羽衣作品と仲良くなるための口パク〜FUKAIPRODUCE羽衣『スモール アニマル キッス キッス』

実に5ヶ月半ぶりの劇場だった。9月3日、吉祥寺シアターにFUKAIPRODUCE羽衣『スモール アニマル キッス キッス』を見に行った。深井順子:プロデュース、糸井幸之助:作・演出・音楽、木皮成と根本和歌菜:振付という布陣である。

FUKAIPRODUCE羽衣(以下、羽衣)の作品とは水が合わないという自覚は常々持っているのだが、羽衣のキャッチフレーズである「妙ーじかる」を今回は口パク(リップシンク)で行うと聞き、これは見に行きたいと思って迷わずチケットを取ったのだった。

吉祥寺での公演は9月7日まで続き、その後三重での公演が9月12日と13日に行われる予定であるため、また、配信は9月13日まで延長されたため、ネタバレが気になるという方はここまでにしておくことをオススメする。

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客席に座ると、南国リゾートを思わせる衣装を着た俳優たちが小さなビニールプールに空気を入れていた。上を見上げれば逆さに吊り下げられ蓋のあいた水筒、水筒、水筒。夏や海、あるいは水がモチーフとして使われることを予期させる。
とはいえ、『スモール アニマル キッス キッス』は、脈絡に欠ける楽曲の羅列で展開していくレヴュー形式を採用している。夏や海、水を扱う楽曲が多いと同時に、夏や海、水との関連が見えない楽曲もやはり複数盛り込まれている。糸井幸之助の音楽と歌詞は、脈絡のなさをイマジネーションの奔放さへと転換して最後までドライブしていくパワーに満ちていると感じた。糸井の音楽と歌詞に引っ張られるように、ビニールプールはベッドにもなれば、ベルトコンベアで運ばれる商品にもなれば、空に打ち上げられる花火にもなる。(水筒は、水筒だった。)

今回の公演は、COVID-19流行下ということもあって、基本的に歌は事前に録音され、俳優は口パクで舞台に立つ。(全ての音声が、ではないと感じた。十分に距離が確保されている場合には肉声も発せられていたように聞こえた。本当に時々であるが。)
熱心なファンではないと自覚しているにもかかわらず今回の羽衣公演を見に行こうと決めたのは、『スモール アニマル キッス キッス』における口パクが感染症流行下でも演劇を上演するために止むを得ず採用された次善の方策なのか、それとも、口パクであることの意義が看取されるのかが気になったからである。
上演については、前者のウェイトが重たいながら、両方だと感じた。他方、羽衣作品に対するわたし自身の考えに対して、口パクであることが思いがけずポジティブに作用することとなった。

改めて言うまでもなく、口パクは音声と身体の分離だけでなく乖離を伴う。
「流れてくる声は、わたしの身体から今ここで発せられた声ではない。」
この時、どのような表現が可能となるか。
実はミュージカル映画ではすでに実践が重ねられている。映画の吹替を巡って大騒ぎとなる『雨に唄えば』、強面のギャングたちから鈴を転がすような声のコーラスが流れてくる『ペニーズ・フロム・ヘヴン』....。
ドラァグ・パフォーマンスも忘れてはならない。スタンダード・ナンバーやポップ・チューンを携えて踊り、ポーズを決めるクィーンたちの身体性。
以上の例に対してわたしは、目の前に現れた身体が、その身体に属する音声とは異なる声を背負っていることでキッチュであること、(様式としての)キャンプであることを思わず愛でてしまう。

他方『スモール アニマル キッス キッス』は、身体と声の分離・乖離という点では事前に想定していたよりも遊びの少ない「ベタ」な処理をしている。
一つの身体に対して一種類の声。たとえば歌の途中で別人の声に変わるといった仕掛けはない。
舞台上の身体からかつて発せられ録音されたものとして、違和感なく認識できる声。俳優の移動に合わせて歌声を流すスピーカーも移り変わるため、大規模劇場でミュージカルを見る時に時々起こる、声だけがスピーカーから聴こえてくる事態もほとんどない(俳優たちが口をつぐむ中で音が流れ続ける瞬間を除いて)。

このように声と身体の切断については、声の操作(機械的にせよ、そうでないにせよ)を通じて何か表現せんとする契機は上演のレベルではほとんど看取されなかった。口パクである時点で身体と声は分離しているのだが、可能な限り紐帯を作り保ち続けようという意図が感じられた。

いつか肉声で上演したいという劇団リーダー深井順子のツイートからは、あくまで口パクは上演を実現するための方策と位置付けられていることが読み取ることができる。

もちろん振付に目を向けてみれば、肉声で上演した場合には歌との両立が到底不可能であろう激しい振付が施されており、ここには口パク表現の可能性が探られていたと言える。たとえば、半分の歳の男女の擬似心中の曲(正確な曲名を失念してしまった)では、ポップな歌とハードな振付の共存が見ものである。
だが、歌との両立が不可能な振付はあっても、振付との両立が不可能な歌(技巧的な意味でも機械的な意味でも)は『スモール アニマル キッス キッス』には感じられなかった。
この非対称性を考えるに、口パク、というよりも歌や声に対して本作品は極めて直球。真正面。素直。個人的には捻りに欠けると感じられた。

以上は口パク表現自体への(批判的な)感想であったが、同時に、口パクだからこそ『スモール アニマル キッス キッス』を楽しめた部分も確実にある。
冒頭で羽衣作品と水が合わないと書いたが、具体的には、羽衣の(異)性愛主義およびその表現スタイルと水が合わないと感じたのである。「愛」と「性」と「生」の業を腹・胸・喉から声を張り上げて歌いあげられる時に感じた、曰く言い難い憐憫し合い傷の舐め合いのネトつき。そこに取り込まれたくないとわたしは感じた。

ところが、「口パク」という処理が挟まれることで、身体と声の結びつきを可能な限り希求しているとはいえ、それて否応なく声と身体が切り離されることで、舞台上での表現が括弧で括られたように感じられたのである。
口パクは、大真面目に踊る俳優たちの真面目さ自体をおかしげに見せ、歌詞で表現される「人間の業」のアレコレのベタさを軽やかにする。この視点で各曲を思い返すと、たとえば「れいわダンシングクラブ」はバカバカしさが際立って感じられて結構お気に入りである。また、親友のためにクレイジーなことをやらかす自分に酔い気味な姿を生真面目に見せる「ハンドクラップマン」。まさに様式としてのキャンプ。
キャンプとしてなら、羽衣作品とうまく向き合える気がする。


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