可能性を感じさせる作品〜TipTap『フリーダ・カーロ 折れた支柱』

2019年8月6日、TipTapのオリジナル・ミュージカル『フリーダ・カーロ 折れた支柱』を見てきた。脚本・演出は上田一豪、音楽は小澤時史。彩吹真央、今井清隆、石川禅など、大劇場に立つことが多い俳優陣を小さな劇場で見られるのは贅沢だった。

タイトルの通り、メキシコの画家フリーダ・カーロの生涯に焦点をあてている。実在の人物の死から始まり、語り部によってその生涯が語り直されるという趣向は、『エビータ』や『エリザベート』を彷彿とさせる。
本作品での主な語り部は石川禅演じるレフ・トロツキーなのだが、今井清隆演じるディエゴ・リベラや、麻尋えりか演じるフリーダの妹クリスティナら、フリーダの人生に関与した人物が要所要所で語りを行い、情報を付け加えていく仕組みとなっており、そこには独自性が見られた。
また語り直しは決して直線的には進まず、トピックごとに行きつ戻りつする書き方は、単純化を避けようという作り手の姿勢が窺えるようで好感を抱いた。

休憩なしの2時間、大きな破綻はなくエネルギッシュに進む舞台を楽しんで見ることができたわけだが、いくつかうまく機能していないと感じられる部分があった。

まず、歌詞がメロディの起伏や音楽のリズムと噛み合っておらず、うまく聞き取れない時が少なくなかった。ミュージカルにおける歌詞はセリフであるとはよく言われるが、それはパフォーマーに投げかけられるアドバイスであることを忘れてはならない。作家が同じ感覚でいるのは不味いとわたしは感じる。セリフと同じ言語感覚では歌詞は成立しない。なんのためにメロディに乗せているのかという話になる。
オスカー・ハマースタイン二世やベティ・コムデン&アドルフ・グリーンなど、脚本も歌詞も担当した作家はミュージカル史上にたくさんいるが、彼・彼女らの書く歌詞は(あえて聞きづらさを仕掛けとして使わない限り)詞として練られていて歌いやすく耳なじみが良い。これは、彼・彼女らが作曲者と密に連携をとっていたから可能になったこととも言える(作曲者と連携がうまくいってない作品は、歌詞が冴えないことはよくある)。言語表現をブラッシュアップするだけでなく、作曲者とのコラボレーションのあり方を見直すことも大事なのではないか。
また、『ウェストサイド物語』のように脚本家と作詞家が別個であることもミュージカルでは珍しくない。そのような可能性を考慮に入れても良いのではないか。

次に、本作ではフリーダの生涯が語り直される際に、フリーダのアルター・エゴのようなキャラクターが配置されていたのだが、機能しているとは思えなかった。コリ伽路の深みのある歌唱は素晴らしかった分、残念だった。
劇の序盤、思うように動けないフリーダが絵を描きながら、部屋から飛び出す「もう一人のわたし」について歌う。その「もう一人のわたし」はフリーダの感情が高ぶった時に歌を代理する役割を担っていたように見えた。
だが、自身をキャンバスに落とし込み凝固させ記憶させることに画家としてのモチベーションが置かれていたとして、絵がすでに雄弁なアルター・エゴとして位置づけられているため、わざわざ俳優をアルター・エゴとして配置する必要性を感じなかった。
また、萎縮する右足や事故の後遺症、流産、度重なる手術に鎮痛剤とアルコールへの依存など、生涯にわたって痛みを抱え続け傷を負い続けた人物であると同時に、ヴァイタリティとエネルギーに溢れ、聡明で自我のはっきりとした人物でもあると本作で描かれている分、本作のフリーダはアルター・エゴを作ってそこに何かを託すような人物には見えなかった。
アルター・エゴを出すのであれば、ただ最初から舞台上にいてフリーダを見つめ時折歌を代理する存在で済ませるのでなく、アルター・エゴであることがわかるタイミングであるとか、フリーダの人生の中でアルター・エゴを要する局面であるとか、フリーダとアルター・エゴの距離感であるとか、そういった諸々を調整する必要があるのではないか。

上記のように結構クリティカルなポイントで引っかかる作品ではあったが、選ぶ題材やフリーダの人生の切り取り方はよかった。また、舞台美術はすばらしかった。そっけない木組みの空間にどんどんフリーダの絵が飾られていき、劇の幕切れに最後の絵がバックウォールに大きく現れていく。シンプルな部屋で眠っていた一人の女性からはじまり、彼女の絵が空間を満たして終わるという明確な流れを活かす舞台美術だった。
引っかかるポイントはあれど、それを差し引いても熱のこもった上演だったので、たった一週間の上演で終わってしまうのは正直惜しいと感じた。さらに練って練って再演してほしいと思った。

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