根のない「さりげなさ」〜You're a Good Man, Charlie Brown

2019年芝居初めとして、1月10日にシアター風姿花伝に"You're a Good Man, Charlie Brown"を見てきた。
Sweet Arrow Theatricalsが昨年夏に同劇場で上演したものの再演である。
数年前にシアタークリエで別プロダクションが上演したのだが、見逃していたのでこの機会に、と思って見に行った。
Sweet Arrow Theatricalsは日本語ver.と英語ver.とがあり、わたしが見た回は英語ver.の最終日だった。ちなみに、格別英語ver.を見にいこうと思って行ったわけではない。

"You're a Good Man, Charlie Brown"は、チャールズ・M・シュルツのコミック・ストリップ『ピーナッツ』を題材としている。
1967年にオフ・ブロードウェイで初演を迎えたのち、1968年にはオン・ブロードウェイで上演された。1999年のブロードウェイ再演時には、『レント』オリジナル・キャストのアンソニー・ラップがチャーリー・ブラウンを、『ウィキッド』オリジナル・キャストのクリスティン・チェノウェスがサリーを演じたことでも知られている。
日本初演時(1977年)は、坂本九がチャーリー・ブラウンを演じていたらしい。びっくりである。大学生の時に読んだ写真たっぷりの『ミュージカル◯選』みたいな本には、小堺一樹がチャーリー・ブラウンに、市村正親がスヌーピーに扮している写真が掲載されていた記憶がある。

本作には、ストーリーらしいストーリーは展開されない。シュルツのコミックよろしく、チャーリー・ブラウンとその仲間たちの生活の端々を描いた短い場面がつなぎ合わされていく。
チャーリー・ブラウンが凧揚げに失敗する場面であるとか、毛布を取り合うルーシーとライナスのやりとりであるとか、フライング・エースとして空駆ける夢想にスヌーピーがふけるであるとか、ベートーヴェンに入れ込むシュローダーの様子であるとか、ルーシーの精神分析に悩みを打ち明けるチャーリー・ブラウンであるとか、原作コミックを読んでいたらおなじみの描写が次から次に出てくる。

1999年のブロードウェイ再演時の劇評を見るに、"You're a Good Man, Charlie Brown"が「見られる」ものになるには「さりげなさ」や「肩の力が抜けた感じ」が重要であるとのことだった。その指摘には賛同する。
冷笑とも諦念とも異なるとぼけた雰囲気、不安や喜びや怒りや悲しみ等々諸々の機微の中に真理を掴まえてしまっているような、あの独特の達観した雰囲気を表現するには、「さりげなさ」で以って「肩の力が抜けた感じ」をどれだけ打ち出せるかが重要となるだろう。
ところが、わたしが今回見たヴァージョンでは、「肩の力が抜けた感じ」を「腹筋の力を抜いた感じ」とでも読み替えてしまっていたかのようだった。
英語の台詞が舌の上のみで転がされているため、客席いっぱい満たす声にはなりえず、気が抜けているように聞こえると同時に顎の力みには目がいくという具合で、「さりげなさ」「肩の力が抜けた感じ」とは逆方向に向かっているようだった。どこか棘があって、所在がない。

「さりげなさ」を表現することは、至難の技だと思っている。
フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのダンスなど、優雅さと「さりげなさ」が見事に共存しているが、その前段には地道なトレーニングとリハーサルの積み重ねがある。
茶道の点前で、気負わずに「さりげなさ」で以ってお湯を汲んで茶碗に注ぐようになるまでには、やはり稽古を重ねる必要がある。
"You're a Good Man, Charlie Brown"の肝となる「さりげなさ」にも、それを叶える土壌としての心技体が耕されている必要があるのだろうと考えられる。わたしが今回見たヴァージョンについては、残念ながら、土壌が豊かに整っているとは感じられなかった。

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