのを見ると、瞬く間にサカ人の下へと寝返った。この結果、プラアテス2世は彼らによってその軍隊もろとも虐殺された。ローマ人の歴史家、ユスティヌスは彼の叔父で、次の王になったアルタバノス1世(アルタバーン1世、在位:前128年-前124年頃)が、東方の遊牧民との戦いの中で前任者と同様の運命を辿ったことを報告している。それによれば、アルタバノス1世はトカロイ族(吐火羅、月氏と推定される)によって殺害された。なお、ビヴァールはユスティヌスはトカロイ族にサカ人たちを含めていると考えている。

同じ頃、プラアテス2世によってバビロニア総督に任命されていたヒメロスはペルシア湾岸のカラクス・スパシヌ(英語版)に拠点を置くヒスパオシネス統治下のカラケネ王国を征服するように命じられた。しかし、この企ては失敗し、逆にヒスパネシオスが前127年にバビロニアに侵入、セレウキアを占領した。

前124年に新たな王となったミトラダテス2世(ミフルダート2世、在位:前124年-前90年頃)は、同名の王ミトラダテス1世と同じく傑出した王として数えられている。彼はヒスパネシオスをバビロニアから排除し、パルティアの宗主権下に置いた。また、シースターンでサカ人によって失われた領土を回復した。

ミトラダテス2世は前113年にドゥラ・エウロポスを占領してパルティアの支配を更に西方まで拡大した後、アルメニア王国を攻撃した。彼はアルメニア王アルタヴァスデス1世(英語版)を撃破して廃位し、その息子ティグラネスを人質とした。このティグラネスは後のアルメニア王ティグラネス2世(大王、在位:前95年頃-前55年)である。

インド・パルティア王国 詳細は「インド・パルティア王国」
紀元前1世紀、現在のアフガニスタンとパキスタンにまたがる地域に、歴史学者によってインド・パルティア王国と呼ばれるパルティア人の政権が成立した。アゼス2世、もしくはゴンドファルネス(ゴンドファレス)などの王たちが建設したこの王国は、カーブル周辺のギリシア人の王国を滅ぼし、インダス川河口部のサカ人たちも支配下に置いていた。インド・パルティアの王ゴンドファルネスはギリシア語とインドの現地語で「諸王の王(basileōs basileōn/maharaja rajatiraja)」と刻んだコインを発行し、大王(maharaya)と称する碑文も残している。このインド・パルティア王国と、一般にパルティア王国と呼ばれる西アジアの王国の関係は明瞭ではない。ビヴァールはこの二つの国家は政治的に同一と考えられると主張している。

ローマとの戦争と交渉
北部インドで月氏のクシャーナ朝が成立した結果、パルティアの東部国境の大部分が安定した。この結果、前1世紀半ばのパルティアは主としてローマに対して積極策に出て、西部国境の安全を勝ち取ることに集中した。ミトラダテス2世がアルメニアを征服した翌年、ユーフラテス川でパルティアの外交官オロバズス(英語版)とローマのキリキア属州総督(プロコンスル)ルキウス・コルネリウス・スッラが会談した。この会談で、両者は恐らくユーフラテス川をパルティアとローマの国境とすることに合意した。ただし複数の学者が、スッラはこの条項をローマ本国に伝達する権限しか持っていなかったと主張している。

その後、パルティアはシリアでセレウコス朝のアンティオコス10世(在位:前95年-前92年?)と戦い、彼を殺害した。最末期のセレウコス朝の君主の一人、デメトリオス3世はバロエア(現:アレッポ)の包囲を試みたが、パルティアは現地住民に援軍を送り、デメトリオス3世を撃退した。

オロデス1世(ウロード1世、在位:前90年頃-前80年頃)のドラクマ貨

ミトラダテス2世の治世の後、パルティアの王権は分裂したように思われる。バビロニアをゴタルゼス1世が、王国の東部をオロデス1世 (ウロード1世、在位:前90年頃-前80年頃)が、それぞれ分割して統治した。この分割統治体制はパルティアを弱体化させ、アルメニア王ティグラネス2世が西部メソポタミアでパルティアの領土を切り取ることを可能とした。この時失われた領土はシナトルケス王(サナトルーク、在位:前78年頃-前71年頃)の治世までパルティアに戻らなかった。

