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伝説のヘブライ人民族指導者、預言者モーセ(画像meisterdrucke.jp)

2023年10月24日記事

話しはモーセ十戒にまで遡る、というが?

一般的に「有事の買い」というのは株では常識だし、まあ勝率51パーセントはあるでしょう。

ウオール街は、現地の凄惨さはとは馬耳東風で、切った張ったの大博打は益々熱気を帯びていることと推察されます。

戦争時相場は、硬い国債市場から回避してその金が株式に流れるという意味で供給分が上昇すると云われます。
また隣国、イランの国内事情でも様々なよみがあって、石油エネルギー関係が豊富ですが、それが理由で暴落するとか、つまりイランが関与をしてきたら需給バランスが転じて先物で゛利益を獲得できるチャンスだ゛という訳です。
昨日話題の富豪たちは、そんな情報を目敏く監視して利益をあげるのでしょう。

きようの話は、中東関連ニュースに違いありせんが、少しばかり歴史も交えて、語ってみましょう。

ギリシア、アレキサンダー大王「東征」は歴史で語られますが、西から見た「東」太陽神ですから、どうしたって審美な対象なのでしょう。それが時代を下ると、東征は、征伐の対象となって、勧善懲悪の筋書きと変更されるようになります。そんな歴史に限らず、膨大な時間が経つと、真実と虚構が逆転してしまうケースが沢山あるようです。

国内で判り易いのが「神武東征」物語で、その対象が「蝦夷」(えみし)でした。

■神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条である。 そこでは、武内宿禰(スクネ)が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文(もどろ)けて、人となり勇みこわし。
是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入れ墨(文身)をしていたことが分かっている。
蝦夷のアテルイ 古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言うが、我が軍には手向かいもしない)と歌われたこと、蘇我蝦夷、小野毛人、佐伯今毛人、鴨蝦夷のように大和朝廷側の貴族の名に使われたこと、平安時代後期には権威付けのために蝦夷との関連性を主張する豪族(安倍氏や清原氏)が登場していることから、「えみし」には強さや勇敢さという語感があったと推測されている。
そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)勇者」といったものではないかという推測もある。蝦夷のアテルイは、平安時代初期(西暦800年頃)に東北での軍事指導者だった人物。生年月日は不明。
『日本紀略』によるとアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」(たのも)は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明。
ただし、田茂山(奥州市水沢区羽田付近)とも考えられている。

画像岩手県 images (1)
この頃の東北には蝦夷(えみし)と呼ばれた縄文文化の流れを汲む部族社会があり、族長を代表として血族を中心とした100人程からなる共同体が点在した。狩猟民族として狩・漁・稲作などを「共同」で行い、暮らしていたよう。

724年に多賀城に陸奥国府が設置されると、日本の中央政権(朝廷)は軍事力で、東北の陸奥地方の蝦夷をも支配下に置こうとする。
アテルイは、ヤマトの帝(ミカド)を中心とした律令(中央集権)国家が、自分たちの文化・文明と違っていることを認識。
各地に分散している村々をまとめ「蝦夷連合」を組織化して、自らの土地・文化・文明を守るために、ヤマト朝廷と戦う決意をした。
朝廷側の資料に出てくるだけで13年の間、アテルイは戦っている。朝廷と蝦夷の間では、このように武力衝突が起きたが、朝廷側(官軍)は何度も撃退されていた。

767年、伊治城(栗原市)が造営される。
774年、蝦夷が桃生城(ももう)を襲撃。
蝦夷だった伊治 呰麻呂(これはり の あざまろ)は、ヤマト政権に仕えていたが、反乱を起こす。
780年、伊治 呰麻呂(これはり の あざまろ)の反乱。

有名な戦いとして「巣伏の戦い」がある。
789年、東北に遠征。胆沢の入口にあたる衣川にまで、朝廷軍を駐屯させていた征東将軍・紀古佐美が、789年5月末に、桓武天皇の叱責を受けて進軍を開始。
北上川の西から4000が川を渡って東岸を進んだ。
アテルイの居のあたりで蝦夷軍約300と交戦。
当初、朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追撃し巣伏村(現在の奥州市水沢区)まで至った。
しかし、蝦夷側約800が加勢し反撃。更に東山から蝦夷軍約400も現れて、朝廷軍は後方からの挟み撃ちにあった。
その為、朝廷軍は敗走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出し、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。

