母が亡くなってから、しばらくして 生きている意味がわからなくなり、 どこへ行っても何をしても、 死にたい、としか考えられなくなった。 と同時に、 母がなぜ、死を選んだのか、 なぜ、本当に決行してしまったのか。 草花に霜が降りれば「かわいそう」と鉢を動かし、 鳥のさえずりが聞こえれば、窓辺まで寄って行き、 「ジョウビタキだよ、かわいいこと」 「ほら、かりんも見て」 そう笑い、なんでもない日常を喜びに変える人だった。 怒鳴り声は聞いているだけでドキドキし、 何かを言われた
母が亡くなってから 考えずにいられなかったこと。 人は死んだらどこへいくのだろう? 葬儀を終えて身体は無くなってしまったが、 なんというか、nothing、ゼロになるのは違う気がした。 この世のどこを探しても、どこにもいない。 でも・・・ 気配というか・・・ かすかに皮膚で感じているそれを この世の言葉で翻訳するならば、 たましい。 そう、母そのものはどこへ行ったのだろう。 身内、友人、知人、宗教、本 いろいろな答えがあったが、 これが唯一の正しい答えというもの
母がいなくなって1年と少し、経つのに 亡くなった当時のことは、いまだ思い返すことができないでいる。 記憶がとても曖昧だ。 火葬場で骨になってしまった母を見ても 感情の凹凸はなく、涙は出るのに、 泣き叫ぶこともなかった。 生きてきた中で、最悪の出来事だったと言うのに。 蓋をするってそういうことなんだ、振り返って思う。 凍った気持ちは、いまだ溶けない。 ただ、話すことで、離し 言うことで、少しずつ、癒えている。 お世話になったのは、 自死遺族の会の皆さんと、 相談ダイア
母が亡くなってから化粧をする気力も湧かず、 しばらくはそのまま。 人前に出れるようになって、 なんとか眉毛だけは描けるようになり、 一周忌と二ヶ月が過ぎた今日、 あ、チーク、つけてみようかな、という気持ちになった。 母が亡くなる前までは 表参道にあるトリートメント専用と髪を切る美容院とをわけて通い、 ネイルやマツエクにも1ヶ月に一度は通っていて 帽子と靴と、洋服が大好きで、 (おしゃれが好きな母の影響もあり) 世の中に溢れている大好きを無邪気に受け取っていたのに そこへ戻