アナトリア地方ではローマとポントス王国の間で戦争が勃発した(第三次ミトラダテス戦争)。ポントス王ミトラダテス6世(在位:前119年-前93年)と同盟を結んでいたアルメニア王ティグラネス2世はローマに対する同盟をパルティアに依頼したが、パルティア王シナトルケスは救援を拒否した。前69年、ローマの将軍ルキウスがアルメニアの首都ティグラノケルタに進軍したため、ポントス王ミトラダテス6世とアルメニア王ティグラネス2世は再びパルティアのプラアテス3世(フラハート3世、在位:前71年-前58年)に援軍を依頼した。しかし、結局プラアテス3世はどちらにも援軍を送ることはなく、ティグラノケルタ陥落の後に、ユーフラテス川がパルティアとローマの国境であることを再確認する協定を結んだ。

この混乱の中でアルメニア王ティグラネス2世の息子である小ティグラネスは父親からの王位簒奪を企んで失敗した。彼はパルティア王プラアテス3世の下へ逃亡し、彼を説得してアルメニアの新たな首都、アルタクシャタ(英語版)に進軍することを決意させた。この進軍とその後の包囲は失敗し、小ティグラネスは今度はローマの将軍ポンペイウスの下へと逃亡した。彼はポンペイウスにアルメニアの道案内をすると約束した。
しかし、ティグラネス2世がローマの属王となることを受け入れると、小ティグラネスは人質としてローマに送られた。プラアテス3世はポンペイウスに小ティグラネスを自身の下へ送還するよう要求したが、ポンペイウスは拒否した。この結果、プラアテス3世はゴルデュエネ(英語版)(現:トルコ南東部)への侵攻を開始した。これはローマの執政官(コンスル)ルキウス・アフラニウス(英語版)によって排除されたと伝わる。

クラッススとアントニウスとの戦い

プラアテス3世は息子のオロデス2世(ウロード2世、在位:前57年頃-前37年頃)とミトラダテス3世(ミフルダート3世、在位:前57年頃-前55年)によって暗殺された。
その後すぐに二人の兄弟は争いを始め、敗れたミトラダテス3世はメディアからローマ領シリアへと逃げ込んだ。彼はローマのシリア属州総督(プロコンスル)アウルス・ガビニウスの支援を得たが、プトレマイオス朝(エジプト)の王プトレマイオス12世(在位:前80年-前58年、前55年-前51年)が多額の謝礼金を積んで反乱の鎮圧支援をガビニウスに依頼すると、ガビニウスはエジプトへ転身した。
ミトラダテス3世はローマがあてにならないことを悟ると自力での再起を目論んで故国へと戻った。彼は当初バビロニアの征服に成功し、前55年までセレウキアでコインを発行している。この年、オロデス2世の将軍がセレウキアを再占領し、ミトラダテス3世は処刑された。この将軍の名前はスレナス(スーレーン氏族の者の意)という彼の出身氏族名でのみ知られている。

新たにローマのシリアの属州総督(プロコンスル)となり、三頭政治の一角でもあったマルクス・リキニウス・クラッススは、前53年に遅ればせながらミトラダテス3世の支援のためパルティアへの侵攻を開始した。彼がカルラエ(現:トルコ南東部、ハッラーン)に進軍した時、オロデス2世はシリアをスレナスに任せ、ローマの同盟者であったアルメニア王アルタヴァスデス2世(在位:前53年-前34年)とローマの間を断ち切るべくアルメニアへ進軍した。

そしてアルタヴァスデス2世に、パルティアの王太子パコルス1世(前38年死去)とアルタヴァスデス2世の姉妹との婚姻同盟を結ぶように説得した。一方、スレナスの軍勢はカルラエで4倍もの数を誇ったクラッススのローマ軍を撃破してパルティアの威信を高めた(カルラエの戦い)。敗れたクラッススは講和の席で部下によって殺害された。


