言語の選択とコミュニケーション 〜在日フィリピン人家庭との交流から考えたこと〜

私は一昔前にフィリピン人児童・生徒の授業サポートのアルバイトをしていたことがある。そこでいろいろなフィリピン人家庭と関わってきた。裕福な家庭、貧乏な家庭、片親、両親、頭のいい子、悪い子、いろいろなことがあったが等しく全員が困っていたのが、当たり前ではあるのだが、言語の問題である。

実際に児童生徒が学校生活を過ごすうえでまず基礎になるのが担任教師と保護者の連絡である。連絡は基本的に印刷物を通して行われる。家庭内に日本語の読み書きができる人間がいれば何も困ることはないのであるがたいていのフィリピン人家庭にはいなかった。そこで私たちサポートスタッフが伝達事項を翻訳して保護者へ伝えるのであるが、そこで使われる言語はたいてい英語である。

フィリピンでは英語が書面語として用いられるシーンが非常に多い。実際本国ではほとんどの書類は英語で書かれている。日本で行政の用意した様々な多言語パンフレットにはフィリピン人に対して作られたフィリピノ語版が用意されていることが多い。実際フィリピン人たちは英語版を使っている。フィリピノ語で書かれた書類に目を通す機会があまりないため、読みづらさを訴える人さえいる。

「フィリピン人だからフィリピノ語のほうがわかりよいだろう」と心配りしたつもりが実際はあまり役に立っていない。しかしながらこれは行政の仕事なのであくまで立場上、タイ語やベトナム語など他の国の翻訳があるのだからフィリピノ語もなければ不公平だという意見もあるだろうからこのような運用も存在して然るべきだとも感じる。

我々日本人はつい「○○人だから○○語を話す」が当たり前だと思いがちであるが、ところによっては状況が複雑な場合もあることを念頭に置いていただきたいのである。

さてここで一例を挙げたい。小学生のフィリピン人児童を担当していたときのこと。母親はフィリピン人、父親は日本人だった。母親はフィリピノ語の母語話者で少しの日本語とある程度の英語が話せる。父親は日本語のみだ。その児童は日本で暮らした年月が長く、日本語はある程度よくできた。父親の勧めで英語の学習も続けていたため英語も話せるがフィリピノ語はほとんど忘れてしまっていたようだった。

当時、学校の三者面談があり私も同席して話し合いをした中で児童と母親とのコミュニケーションを何語ですればいいのかという悩みがあった。母親の母語であるフィリピノ語か、これから日本で暮らしていくことを考えると日本語か、あるいは2人の共通言語である英語か。話し合った結果、お互いに共通して理解のできる英語を使うことになった。

フィリピン人と日本人の家庭で英語を使うというのは状況を把握していなければなんとも不思議に聞こえる。日本にいるのだから日本語の使用を勧めるべきだとか、母語継承の観点からフィリピノ語を使うべきだとか、現在の言語教育にまつわる言説を考慮すると親子のコミュニケーションが英語で行われることを好ましくないと言えるかもしれない。

私はこの決定を好意的にとらえた。言語の役割は話者同士が相互に理解し合うための橋渡しである。両者が何人であってどの社会に属しているか、あるいはどの言語を継承するかということはあくまで二の次だ。もちろんこの親子がこれから英語以外にも日本語やフィリピノ語の使用を増やそうとすることを悪いとも思わない。あくまでそれは二者間の合意に基づいて選択されることが好ましいと思う。

言語の選択には常にポリティクスが付きまとう。誰しもが自分の使用している言語がより多くの人に通じたほうが便利だと考えるだろう。英語のように経済的価値が高い言語を話せるようになることに価値を感じるかもしれないし、母語を継承して次世代に伝えることが大事だと考える人もいるだろう。移民についてはとくに現地社会になじむために現地語の習得が大切だと考える人も多い。しかし、言語はまず目の前の他者とコミュニケーションを取るために存在しているのだ。それを蔑ろにして得られる価値は存在しないと断言できる。

多国籍・多民族・多様性へと加速していく現代社会のなかで「言葉を選ぶ」ことがますます重要になってくる。様々なルールやしがらみが増えてきていることに戸惑う人も多いだろう。しかしまず第一に考えることは、相手が自分の意思を正しく理解してもらえるようにはどんな言葉を用いればよいのかということである。


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