疾走しながら考え、語る〜二兎社『私たちは何も知らない』

2019年12月12日に二兎社『私たちは何も知らない』を見てきた。作・演出は永井愛。
2019年12月22日まで東京で、その後全国各地での上演が予定されている作品であるため、ネタバレが気になる方は回れ右をしてください。


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平塚らいてう(朝倉あき)を中心に、「青鞜」の編集・発刊に関わった女性たちの議論と疾走の数年間を描いた作品である。
平塚はそのカリスマで尾竹紅吉(夏子)や伊藤野枝(藤野涼子)を惹きつけ、保持研(富山えり子)や岩野清(大西礼芳)らと支え合いながら「青鞜」の編集・出版に追われる。だが、奥村博・尾竹との三角関係のもつれや経済的困窮、世間からの反発に見舞われ、伝播し浸透する軍国主義に押され、彼女たちは疲弊していく。それでも、彼女たちは語り、書き、発信を続けていく...。

青鞜社が活動していたわずか五年ほどを範囲とした、密度の濃い物語である。上演時間は休憩込みで三時間ほどなのだが、場面単体は決して長くなく、会話もテンポがよく次々繰り出さてスピーディーなため、退屈しなかった。
すでに多くの批評やブログ、感想で書かされいる通り、『私たちは何も知らない』は、青鞜社の人々・青鞜社内の出来事・青鞜社が立ち向かった問題を現在へと接続させることが、ストーリーのレベルで演出のレベルでも強く意図されていた。
各幕の幕開けと幕切れには「原始、女性は太陽だった」というかの有名な宣言がAZUMA HITOMIによるラップで語られる。誌上で女性たちが自らの言葉を模索し、形式を自ら整えて語りかけるという行為の新しさは、2019年の文脈でいえば女性ラッパーたちのパフォーマンスにあたる、という読み替えには納得させられた。
また、登場人物の衣装は皆現代風である。平塚の服は伊勢丹で展開されるデザイナーズ・ブランドっぽく、岩野は三越や松屋っぽい、など、各人物の個性にフィットしていてよかった。

登場人物の造形や関係の築き方も多面的でよかった。
他者への訴えかけ方は相容れないながらも「青鞜」を作り上げる仲間である平塚と岩野の信頼関係、爆発的な行動力と筆力を見せるが形式を整えることが不得手で編集記に愚痴を描いてしまう伊藤、「青鞜」の理念に基本的に賛同しながらも妊娠・出産・母性をめぐる議論になると冷静さを欠いてしまう山田わか(枝元萌)など。
一筋縄ではいかない登場人物たちの描かれ方はあくまで軽妙で、だからこそ平塚に「私たちは何も知らない」ことが突きつけられるラストの恐ろしさ、やるせなさが際立つ。
劇中、平塚が青鞜社の運動の結果を省みる箇所がいくつかあった。今蒔いた種が未来にどのような芽を見せるのか、「私たちは何も知らない」。
同時に、彼女たちの耕す思想が社会への呼応という側面を持つ以上、未来にその社会が様変わりした時、発露される思想も変化を余儀なくされる。が、未来のことは「私たちは何も知らない」。
出来ることは、ただひたすら疾走しながら思索し言葉を紡ぐことなのか、ということを考えてしまう幕切れだった。

以上のように、見応えのあって充実した時間を過ごせたのだが、唯一難点をあげるとしたら台詞回しである。
現代風の日常的な口調と登場人物たちが記した記事や書簡、日記の文体がシームレスに混ぜ合わされているという、発話の難易度が高い作品であるというのは窺える。だがそれにしても舌の縺れが目立ち、作品の疾走感が損なわれかねないほどだった。
これから回を重ねていくことでより洗練されていくことを願っている。

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