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永遠に答えのでない問い

母が亡くなってから、しばらくして
生きている意味がわからなくなり、
どこへ行っても何をしても、
死にたい、としか考えられなくなった。

と同時に、

母がなぜ、死を選んだのか、
なぜ、本当に決行してしまったのか。

草花に霜が降りれば「かわいそう」と鉢を動かし、
鳥のさえずりが聞こえれば、窓辺まで寄って行き、
「ジョウビタキだよ、かわいいこと」
「ほら、かりんも見て」
そう笑い、なんでもない日常を喜びに変える人だった。

怒鳴り声は聞いているだけでドキドキし、
何かを言われたら、
言い返す前に涙が出てきてしまう人だった。

それほど怖がりな人が、自ら死を選ぶなんて。
本当に不思議だった。

母が亡くなる5日前くらいだったか、
父に「死にたい」ともらしていたそうだ。
気鬱で、病院にも通っていたとか。
なにをするにも億劫だったそうで、お風呂にも入れなくなっていたらしい。

らしい、というのは
わたしの勘違いで母にひどいことを言ってしまい、
怒りから半年近く会わず、連絡も取らないでいたから
母の近況がわからないでいた。
いつも通りの元気でいると思っていた。

悪いことにコロナが一番猛威を奮っていた時期もあり、
お嫁に行ったほかの娘たちも、会うのを遠慮していて
母は孤独感を募らせていたのだと思う。

わたしが距離を作ってから、1度、メールが来た。
母のことだから、悪く取られないように文章を考え
よほどの勇気を振り絞って打ったメールだったはずだ。
あの時のわたしはそんなことを思いもせず、
自分の感情にまかせて返事をしなかった。

母が亡くなったあの日、
仕事の昼休みに、ふと浮かんだ。
「お母さんに電話してみようかな、メールも返してないから」

それなのに、連日の疲れと寝不足で
仕事が終わってから、落ち着いて電話しようと後手に回し、
一日の勤務を終えてみると、昼休みよりも疲れがのしかかり、
帰るのだけで精一杯
家に帰ってゆっくりしたら電話しよう。
そうこうしていたら、
母が亡くなったと言う知らせを受けた。

今思えば、
なんとしても昼休みに電話をした。
メールだって、すぐに返した。
母に渡そうと買ったクリスマスカードも手渡していたし、
お母さんを誘えないひとりぼっちのドライブは
寂しくてつまらないと、伝えた。
きつい言い方をしてごめんなさい、
いつまでも甘えて怒っていてごめんなさい、と謝った。

あの時ああしていれば
こうしていれば、
何度も何度もそんなシチュエーションが浮かんでは消え、
亡くならないシナリオを描いては
いなくなってしまった現実に引き戻される。

母が死を選んだのは、わたしとの関係が原因だ。

「ひとつのことが原因で亡くなることはありません」

20年間自死遺族の相談に乗っている相談員の方はそう言った。

「最近の医学の研究で、亡くなる方は複数の原因を抱えていることがわかってきたの。あなたとの関係を悩んでいたかもしれないけれど、それだけが亡くなる決定的な原因ではないの」

胃腸が悪かったが、それは随分前からだ。
父との関係も良好ではなかったが、それも随分前からで、折り合いをつけてやっていた。

「理由は本人しかわからないのよ」

アニータ・ムアジャーニーは
どんな時でもすべての人が
その瞬間に持ちうる限りの能力で最善のことをしていると言う。

その時は、そうする知恵しかなかったのだと。

ああしていたら、
こうしていたら、
今思えばであり、

母をなくす前のわたしは、ああしていたら、の知恵すらなかった。
電話しよう、と思い、後回しにすることが、できうる限りだった。

でも、あと30分遅かったら
その間に電話をして、話せていたかもしれない。

どんなに甘い空想をしても、
我に帰れば、がらんとした世界。母はいない。
無邪気にどうでもいいことで悩んでいたわたしには戻れない。

身体の半分は黒っぽく、陰りができたよ。
自分でもわかる。
同世代の、きゃっきゃきゃっきゃした笑いは別次元。
眺めるだけ。

どこにいるの?
いつ帰ってくるの?
なんであんな恐ろしいことしたの?