その後、791年に大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)が征夷大使に叙任され、武官の坂上田村麻呂も副将軍の1人として、ヤマト政権の指揮を取る事になり、遠征の準備に入った。
坂上田村麻呂は、それまでの軍制を改革し、防具を強化するなど、兵士の質を改善した。
そして、793年は大伴弟麻呂と坂上田村麻呂らが遠征開始。坂上田村麻呂は副使ながら中心的な役割を果たし794年6月には功績を上げている。
796年、坂上田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して、東北方面の軍事行政すべての権限を任され、多賀城にて更なる蝦夷討伐の準備を進め、797年には征夷大将軍も兼任する。
坂上田村麻呂は蝦夷に対して、帰順する者には、新たな土地を与え生活を保証し、律令農民との交易も認めた。その一方で、抵抗する蝦夷に対しては、断固たる態度で臨んだ。
しかし、これがヤマト政権の兵士損害を最小限に留める結果にも繋がり、部下や兵士の信頼も多く得る事になった。 部分引用

※古代アテルイとは誰か 拙著ページ抜粋 https://senjp.com/aterui/

そのことは、今綴っている白拍子シリーズ、「MRNマリアート愛ーラブ」にも及んで、神武を東に導いた(八咫ガラス)蝦夷を成敗した理由が解明できるとおもったのです。
※「日本武尊」ヤマトタケル 第12代景行天皇の皇子で第14代仲哀天皇の父

人゛歴史とリンクしない宇宙物理学エビデンスのコペルニクス地動説

国内例を挙げましたが、今話題の話は、地球の全く反対の場所の話ですが、地球回転という視点でみれば、太陽は東から西(コペルニクスでは反対の太陽起点)ですから、球体地球の東西の分け隔てはないのです。

としても、地球重力を考えれば、その僅かな時間軸のズレ巾は、出てくるでしょう。南北の時差は無い(実際は存在する)と考えて上空を飛ぶジェット機の東西時間は、調整しないと、経済指数が合いません。
その千年前の人は、そんな宇宙理論は知りませんから東征であって、西征にはならなかった。

地球の物理的座標で考えても東征(太陽周期と反対)のほうが楽なことは、判り易く、その逆に沈む太陽を追いかけて歩く、というのはドップラー効果に換算しても、陽が偏光して赤くなるばかりで、一向に青光線に転じないという堂々巡りは、やはり疲れることばかりで、それを徒労といったのでしよう。
そんなことをいまの紛争場所にスポットしてみると、その征西メカニズムに嵌ってしまった、そんなアバウトな推理プロットを当てはめてみたのでした。
あわよくば、その赤色偏光を青色偏光にシフトすることが出来れば、すべて諸悪は氷解する、という「モーセパラドックス」を提案したのです。

モーセは伝説上のヘブライ人の民族指導者で預言者

エジプトを指導してシナイ山でヤハウェ神から十戒を授けられた。モーセは英語表記では Moses で、一般にモーゼという場合も多い。
ユダヤ教の聖典であり、キリスト教でも聖典とされる『旧約聖書』で、ヘブライ人(ユダヤ人)の「出エジプト」を指導し、シナイ半島のシナイ山で神ヤハウェから十戒を授けられたとされている預言者である。イスラエルの民とユダヤ教ではアブラハムなどとともに最も重要な人物とされている。

モーセは実在したか
エジプトの指導者モーセ(ヘブライ語で「モーシュ」)であるが、聖書以外の史料にはその名は現れず、その実在は疑わしい。
しかし、最近の研究ではモーセという名はヘブライ系ではなくエジプト系の人名であり、「これは、古代の架空の人物の命名法としてはうまくできすぎている。それゆえ、エジプトを脱出したグループの指導者にこの名の人物がいたと言うことは、歴史的にも十分ありうることと考えられる。」
<山我哲雄『聖書時代史・旧約編』2003 岩波現代新書 p.30> 十戒 世界史の窓~

