もっと野放図に、もっと緻密に、もっと大胆に、もっと戦略的であってほしかった〜六本木EXシアター『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』

2019年9月5日、六本木のEXシアターで上演した『ヘドウィグ・アンド・んグリーインチ』を見た。ヘドウィグは浦井健治が、イツァークは女王蜂のアヴちゃんが演じた。翻訳・演出は福山桜子。歌詞は及川眠子。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』は、ロック・ミュージシャンのヘドウィグが、自身のバンド「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」のライブの中で半生を語るという形式を持つ。
東ベルリンで生まれ、西側世界のロックを聞いて育ったハンセルは、アメリカの軍人ルーサーと結婚して渡米するため性転換手術を受け、ヘドウィグとなる。しかし手術は失敗に終わり、股間に「アングリーインチ」が残される。アメリカに渡りルーサーと離婚したヘドウィグは、ベビーシッターを務めた家で青年トミーに出会う。トミーにロックの手ほどきをし、「トミー・ノーシス」という名を授け、曲作りをする中で、ヘドウィグはトミーが原初の「カタワレ」であると感じる。しかし、「アングリーインチ」を持つヘドウィグを拒絶し、トミーはヘドウィグが作った楽曲を手に逃げ出し、ロック・スター「トミー・ノーシス」となる...。
といったことが、楽曲と合間の語りを通して綴られる。「トミー・ノーシス」がNYでライブを行うのに併せて、ヘドウィグはトミーに接近し、NYでライブを行うという設定になっている。

ジョン・キャメロン・ミッチェル監督・主演の映画版は見ていたが、実は舞台で『ヘドウィグ』を見るのはこれが初めてである。
ライブハウスという一つのハコの中で事が進むことで、ライブとしてコントロールできている状態から、徐々にコントロールできずに表出してしまうものを観客に提示してしまう状態への推移を、ミュージカルとして表象するという仕掛けの高度さが映画版よりも際立ったような感じがした。
ロック・ミュージカルでは、PresentationとRepresentationの間の齟齬や揺らぎが作品の質にダイレクトに関わってくるとわたしは考えている。『ヘドウィグ』は特に、語るうちにヘドウィグがナーバス・ブレイクダウンを起こすという内容も相まって、PresentationとRepresentationの濃淡というか推移を繊細に取り扱う必要がある。

では、六本木EXシアターでの上演はどうだったかというと、残念ながら『ヘドウィグ』という作品が要請する繊細さを表現できていなかったと感じた。
そもそも、ハコが大きすぎる&清潔すぎるのが『ヘドウィグ』のクオリティ向上に資するものでなかった(なんとも贅沢な話ではあるが)。
また、演奏者がコントロールすることで喚起されるライブの野放図なドライブ感も、アンコントローラブルになっていく様を演劇として表象することで醸される緻密な緊迫感も、どちらも振り切りが今ひとつ足りておらず、中途半端に感じた。
たとえば、「アングリーインチ」のメンバーとしてバンドが機能している時と『ヘドウィグ』に劇音楽をもたらす役割としてバンドが機能している時の切り替えは、もう少し明確でもよかったのではないか。
たとえば、楽曲の合間のヘドウィグの語りや、しばしば生じるヘドウィグとイツァークの衝突が、終始どうにも小噺感が滲み出ていて、それが(ステージ・ミュージカルという土台の上での)ライブ・パフォーマンスのエネルギーを削いでしまっていたのではないか。
などと考えてしまった。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』が鮮烈で強烈で蠱惑的でカッコいいのは、内容だけでなく形式の面でも、対置される二項の境界を、身を呈してずらして揺るがして突き抜けていこうとするからだと、つくづく実感した。
それは並大抵の技量や美学ではなし得ない。下手をうったら、どっちつかずで中途半端でお寒い『ヘドウィグ』になってしまうからだ。
今回の『ヘドウィグ』は、残念ながら突き抜けたものには至っていない。

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