ウイキペディア

カルラエにおけるクラッススの敗北は、ローマにとっては史上最も大きな軍事上の敗北の一つである。パルティアはローマと同等の勢力というまでではないにせよ、勝利によってその威信を強固なものとした。従卒や捕虜、貴重なローマの戦利品を携えて、スレナスはセレウキアまで700キロメートルの道のりを凱旋し勝利を祝った。だが、王位に対するスレナスの野心を恐れたオロデス2世は、この後間もなくスレナスを処刑した。

マルクス・アントニウス(左)とオクタウィアヌス(右)の肖像が刻まれたローマのアウレウス貨。前43年のオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治の確立を祝って前41年に発行された。

クラッススに対する勝利で勢いづいたパルティアは西アジアにおけるローマ領の奪取を試みた。王太子パコルス1世と彼の将軍オサケスはシリアを襲撃し、前51年にはアンティオキアまで達した。しかし、彼らはガイウス・カッシウス・ロンギヌスに撃退され、その待ち伏せによりオサケスが殺害された。

前49年以降、ポンペイウスがユリウス・カエサルと戦ったローマの内戦ではパルティアはポンペイウス側に味方した。ポンペイウスはカエサルに敗れ、カエサルがローマで独裁的な権力を握ったが、彼は前44年に暗殺された。その後のフィリッピの戦い(前42年)の際にはブルトゥスとカッシウスたちは、カエサルの後継者オクタウィアヌスに対抗するための援軍をパルティアに求めた。ブルトゥスらの敗死によってこの援軍は実現しなかったが、この時使者としてパルティアに派遣されたクィントゥス・ラビエヌスは、前40年にパルティア軍の司令官パコルス1世に随伴してローマ領シリアに侵攻した。三頭政治の一角、マルクス・アントニウスはイタリアへ進発するためにパルティア軍からのローマ領防衛を指揮することができなかった。シリアがパコルス1世の軍勢に占領された後、ラビエヌスはパルティア軍の主力の一部を率いてアナトリアに侵攻し、パコルス1世とその将軍バルザファルネス(英語版)がローマ領のレヴァント地方へ侵攻した。ラビエヌスはアナトリアのほぼ全ての都市を占領し、パコルス1世は地中海の海岸に沿って、南はプトレマイス(現:イスラエル領アッコ)に至る全ての都市を、ティルス市を除いて制圧した。ユダエア(ユダヤ)では、親パルティア派のアンティゴノス2世マッタティアス(在位:前40年-前37年)率いるユダヤ人が、パルティア軍と共に、ローマ派の大祭司ヨハネ・ヒュルカノス2世、ファサエル(英語版)、そしてヘロデらの指揮するユダヤ人を打ち破った。アンティゴノス2世マッタティアスはユダエアの王となり、ヘロデはマサダの砦へと逃亡した。

しかし、パルティアは間もなくローマの反撃によってレヴァント地方から放逐された。マルクス・アントニウスの部下プブリウス・ウェンティディウス・バッススは、前39年にキリキア門の戦い(英語版)(現:トルコ領メルシン県)でラビエヌスを破ってこれを処刑した。その後すぐに、ファルナパテス率いるシリアのパルティア軍もアマヌス街道の戦い(英語版)でウェンティディウスによって打ち破られた。この結果、パコルス1世は一時的にシリアから撤退した。彼は前38年の春に再びシリアに入り、アンティオキアの北東にあるギンダロス山の戦い(英語版)でウェンティディウスに相対した。パコルス1世はこの戦いの最中戦死し、パルティア軍はユーフラテス川を渡って後退した。彼の死は老齢のオロデス2世にとり重大な痛手であったであろう。彼はパコルス1世に代わる新たな後継者としてプラアテス4世(フラハート4世、在位:前38年-前2年頃)を選んだ。

