月洛/keera/TinyMoon

石川 月洛(いしかわ つきみ)◆ Kindle一覧 → https://amzn.to…

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最近の記事

    しきたりの後ろ姿

    「背中が割れそうに痛いので、早退させてもらえませんか」  と、隣の席の青年が上司に言った。 「どうしたの、だいじょうぶ?」「どこかにぶつけたの?」「寝違えた?」「内臓疾患って場合もあるらしいよ」「病院行きなさいよ?」「いや接骨院の方がいいわ」「病院なら整形外科」「あそこの病院はヤブだから行っちゃダメ」「スポーツ選手のお兄さんがやってる整体のお店が近くにあるけど」「ああ知ってる、評判いいらしいわよ、そこに行くといいわ」「でも整体って徐々に治すものでしょ? 痛みを抑えたいなら病院

    しきたりの後ろ姿

    蘇芳累

     ゲームオーバーだね。  少し力なく顔を歪まて笑いながら、読み終えた本をパタンと閉じるように、すんなり終われると思っていたんだ。ボクにとって、この世界のリアリティなんてその程度のものだったから。  立ち上がりかけてふらついて、踏ん張った。四本の足。  暗い雨の中、電車の灯りと轟音が、ボクを追い越して行った。  世界はあたりまえに存在している。  思い出そうとして、ひどくくたびれていることに気づいた。  意識を保っていることが面倒でしかたなかった。  それで、そのままトテンと、

    天使由来

     頭が蒸れてすっきりしなくて、我慢できなくなって、掻きむしった。美容院で洗髪してもらうみたいに、でも、爪を立てて。髪に覆われた頭皮全体をまんべんなくポリポリ掻いた。イリイリしていた気持ちが少し落ち着いたような気がしてきた頃、最後の仕上げにと、後頭部を両手で抱える格好で爪を立てた。  美容師にそれを指摘されたことはないし、記憶にある限り、頭をケガしたことなんてない。毎朝の洗髪でも、その後にブラシで梳かすときにも、何のひっかかりにも気づいたことはない。今、初めて、わたしは、わたし

    ソニア

     頭は、鈍い銀色のトレイに、後頭部を下にして、寝かされている。  明るい栗色に脱色された髪は、荒く刈られている。顎のすぐ下の断面は、すでに黒ずんで、骨も肉もはっきりしない。  わたしは、この生首を、ソニアと呼ぶことにした。これから長い時間をいっしょに過ごすことになるはずの相手だ。  命名に理由はない。そもそもソニアが人だったとき、男性だったのか女性だったのかも正確にはわからない。いまとなっては、ソニアが前の名前でなくなった、つまり死んだとき何歳だったのかさえ、不確かだ。  ソ

    雨の痕

     寸足らずなツバメが何羽も電線に止まっていた。  少し日差しの和らいだ夕方の空を背景に、まだ伸びきっていない羽を片方ずつ広げては手入れしている。  地面では、公園の低い街路樹の隙間で猫が1匹くつろいでいた。  脇に自転車が2台止まっている。  おばさんがふたり、猫にえさをやっていたらしい。 「トラちゃん、もう満足したのかしら」 「どこに行った? あら、あなた、お墓の横で寝てるの」 「その石? お墓なの?」 「そうよ、このあいだ埋めたんだもの」  そういえばあそこのお宅でお葬式

    風まかせ

     強い風が容赦なく大気を奪っていく。  僕は、うまく呼吸ができなくて、風に溺れかけていた。  橋の上に差しかかって一層強くなった。  川岸を見下ろすと、骨の折れたビニール傘が3本、蠢いていた。   風は、川の上流から吹いている。  緩やかな流れの上の方は、ねずみ色の雲が風景を隠していて、遠くの山の影がぼんやり見えるだけだ。  その稜線に丸い光が5つ6つ並んで見えていた。  車のライトにしては大きすぎるし、飛行機のライトにしては多すぎる。  訝しんで見ていると、光はみんな一気に

    いにしえの(プロローグ)

     かなり古い本だった。  一見してそうと察することのできる風貌と匂いだった。  本は、図書館のカウンターの上で、異様なエネルギーを発していた。  さっきまでここにいたご婦人は、 「貴重な本なのだから、もっと清潔に保管するべきです!」  と、激しい語調でまくし立て、垂れた上瞼を引きつらせたまま、帰っていった。 「60年かぁ」  僕は、端末モニターの書籍情報を見ながらつぶやいた。  60数年もの間、一度もページを開かれなかったために、蚊は完璧な姿でそこにあった。  貸出期限告知用

    いにしえの(プロローグ)

    欠片の形

     しつこく咳をして吐き出したのは人差し指ほどの大きさの何か。  今度は赤茶けた細長い塊だ。  それは、僕の唾や痰にまみれた体を捻るように蠢いて、姿を現した。  四本の足。先細りした長い尻尾がゆらゆらしている。  反対側には頭があった。口があった。尖った口先を割って、中から黒っぽい舌がしゅるしゅると出し入れされている。目があった。  それは、ウンといきむように身を固くしたかと思うと、背に翼を広げた。  二度三度、確かめるように羽ばたかせた後、さらに大きく広げて、宙に浮いた。  

    振動する記憶

     アンデス音楽が好きだったなぁ、と左足を少し大げさに振って歩きつつ思い出していた。  靴の中にいつの間にか小石がひとつ入っていた。  うまく指と指の間にはさまってくれれば、そう気にならないはずだ、と思いながら足を上自然に揺すりつつ歩いている。  空には夏の雲が盛り上がっているけれど、日陰にはここち良い風が吹いている。  できることなら、スーツではなくTシャツとジーンズで、革靴ではなくスニーカーで、ノートPCの入ったビジネスバッグではなく買ったばかりのデジカメを持って、さらに

    振動する記憶