まじめはふまじめ、ふまじめはまじめ〜鮭スペアレ版『マクベス』横濱公演

2019年2月10日、「鮭スペアレ版『マクベス』」を山手はゲーテ座で見てきた。鮭スペアレの上演を見にいくのは、これが初めてだった。ゲーテ座に行くのも。
鮭スペアレ版『マクベス』は見せ場を切り出して繋げているため上演時間が70分とコンパクトなのだが、この作品の持つ緩急は殺されていなかった。テキスト・レジのうまさが窺える。

上演はというと、能に歌舞伎、坪内逍遥、舞踏、テクノ・ミュージック、ローラースケート、漫才など、日本の新旧芸能をあれもこれもと混ぜ込んでお祭り騒ぎといった具合だった。

舞台奥の壁には「平成最後のマクベス大会」と太文字で銘打たれた、銭湯もかくやというダイナミックな絵が描かれた幕が飾られている。
テクノ・ミュージックが流れミラー・ボールがくるくると回る中、光GENJIや漫才芸人を彷彿とさせる衣装をまとった俳優たちが、音楽に合わせて舞台上で気だるげに踊っている。
花道の先には足場が組まれ、上段には赤いジャージ上下と赤い袖なし羽織をきたマクベスが、下段にはスカートが丈長のセーラー服を着た女性(のちに魔女とわかる)が木魚を叩いている。
定期的に響く木魚の音に合わせ、俳優たちは一人ずつ観劇スペースの真ん中に設けられた幅広の花道を闊歩する。まるでマクベスに存在をアピールするかのように。

このように、上演スペースに足を踏み入れた途端、平成最初期のちょいと懐かしいカルチャーを浴びせかけられたわけだが、いざ開幕すると俳優たちは坪内逍遥の訳した台詞を、謡曲を思わせる節回しで語り始める。
また、ここぞという独白は、地謡の役割を担う俳優によって謡われる。
そして、マクベス夫人が精神的に高揚あるいは逼迫した場面では舞踏を思わせる身振りが現れる。
かと思えば、漫才コンビや漫才トリオ(キャッツアイか?)的なだらっとした肩の力が抜けた台詞が発せられる。動く森はまんまモリゾーだ。

「現在」(というには平成最初期はもはや「近過去」かもしれないが、昨今ではトレンドの焦点になっているので「現在」と言ってしまってよいだろう)と「過去」とを反復横とびする遊びは、「正典」とされる作品へのアクセシビリティを増すために一役買っていると感じた。
「綺麗は穢い、穢いは綺麗」ならば、「現在は過去、過去は現在」の姿勢はまさに『マクベス』的なのだろう。

また、能の地謡システムや舞踏的身振り導入は、野放図で「ふまじめ」に見えて「まじめ」な演出効果を有していると感じた。
マクベスとマクベス夫人の独白(の一部)で地謡システムが用いられていたと記憶している。独白を俳優が語るのではなく地謡に謡わせることで、独白の言葉と俳優の身体との間に距離がうまれる。
この仕掛けにより、鮭スペアレ版のマクベスとマクベス夫人は、身の丈に合わない野心を掲げてイキって飛び込んでいくタイプというより、どこか遠くに輝く野望に魅入られて引きずり込まれるタイプであるように感じられた。

マクベス夫人の有名な「私を女でなくしておくれ」の部分と「まだ手に血がついている」の部分では、地謡に独白がアウトソーシングされるだけでなく、身体の一部を強迫行為的に動かす振り付けがほどこされていた。
前者では、崩れ落ちそうになっては踏ん張る下半身と、王位簒奪を鼓舞するかのように肘を小刻みに、だが大きく振り回す動きが印象的だった。上半身と下半身はアウト・オブ・ジョイントの状態におかれ、肘の動きに他の部位が引っ張られる。独白の外注とあいまって、マクベス夫人にとって野望の実現が手に負えないものであったことがこの時点で表されている。
また後者では、手のひら同士をこすり合わせている内に、いつの間にか拍手のようにリズミカルな動きへと変わっていった。地謡に独白が担われ、「こびりつく血を落とす」という当初の目的からは逸脱した動きと音に耽溺している様子は、思考と動作の連関の脱臼が描かれていた。

見ている最中と直後は、正直、平成最初期カルチャーと折衷することで何を表したかったのかが掴めなかった。しかし、上に記した能や舞踏の要素が「ふまじめな遊びであると同時に、まじめに演出意図を持っている」ことを踏まえたときに、平成最初期カルチャー導入の意義が見えた気がする。
伝統芸能や前衛が取り込まれたとなると、それだけで「まじめ」な背景や意図や効果を期待してしまう。題材が超ド級古典「シェイクスピア」ならなおのことだろう。
だからこそ軽薄でちゃらけた平成最初期カルチャーにぶち込んで渾然一体ごたまぜにすることで、伝統や前衛が帯びるいかつさは「まじめはふまじめ、ふまじめはまじめ」にまで柔らかくなるのだ。

マルカム新王即位が宣言されたあと、マクダフの槍に貫かれたマクベスの首が「トゥモロー・スピーチ」と「綺麗は穢い、穢いは綺麗」と併せた独白を語る。黒布によるおざなりな生首演出とぎょろりと寄り目に剥いたマクベスの顔による締めくくりは、チープさが乾いた笑いを誘うとともに虚しさが立ち込める。お祭り騒ぎの終焉が帯びる、あのどうしようもない虚しさだ。
鮭スペアレ版『マクベス』は最後まで、「まじめはふまじめ、ふまじめはまじめ」に貫かれていたのである。

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