ティア王プラアテス4世(フラハート4世、在位:前38年-前2年頃)のドラクマ貨

しかしプラアテス4世は間もなく父親を殺害し、即位直後には兄弟たちを殺害すると共に、数多くのパルティア貴族を追放した。彼らのうちの一人、モナエセスはローマのアントニウスの下へ逃げ、彼にパルティアへ侵攻(英語版)するように説得した。状況有利と見たアントニウスはパルティアへの侵攻を決意した。アントニウスはユダヤのパルティア同盟者アンティゴノス2世を前37年に打倒し、ヘロデを属王としてユダヤの王に据えた。翌年、アントニウスはアルメニアのエルズルム市に進軍し、アルメニア王アルタヴァスデス2世にローマとの同盟を強要した。アントニウスはパルティアと同盟を結んだメディア・アトロパテネ(現:イラン、アーザルバーイジャーン)の王、アルタヴァスデス1世(英語版)を攻撃した。目的は現在では位置不明となっているその首都、プラースパを占領することであった。しかし、プラアテス4世はアントニウス軍の後方を襲って孤立化させ、プラースパ包囲も撃退した。アルメニア王アルタヴァスデス2世は戦闘の前後にアントニウスの軍を見限って逃亡していた。
パルティアはアントニウス軍をアルメニアへの撤退に追い込むことに成功し、退却路で更なる襲撃を続けた。大きな損害を受けたローマ軍は最終的にシリアへと帰還した。この後、アントニウスはローマ軍敗北の原因を作ったアルタヴァスデス2世を罠に誘いこみ、前34年にこれを捕縛してローマに送った後処刑した。アントニウスはアルメニアを平定し、プラアテス4世とメディア・アトロパテネ王アルタヴァスデス1世の関係が悪化すると、アルタヴァスデス1世との同盟を試みた。しかしアントニウスはオクタウィアヌスとの内戦に備えなければならず、この企ては前33年にアントニウスと彼の軍勢がアルメニアから撤退した時に放棄された。前31年にアントニウスがオクタウィアヌスに敗れエジプトで自殺する前後、パルティアと結んだアルタクシアス2世(英語版)がアルメニア王位を得た。

アルメニアを巡るローマとの対立

前31年のアクティウムの海戦でアントニウスを破ったのに続き、オクタウィアヌスは彼の政治的権威を統合し、前27年には元老院によってアウグストゥス(尊厳者)と名付けられ、ローマの初代皇帝となった。同じ頃、パルティアではティリダテス2世(ティルダート2世)が反乱を起こし短期間支配権を得たが、プラアテス4世はスキタイ系遊牧民の支援を得て迅速に支配権を回復した。ティリダテス2世はプラアテス4世の息子の一人を連れ去ってローマに逃亡した。前20年に交渉の場が持たれ、プラアテス4世は連れ去られた息子の解放のために尽力した。ローマは解放の見返りとして前53年にカルラエで失われたレギオン(ローマ軍団)の軍旗(英語版)と、生存していた当時の捕虜の返還を受けた。プラアテス4世はこの交換条件は王子を奪還するためには小さな代償であると考えた。アウグストゥスは軍旗の返還をパルティアに対する政治的勝利として歓迎した。この政治的勝利はプロパガンダとして記念コインが発行され、軍旗を収める新たな神殿も建設された。同様にプリマポルタのアウグストゥス像の胸当て(英語版)にもその場面が再現された。

プリマポルタのアウグストゥス像の胸当て(英語版)のクローズアップ。マルクス・リキニウス・クラッススがカルラエで失った軍旗をパルティア人の男性がアウグストゥスに返還している。

アウグストゥスはこの王子とともに、プラアテス4世にイタリア人の女奴隷を贈った。彼女は後にパルティアの王妃ムサとなる。
彼女の子供プラアタケスが無事に王位を継承することを確実にするために、ムサはプラアテス4世に対し、他の息子たちを人質としてアウグストゥスに送るように説得した。アウグストゥスはこの人質もプロパガンダとして活用し、レス・ゲスタエ・ディヴィ・アウグスティ(英語版)に偉大な業績として列挙している。プラアタケスがプラアテス5世(フラハート5世、在位:前2年頃-後4年頃)として王位に就いた時、ムサはこの自分自身の息子と結婚し、彼とともに統治した。パルティアの貴族たちはこの近親相姦関係を拒否し、二人は追放されるかまたは殺害された。