「聖書」の超入門】超有名エピソード「モーセの海割り」は、波瀾万丈すぎる 
https://diamond.jp/articles/-/244966?page=2 

人間が守るべき10のルール「十戒」
 モーセを指導者とするイスラエルの民はエジプトを出発しましたが、いきなり大きな患難が一行に襲いかかりました。

 一度はイスラエル人の解放をOKしたエジプト王ファラオが、「やっぱりやだ。追いかけて捕まえろ!」と、大軍を派遣してイスラエル人一行を追わせたのです。

 とうとう一行は海辺まで追いつめられてしまいました。絶体絶命、まさに背水の陣です。

 「ほら、やっぱり多少いじめられてもエジプトに残ってる方が良かったんだ!」
 「モーセが余計なことをしたせいで殺されちゃうじゃないか俺たちは!」
 「投降してエジプトに帰ろう」

 イスラエルの民は口々に不満を叫びます。

 しかしモーセは

 「神様が戦って守ってくれるから大丈夫! 君たち黙って見ていなさい!」

 と、神様の言いつけ通り、海に向かって杖を掲げました。

 するとなんと!! 海が左右にパッカ――ン!! と分かれ、道が現れたではありませんか。

 これが数々の絵画で描かれ、映画『十戒』では世界の映画史上屈指の名シーンとなった「モーセの海割り」です。

 イスラエルの民は割れた海を歩いて渡りました。その後ろをエジプト軍が追いかけてきましたが、渡っている途中で海が元に戻って、みんな溺れてしまいました。

 こうして危機を乗り越え旅を続けていく途中、シナイ山という場所で神様はモーセを山頂に呼び出しました。

 「君たちが守るべき決まりを与えるから、取りに来て。これを守ればみんなを祝福するし、守らなければ知らない」

 そこでモーセは山に登り、山頂で10の決まり事が書かれた石板を受け取りました。これが「十戒」です。この十戒の教えは今でもユダヤ教徒やキリスト教徒の間で生き続けています。

 「十戒」には、ざっくりこんなことが書いてあります。

・あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない
・あなたは自分のために偶像を造ってはならない。
・あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。
・安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
・あなたの父と母を敬え。
・殺してはならない。
・姦淫してはならない。
・盗んではならない。
・偽りの証言をしてはならない。
・あなたの隣人の家を欲してはならない。
(出エジプト記 20章3~17節)(抜粋)
 さてさて、この出エジプトの旅についてのエピソードは書こうと思えばいくらでもあります。

 本当はそんなに遠い道のりではないのに、イスラエルの民は神様を怒らせたので「もう、君たちが生きているうちには到着させてあげない!」と言われ、いろいろと迂回や停滞を余儀なくされ、40年もの時間がかかったからです。

 イスラエルの民は、割れた海を渡ってエジプト軍から逃れたあとも「お腹がすいた」「喉が渇いた」「疲れた」「不安だ」と次々に文句を言い、何度もモーセを困らせ、神様の手を煩わせました。

 そのたびに神様は「君たち、なんで私を試すようなことばっかり言うの!?」と怒り、彼らもその場では「すみませんでした」と言うのですが、またしばらくすると不満を言い出すのでした。

 神様の予告通り、エジプト脱出を体験した人たちがみんな死んで、すっかり世代交代を終えた頃、イスラエルの民はようやく約束のカナンの地に着きました。

 この世代交代の波にはモーセ自身も勝つことができませんでした。モーセはカナンの目と鼻の先まで来ながら、カナンに入ることはできずに亡くなります。

 そして後継者であるヨシュアを指導者として、この長い旅は終わりを迎えたのです。

 この旅はエジプトから脱出する旅でしたが、「脱出」はキリスト教においてなかなか大切なキーワードです。

 この「エジプトからの脱出」のほかに本書『キリスト教って、何なんだ?』でも紹介している「バビロン捕囚からの脱出」も旧約聖書上、大切なエピソードですし、イエス・キリストのしたことは「人々を罪とその悪影響から脱出させる」ことだからです。

 たとえば何か悪い習慣から「脱出」するのはとても難しいことですが、その悪戦苦闘とこの「出エジプト記」に記されているモーセ一行の悪戦苦闘を重ねれば、「いつかモーセのように神様によって脱出できるのだ」と励みになることもあるんです。
部分引用

MARO 1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。
キリスト教ではない家に生まれ、23歳のときに洗礼を受けた「クリスチャン1世」。ツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」と「ふざけ担当」のまじめの方でもある。2015年2月からキリスト教を面白おかしく紹介しはじめたところ10万人以上のフォロワーを獲得した。

※蝦夷・アテルイ(阿弖流為)の解説



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