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なんとか言葉を絞り出す #坂本龍一

なんとか言葉を絞り出すことにしよう。

音楽の素晴らしさを学んだのがブライアン・ウィルソンで、音楽をつくることの出発点がYMOで、社会と自分をつなげる出発点が坂本龍一でした。ちょっと数日間、情緒を保てるかな・・・というぐらいの喪失。必須業務はこなして雲がくれしたいとさえ思う。

みんな旅立ちすぎ。

ずっと坂本龍一を流しながら、時折友人や上司と悲しみに暮れている今日。会社は大きなプレスリリースを打って、新発表をする日だが、それをセレブレートする気力のタンクは、坂本さんの死により空になり、大変申し訳無いが、自分のチャネルにおいてそれに言及する気は一切起きない。

ひとりでじっくり考え進める仕事をしていよう。ブレストと新しい僕自身の役職の肩書きに明け暮れている。副編集長でも編集監督でもない、自分の職能と担当領域を考える個の時間を過ごすこと。それで、なんとか心を保っている今日。

僕が初めて知った社会活動家はジョン&ヨーコだったけど、自分の暮らしと地続きな社会活動家は坂本龍一だった。

ジョン&ヨーコは、僕と出自があまりにも違うし、解決しようとする社会課題もグローバルすぎていて、かつ音楽そのものにメッセージを込めすぎた暴走が、実は僕は一切共感できない。『イマジン』まではいいんだ。でも『兵隊になりたくない』とか『サムタイム・イン・ニューヨークシティ』とか苦手。

言葉や主義主張を伝えるための音楽は、僕は嫌いなんだ。僕には、歌詞というのはサイドディッシュであり、音楽はあくまでリズムがあり通奏低音があり和音進行があり主旋律があり・・・というものだ。僕は歌詞を味わうために音楽を聴くことは一切ない。(余談だが大滝詠一がいつだか「日本のポップスは歌詞なんだよ」と諦念を漏らしていた記憶がある)

坂本龍一は、社会活動家としての活動領域が大きくなることで、音楽がそういった社会課題や不公平へのクレームに満ちていくことはなかったんじゃないか。

音楽は音楽だった。

たとえば、『async』という晩年の傑作は、自然環境の変化や社会情勢を音像と限られた旋律で表現した。僕はそこにジョン&ヨーコに抱けない、でも坂本龍一に抱けるシンパシーがある。

飯野賢治が言っていたことに近くて、音楽を細野さんに学び、社会を坂本さんに学び、ファッションを幸宏さんに学ぶのがYMOというもので、一種、学校として向き合うようなバンドだった。 3人それぞれを受講し、色々学んで、僕は細野派なのだけれど、残りふたりの存在が小さかったわけじゃない。

僕の職場的には、他に書いてほしいことはあるのだと思うけれど、今日明日(?)は申し訳ない、比較的閉じこもる仕事モードになりそう。坂本龍一の膨大な作品を聴きながら、時折同志と言葉を交わし、個で取り組めることに没頭すると思う。

それで許してほしい。いまは一種の喪の時間だ。坂本龍一がいなかったら、きっといまの仕事はしていなかっただろう。その重要なパズルのピースが欠けた時間を過ごしている。数ヶ月前に父を失ったときと同じ。過ごした時間の長さや影響の大きさは違えど、「〇〇がいなかったら」という存在だ。

それにしても、僕に大きな影響を与えた人の死があまりにも相次いでいる。
そして、みんな若い。

僕も人生は短いかもしれない。祖父母たちは元気に90過ぎまで生きたが、この過剰に便利で、身体に負荷をかけずとも生きていける社会では、免疫力も体力も落ち、そんなに長生きできない身体かもしれない。

いつ死んでも後悔ないように。それを信条に生きているけれど、ムダでやりたくないことを断ったり、自分の可能性に博打をすることをしていかないと。自分の人生を人に左右されないように、必要なわがままは告げていかないと、と思う。(そして健康第一)

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