プラアテス5世の後に王座に据えられたオロデス3世(ウロード3世)は僅か2年で真偽の疑わしい残虐行為を理由に排除された。続いて、パルティアからローマに人質として送られていたプラアテス4世の息子を送り返すよう要請が行われ、これを受けて帰国したヴォノネス1世(在位:6年-12年)が王となった。だが、彼はローマ滞在中にローマの行動様式・習慣を身に着けており、そのローマ志向に怒るパルティアの貴族たちは、他の王位継承候補者であるアルタバノス2世(アルタバーン2世、在位:10年頃-38年頃)を支持し、彼はヴォノネス1世を破って国外へと追い出した。ヴォノネス1世はアルメニアに逃走し、当時空位だったアルメニアの王位を手に入れたが、アルタバノス2世の圧力で西暦15年か16年にはその地位を追われ、ローマへと逃走した。

アルタバノス2世の治世中、ユダヤ人平民の兄弟、アニライとアシナイ(英語版)(アニラエウスとアシナエウス)がネハルダ(英語版)(現:イラク、ファルージャ近郊)からやってきて、パルティアのバビロニア総督に対する反乱を引き起こした。総督が打ち破られた後、二人の兄弟は他の場所に反乱が飛び火するのを恐れたアルタバノス2世によって正式にバビロニアを統治する権利を付与された。その後アニライのパルティア人妻は、異教徒と結婚したことでアシナイがアニライを攻撃するだろうという恐れから、アシナイを毒殺した。最終的に、アニライはアルタバノス2世の義理の息子との武力衝突に巻き込まれ、彼によって排除された。ユダヤ人政権が瓦解すると、バビロニア人は現地のユダヤ人コミュニティ(英語版)を嫌うようになり、セレウキア市へ強制的に移住させた。西暦35年から36年にかけてセレウキア市がパルティアに対して反乱を起こした時、このユダヤ人たちは今度は当地のギリシア人とアラム人によって再び追放された。追放されたユダヤ人はクテシフォン、ネハルダ、そしてニシビスへと逃れた。

アウグストゥス治世の前19年に打刻されたデナリウス貨。フェロニア女神が表面に描かれ、背面にはパルティア人の男が跪き、カルラエの戦いで奪取したローマ軍旗(英語版)を差し出している。

直接の戦闘こそ避けられたが、パルティア王アルタバノス2世とローマ皇帝ティベリウス(在位:14年-37年)は、互いに自分の意のままになる人物をアルメニア王に擁立しようと、周辺諸国を巻き込みつつアルメニア情勢への介入を繰り返した。更にローマは自らの同盟者としてパルティアを統治させるため、人質としていたパルティアの王子、ティリダテス3世(ティルダート3世)を開放してバビロニアに送り込んだ。アルタバノス2世は一時ヒュルカニアまで撤退を余儀なくされたが、間もなくその地から動員した軍隊を用いてティリダテス3世を王座から排除した。

38年にアルタバノス2世が死去すると、ゴタルゼス2世(ゴータルズ2世)が兄弟のアルタバノスを殺害し権力を握った。もう一人の兄弟、ヴァルダネス1世は一時逃亡したが、ゴタルゼス2世と対立する貴族たちによって呼び戻され、1年後にはヴァルダネス1世が王位を奪い取った。その後も両者の戦いは、西暦48年頃にヴァルダネス1世が暗殺されるまで続いた。西暦49年、パルティアの貴族たちは権力を握ったゴタルゼス2世に対抗するため、ローマ皇帝クラウディウス(在位:41年-54年)に人質となっていた王子メヘルダテスを解放することを懇願した。しかしメヘルダテスを擁立する試みは、エデッサ総督であるアディアベネのモノバゾスの子イザテス(英語版)たちが裏切った事で失敗に終わった。メヘルダテスは捕らわれてゴタルゼス2世の下へ送られ、生きていることは許されたが耳を切断された。この処置は彼が王座を継ぐ資格を喪失させるものであった(パルティア王位に就くためには五体満足である必要があった。)。


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(ローマパルティア戦争2)



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